8-9:誰がために鐘は鳴る
謁見の間の扉が閉じられた瞬間、内側に居た者達は一斉に、それぞれに動いた。
すなわち、マリアーノ、シルヴェストリ、ゴッフリートによって三重の結界が王の周囲に張られた。マリネラはグレゴリオを突き飛ばし、カーペットの脇に転がした。
扉の前に駆け込んだリリアナとステラを投げたユリウスが、左右の兵の腰から同時に剣を抜き取り、抜いた勢いのまま打ち合わされた剣が凄まじい音を立てた。
「何故、母を利用した! 答えろ!」
角度を変え次々と打ち込まれるリリアナの剣を軽々といなしながら、ユリウスは優美に笑った。
「出来損ないの愚妹に、出来ることを探してやった」
「貴様!」
リリアナの踏み込みから発動した氷の波を、ユリウスは足踏み一つで粉砕した。背後を取ったリリアナの剣を叩き折り、叩き折られ宙を舞った先端をリリアナが蹴り付ける。矢よりも早く飛んだ剣先はユリウスに刺さることなく、ほんの少しの首の傾きで避けられた。
「何故お前が怒るのだ、リリアナ。お前とて、あれを疎んだことがあるだろうに」
「……黙れ」
「嫌だったろう? 己の母親が皆と違うのは。お前の名前さえ呼ばない女を、どうして母と呼べる?」
「黙れ‼︎」
「答えろと言い、黙れと言う。忙しいな」
シルヴェストリを長とする査察部は、各国の市街地や城に民あるいは官僚や兵士として潜入する精鋭の集まりだ。戦闘の心得を持った人材が各騎士団や魔法師団から登用されることも少なくない。
査問会も例に漏れずこの場には元騎士団員と元魔法師団が何人も同席していたが、目の前で繰り広げられる剣戟の凄まじさに誰も割って入ることが出来なかった。リリアナの氷を片足で粉砕し、会話をしながら剣を避ける相手だ。ユリウスを狙ったとて魔法が当たるとは思えない。最悪、リリアナの邪魔にすらなりえる。
「ゴッフリート父上から、三本に一本取れるようになったと言ったか?」
折れた剣でなおも打ち合うリリアナの右手を、ユリウスが掴んだ。
「四本に三本を取れるようになってから私に挑め」
剣を逆手に持ち替えたユリウスの拳が、リリアナの腹にめり込んだ。
「……ッ‼︎」
肋骨の何本かが音を立ててへし折られた。血を吐きながらも掴まれている右手を動かそうとすれば、骨を握り砕かれる。握力を失ったリリアナの手から、剣が落ちた。
「臓腑は弾けていない、腕も千切れない。丈夫なことだ、父上、私、お前、全身を人並み外れた魔力が巡るローレの寵児。もう五年もすれば、誰しもが讃える英傑となったであろうに」
ユリウスがそうなったように。
吊り上げられ血まみれで呻くリリアナの顔を眺め、ユリウスは賞賛した。
「ああ、美しいなリリアナ・ローレ。何故、我が妻はマリネラと己を比べたのだ? 何故、我が娘は己とリリアナを比べたのだ。決して成れぬものと己を比べて、嘆く意味がどこにある?」
それは問いの形をとりながらも、すでに切り捨て終えた答えだった。ユリウスは知っている、彼の妻子は自分達のように成れることは決して無いのだと。
リリアナを鑑別するユリウスの目は、どこまでも正気を保っていた。
「――リベリオ殿を選んだ娘は、良い目をしている」
王妃として長くユリウスの上にあった姪。マリネラの玲瓏な声は、謁見の間によく響いた。
「妻と娘の恨み言は、そんなにも耳障りであったか。ユリウス」
咎めるでも嘲笑うでもない、事実を述べるだけの静かな声だった。
振りかぶりもせず手首だけで投擲された剣は、マリネラの耳をかすめその奥の壁に深々と突き刺さった。
「顔に風穴をあけたくなくば口を閉じよ、美しき化物」
マリネラは壁に刺さった剣を冷ややかに見やり、けれど口を閉じた。
「何故、あの妹からお前のような娘が生まれたのだ? 偉大なる父上から、マリネラではなく何故ルクレツィアが生まれたのだ。あの妹が、お前達のように優れないまでも普通であれば、我が妻も娘も泣かずに済んだであろうに」
マリネラほど優れないまでも王に寄り添える娘であれば、ゴッフリートはルクレツィアを王家に嫁がせただろう。ローレ公爵の娘は王家に嫁ぎ、次代のローレ公爵はユリウスだっただろう。
ユリウスは自らの才を生かすべく学んではいたが、それは次期公爵に成るためではなかった。自らの才覚を民に還元する過程にローレ公爵という地位が存在しただけであり、過程への固執は無に等しく、兄が公爵に指名された時もあの妹であれば当然であるとさえ思った。
ただ、泣き言を繰り返す妻と娘は疎ましかった。ユリウスにとって彼女らの泣き言は、あまりにも見当違いなものであったがゆえに。
「……私は、母が好きでは、ありません」
「さもありなん」
「ですが、母が教えてくれた言葉で、ひとつだけ、好きな言葉があります」
もごもごと口を動かして血を吐き出したリリアナが、艶然と笑った。
「わたくしの、知ったことではありませんわ」
その一言の威力は絶大だった。すなわち、リリアナの顔はユリウスの拳で殴り飛ばされ、小さな体は床に二度跳ねてカーペットの中央まで転がった。
起き上がれないまでも顔だけを上げたリリアナの目に、折れた剣を振り上げるユリウスの姿が映った。
「処刑を待つ身だが、妻と娘の憂いを除いておくとしよう」
ステンドグラスが織りなす色とりどりの光を浴び、剣を振り上げる様は神々しい。
この場に引き出された罪人が、王に命じられた処刑人のような顔をしてリリアナの首を落とそうとする。驕るな見下すなと繰り返した祖父の言葉を、リリアナは本当の意味で理解した。
誰をも狙い凶行を起こし、自らと同じものを取り除こうとするユリウスの迂遠な自害は、リベリオはもちろんリリアナにも理解が出来ない。
不快だった。優れた者しか映さないユリウスの、母と同じ鳶色の目が、心の底から不快だった。同じにしてくれるなという怒りと、身体の動かない悔しさに床に爪を立てた。
「……お前を除くのは、私では、ない」
ユリウスが見ようとしなかったもの。目に映らなかった人たち。
「そうでしょう――?」
リベリオ兄様、ステラ義姉様。
鼓膜をつんざくような炸裂音とともに、王の背を彩る巨大なガラスが四散した。誰しもが頭上をかばう中、微動だにしなかったのは王を守る三人のみ。
ステンドグラスを貫いて飛来する白い雷。
大気を巻き込んで輝く矢が、剣を持つユリウスの右腕をあやまたず撃ち飛ばした。
ユリウスの目に、粉々に砕かれたガラスが散る様が映る。
ゆっくりと散る色鮮やかな破片の中、青空を背景に立つ鐘楼が見えた。数百メートル先の鐘楼に誰が居るのか、実際に見えたわけではない。
だが、ユリウスの脳はそれが誰かを映した。ユリウスはおろかリリアナにも到底及ばない、妻子の口端にも登らない、出来損ないの妹が産みユリウスが気に掛けもしなかったもう一人の。
「リベリオ・ローレ――!!」
ガラスの欠片が落ち切る間を置かず、飛来した二射目が左脚を撃ち飛ばす。
ぐるりと回りながら倒れゆく視界はやけにゆっくりで、ユリウスは自らの血溜まりにべちゃりと落ちた。
「鐘楼からの撃ち下ろしで七百メートル弱、ローレ夫人が見えるギリギリの距離だ」
巨大な窓枠にステンドグラスがこびりつくばかりの空間から青空と鐘楼を見上げ、マリアーノはひらひらと手を振った。
胸元から取り出した魔石はオパールのような光沢を持っている。魔石を持ち込むことが禁じられている謁見の間に、唯一持ち込みが許容されている魔石。王族のみが所持している回復魔法を込めた魔石を気を失ったリリアナの手に握り込ませれば、柔らかな虹色がリリアナを覆った。
「リリアナは大丈夫。こういった人間は、治りも凄まじい」
この場に回復魔法を込めた魔石は二つ。一つはマリアーノがリリアナに使ったもの、もう一つを持つ者が、血溜まりの傍に立った。
「救わぬぞ、ユリウス」
片腕と片脚を失ってなお、ユリウスはまだ息の根があった。血溜まりに沈む姿を静かに見下ろし、王は告げた。
「とうぜんの、こと、と……」
「口に出せぬ願いは膿む、ゴッフリートが常々言っておったろう」
国王ヴァレンテ・カルダノは、幼少よりゴッフリートを剣の師として仰いだ。ひと回り上のユリウスは兄弟子にも等しく、幾度となく共に聞いた言葉だった。
「なつかしい、言葉……妻子をうとみ、ころすことも、しぬことも、できず……だれをも、まきこんで……」
「許しはせぬ。だが、分かっておるならば、良い」
動かせる口端だけでユリウスは微かに笑った。
「ああ……慣れぬ弓矢など、もつもの、では、ございません、……なあ……」
最期は、自らを嘲笑う言葉だった。
焦点を結ばなくなった鳶色の目、瞬きを止めた瞼を王自らが下ろした。
「誰をも狙う弓矢など……何ひとつ、得られはするまいに」
「ユリウス様、倒れられました」
仕留めたという言葉をステラは知らない。ゆえに、自らの目で見たことを知っている言葉で表した。
弓を下ろしたリベリオがステラの右耳に触れた。見えるものの重さとは裏腹に、久方ぶりの星の目はレンズの薄さと片目の分、普段着けている眼鏡よりも軽かった。
「……見てくれてありがとう。大丈夫、……ではなさそうだ」
「手足が震えて吐きそうです」
「俺もだ」
苦く笑うリベリオの顔も、血の気を失って青かった。
血だまりに沈んだユリウスの傍らに王が立ち、恐らくは何かを話している。ステラが何を見てリベリオが何を撃ったのか、七百メートル先の光景を星の目は鮮明に映した。
「……見てくれてありがとうと貴女に礼を言ったそばから、目を逸らしたくてたまらない」
伯父を撃ち、いまだ弓を離さないリベリオの手は、ステラよりも震えていた。
「私もです。だからせめて、見るものを選べるようにとリベリオ様に結婚を申し込みました。……空が青くて、綺麗だったから」
目元を薄い潮風が掠めた。春が終わり夏を迎え、鐘楼から見る景色は何も変わらない、美しく白い城壁、大きくてまっすぐな大通り、煌めく海面と青い空。ステラが、リベリオがどんなに辛い思いをしても、景色は何一つ変わらず美しくそこにある。
「見るものを選べるようにと願ったはずが、貴方の力になりたいと思うようになりました」
自らのために選んだはずの手段が、誰かのためにと目的を増やした。いつだって変えるのは自分からでしかないけれど、変わったことが良かったのかはまだ分からない。
「ならば、俺は貴女の目が映すものを並んで見よう」
震える手が震える手を取った。
同じものを並んで見ること、互いの目に互いが映ること。それがどれほどの幸運であり幸福であるかを、ステラもリベリオも知っている。
変わる街並みを、変わらない景色を、互いの目に映るものが違わないよう向き合いながら。見て、生きていくのだ。
鐘は鳴る。
空を背に刻を告げ、死者を弔う鐘が、一つの出来事に終わりを告げた。