1-1:婚約は破棄されました
「婚約を破棄させて頂きたい」
と、婚約者は言った。
それはそうだよね、とステラは思った。
応接室のソファーにステラと母、対面に同い年の婚約者とその父が座って向かい合っている。巷で流行っている物語の中のように学校の舞踏会の最中でも王宮の玉座の間でもなく、ここはステラの家の応接間で、婚約者も王子様ではなく極々真っ当で真面目な同級生だ。
そも、高等部商業科に通うステラと彼がなぜ婚約したのか。
ステラの家は『ミネルヴィーノ商会』という宝飾店を生業にしている。対して、婚約者の家は『フランキ商会』という服飾店を生業にしている。互いの家の商いの不足を補い、共に手を携えて栄えていきましょう、おあつらえ向きに同い年の娘と息子がいます、という極々真っ当な商業提携を見越した婚約だったのだ。
さて、ここで問題が発生する。
宝飾店の長女、商業高等部二年生のステラ・ミネルヴィーノこと、ステラはとてもとても目つきが悪かったのだ。
うねった栗毛の髪、前髪の下の眉は険しい山稜を描き、紫色の目を覆う瞼は常日頃から、もちろん今も細く細く顰められている。
「機嫌が悪いの?」と言われるのは優しい方だ、「喧嘩を売ってるのか?」と因縁をつけられて平謝りしたことは一度や二度ではない。栗色の髪だからと、学校でついたあだ名は『イガグリ女』、近所の商店では『イガグリ娘』と呼ばれている。
「ステラ嬢には大変申し訳ない」
と、婚約者の父であり商会の長が頭を下げた。
しかし、ミネルヴィーノ商会との提携を無しにしたいわけでもない、とその人は言う。
「……ステラ、退室なさい」
相手が言わんとせんことを読み取って、母はステラに退室を促した。
「……はい、お母様」
ステラの隣に座る母であり商会長であるジュスティーナは、金の巻き髪と紫の瞳、齢四十を越えて迫力の増した絢爛たる美女である。
元は男爵家の娘だった母は、真面目で無骨な金工職人だった父の指先に一目惚れし、周囲の心配や反対を振り切って嫁ぎ、営業力などカケラもない父のために自ら商会を立てた剛の者でもある。
そしてステラの婚約者だった同級生は、ステラの父と全く同じ職人気質の少年だった。指先は器用で根気があり、職人として大成することは間違いなかったが、営業や経営には不向きである。
つまり、婚約者の父が欲しかったのは真面目な息子を補ってくれる愛想と接客力をもった嫁だったのだ。
婚約を結んだのが高等部の商業科に入学した二年前、ステラとて最初から目つきが悪かったわけではない。目つきが悪くなり、その目を見られたくなくて前髪を伸ばし、ヒソヒソと囁かれる声から逃れようと猫背になり、俯いて下から見上げるものだからさらに目つきが悪く見える。悪循環である。
『イガグリ女』の異名が払拭されることはついぞなく、二年間の様子見を経て、三年目を終えて卒業して結婚するのではお互いにもう遅い。ならば三年生に上がる前の春休みに、という相手からの温情だった。
閉じた応接室の扉を背に、ステラは重く息を吐いた。
「お姉様、フランキ様は何のお話だったのですか? 顔色が真っ青です」
「アウローラ……う、うん、ううん…」
退室した先には、一つ年下の妹が心配そうに立っていた。まっすぐですべらかな金の髪に緑の瞳、可憐で闊達な美少女と近所から大人気の妹は優しい良い子だ。
その妹に、ステラはハイともイイエともいえない答えを返した。条件が合わなかったのだから当たり前だと思うのと同時に、自分は『求めていたものと違う』のだと言われたことに少なからず落ち込んだからだ。
商談にも使われる応接室だ。背にした扉と壁は厚くて、中の会話はもう聞き取れない。
「その、あのね、……婚約を破棄されたの」
「ええ⁉︎ どうしてですか!」
「その、私の、目つきが……悪い、から……」
語尾は聞き取れないほど弱々しくなった。自分はダメな商品だから返品されたと説明するのは姉として情けない。
俯いているステラに憤慨したのは妹だ。
「目つきが何ですか! お姉さまは真面目で勉強熱心です! 商家の嫁として十分ではありませんか!」
「ありがとう、アウローラ。……でもね、フランキ様が必要なのは俯いてるイガグリ娘じゃなかったの」
「お姉様……でも、学校で二年間も一緒だったのでしょう? 婚約者として想ったり想われたりした相手に失礼です」
「想ったり、想われたり……?」
ステラはこの二年間のことを思い返してみた。けれど、それはぼんやりとした雲のような絵ばかりで、具体的な絵は何一つ脳裏に浮かばなかった。
ステラは彼のことを婚約者であり卒業したら嫁ぐ相手だと認識していたが、想ってはいなかったように思う。相手もおそらく同じだ、儀礼的に季節の折に定番の贈り物はしたものの、それだけだ。余りにも不器用で人付き合いの苦手な似た者同士であり、それゆえに関係は全く進展しなかった。
「想われてないし、想ってもなかったわ……」
「……えええ?」
不良品と返品されたことは惨めだが、なんというか、色々とひどい。妹はステラのことを真面目だと言ってくれているし実際にそうなのだが、ここ一年の成績はむしろ下降の一途を辿っていた。帳簿を正確に付けられるかも怪しい。
「アウローラ、あの、あのね、私ね……」
ステラが口を開こうとしたとき、背にしていた扉が開いた。押されるままにステラは三歩ほどよたついて、それから後ろを振り向いた。そこには母が立っていた。ステラと同じ色をした紫の瞳が、ステラとアウローラを一瞥する。
「ステラは食堂に戻っていなさい。アウローラは応接室へ、相談があります」
「え? は、はい」
「……はい」
相談というのが何か易々と思い浮かんでしまい、ステラはさらに深く俯いた。うねった髪の中でステラにとって唯一都合の良いまっすぐな前髪は、伸びに伸びて鼻まで掛かっている。少しでも目つきを隠したくて、切らなかったのだ。
不安そうな妹の背を、応接室へと押し出す。扉はまたあっけなく閉じた。
階段を降り、食堂へと向かう。時間は正午を少しばかり過ぎたところで、今なら父が昼食休憩をとっているはずだ。父に弟子入りしている職人達も一緒に食事をとる食堂であるので、食堂はそれなりの広さがある。大きなテーブルには人影が三つ。
「ステラか。話は終わったのか?」
「うん、終わったよ。今はアウローラに話があるみたい」
階段から降りてきたステラに、父が声を掛けた。
ステラの父はステラと同じ栗色の髪、アウローラと同じ緑の目をしている。しているはずだ。ステラはいつからか、大好きな緑色が見えなくなっていた。
ステラの目に映る父は、ぼんやりとした茶色の塊だ。父から声を掛けてくれなければ、父と、父と同じ髪色をした弟子職人との区別がつかない。家族はまだマシだ、幼いころの記憶でどうにかなる。
真面目を顔に張り付けたような父の顔、華やかな母の顔、可憐で明るい妹の顔がハッキリ見えたのはもう三年前が最後だ。高等部に入ると同時に婚約した婚約者の顔は、紹介されてから今までハッキリと見えたことがない。
必死に目を細めて、髪の色を覚えて、声と会話を聞き分けて、ぼんやりとした塊が誰かなのかを必死に考える。それが、ステラの目に映る日常だ。
ステラ・ミネルヴィーノこと、ステラはとてもとても目つきが悪い。機嫌が悪いわけでも、ましてや喧嘩を売っているわけでもない。
なんのことはない、ステラはとてもとても目が悪かった。
初連載です、よろしくお願い致します。
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