第三十四章 魔王の正体②
魔王の命は、上忍藤林長影の妻、千恵のお腹に宿った。
「千恵の腹にいる子の魂は、魔王のものだ。すぐに母体ごと屠れよ」という陰陽神の神託が下され、それを理人から受け取った長門守は、内々に、藤林長影と、服部段蔵、百地三波の三人の上忍を拝殿に集めた。
そこで、長門守は神の言葉を三人に打ち明けた。
長影は激しく取り乱し、段蔵と三波はそのことをひどく悔しがり、神託を受け入れようとしなかった。
三人の上忍は苦楽を共にし、深く信頼し合う同級の仲であった。
三人とも、頑なに神託を引き受けなかった。
長門守も皆と同じく、無念でならなかった。
そこで、長門守は、里民全員を拝殿前に集めて、あえて皆が見ている前で「魔王を孕んだ魔女を切れ」と上忍の三人に言った。
そして、“魔王を孕んだ魔女は下界の都会にいる”とした上で、三人に都会へ向かうよう命じた。
それを聞いた長影は、千影を腹に宿した千恵と、仲間の段蔵と三波とともに都会へ逃れた。
四人は都会の片隅で、千影の誕生を待った。
千恵は日に日に大きくなるお腹をさすりながら、「この子は藤林家の血を引く子。長影さんの優しい血を受け継ぐ子。この子はきっとこの世を変えてくれるに違いないわ」と言って、千影の魂は忌まわしいものではなく、希望の光なのだと、腹の中の千影に何度も言い聞かせた。
そして、臨月を迎えた頃、三人の上忍は、意を決した。
間も無く生まれ出る千影の魂の闇の力が、生まれ出てから発揮されないように、“魔封印の術”を使うことにした。
それは、非常に危険な術であった。
術をかける途中、魔王の返り討ちに遭う可能性があったからだ。
だが、三人は危険も顧みず、千恵のお腹の中に眠る千影の魂に術をかけた。
相手は胎児とはいえ、魔王の魂を持つ者。
そう簡単にかけることはできなかった。
魔王は術にかけられまいと、激しく抵抗した。
そして、段蔵と三波の魂を食べつくした。
だが、その二人の魂の力で術がかかり、魔王は封印され、長影は食べられずに済んだ。
ほどなくして、千影がこの世に産声をあげた。
千恵と長影は、千影にこれ以上ないというほどのたくさんの愛情を注いだ。
だが、やがて、艮宮山の大鬼門にかかる封印がほころびかけていることを知った長影は、魔王の魂を持つ千影が、封印を破られた艮宮山の大鬼門に引きずり込まれないように、千影の中の魔王が覚醒してしまわないように、大鬼門の封印をたったひとりでかけ直しに行くことを決意した。
そして、長影は、まだ幼い千影と千恵を残して、艮宮山へと入山したのであった。
何も知らない千影はスクスクと育ち、やがて小学三年生になった。
そして、父親のことを綴った作文を読み、クラスメイトからいじめを受けるようになると、それに耐えられなくなった千影の闇の力は、ついに暴発する。
この時、千影の魂の中で術にかけられ眠る魔王が覚醒してしまった。
千影は深い暗黒の闇へズブズブと沈んでいった。
だが、頭のてっぺんまで真っ黒に沈んでしまう寸前、千影の“三分の二の正心”だけは何とか救い出すことができた。
「今のお前を助けたのは、蛍なんじゃ」
長門守は、いつの間にか目を覚ましていた千影に向かって言った。
「お前は、“三分の二の正心”と“三分の一の魔王の魂”を持つ者なんじゃ。
そして、お前が艮宮山の山頂付近で見た、子どもの姿をしたお前が“三分の一の正心”と“三分の二の魔王の魂”を持つ者じゃ」
長門守がそう言い終わると、千影は虚しく笑った。
「俺が……魔王だったんだ。俺のせいで……父ちゃんも、湊さんと蛍の父ちゃんも死んで……」
千影は笑いながらポロポロと涙をこぼした。
「蛍も死んじゃった。全部、俺のせいじゃん!
俺が生まれてこなければ、みんな死なずにすんだのに!!!」
「千影、落ち着け」
湊は、涙と鼻水とよだれを垂らしながら顔を真っ赤にして嘆く千影の肩を抑えてなだめた。
だが、千影は湊の手を力いっぱい払った。
「このこと、湊さんは最初から知っていたんだろう?
俺のせいで父親が死んじゃってさ!
さぞかし、俺が憎くて憎くて堪らなかっただろうに!
蛍だって、本当は俺のことを恨んでいたに違いない!
それなのに、あんな……俺なんかかばって死んで……バカみたいだ!」
「千影!いい加減にしろ!!!」
湊はこめかみに青筋を立てて顔を鬼のように真っ赤にすると、一喝した。
すると、千影は湊の忿怒の顔を睨みつけると、足元に置いてあった村雨丸を鞘から引き抜いた。
そして、柄を湊の胸に押し付けた。
「切れよ。今すぐ、俺をここで斬り殺してよ。
俺なんか最初から生まれてこなきゃよかったんだからさ!!!」
千影がそう言ったとたん、湊は千影の顔を思い切りぶん殴った。
千影は村雨丸を握ったまま吹っ飛んだ。
「テメェ……この野郎……自虐に酔いしれるのも大概にしろよ……。
俺は正直、お前の顔を初めて見た時から殺してやりたくて堪らなかったよ。
お前のせいで俺の親父は死んだんだからな。
お前が生まれてこなきゃ、俺の親父も百地の親父も……蛍も死ななくて済んだのによ!!!」
そう吠えるように言うと、湊は、床に倒れる千影のそばへズカズカと歩いて近づき、千影の胸ぐらを掴んで上半身を無理やり起こさせた。
「でもな……自分のことより仲間のことを大事にするところや、壁にぶち当たっても逃げずに立ち向かい、机上で正心を学んだ奴らよりもずっと正心を心得るお前の姿を見ていると、お前の命を命がけで救った親父たちの努力は無駄じゃなかったって思うようになったんだよ!!!」
そう言うと、湊の目から一筋の涙が流れた。
千影はその涙の筋を、下唇を血が滲むほど強く噛み締めて見ていた。
「だから……もう、自分のことを悪く言うな。自分の存在を否定するな。
お前の命は、みんなの最後の希望の光なんだ。
艮宮山の魔王に打ち勝てるのは、お前しかいないんだよ」
湊がそう言うと、千影は胸元から力を失った湊の手をゆっくり引き剥がした。
そして、乱れた胸元をぎゅっと握りしめると、しょんぼりと背を丸めてその場に立ち上がった。
「ごめん、湊さん。俺、やっぱり、できないよ。
魔王に勝つなんて……この世を救うなんて無理だ。
蛍は死んだ。
俺の力不足だったから。自分で自分の身を守ることができなかった」
そう言うと、千影は刃が剥き出しの村雨丸を持ったまま、石仏のように動かない八雲の目の前まで行った。
「俺がこれを持っていたら、また誰かが俺のせいで死んじゃう。
だから、村雨丸の使い手は、俺なんかよりも八雲さんの方がずっとふさわしい。
俺は村雨丸の使い手であることを放棄します」
そう言うと、しかめ面の八雲の目の前に村雨丸を置いた。
「放棄すれば俺は死ぬでしょう?
そうしたら、残りの魔王の魂を斬り殺しに、また艮宮山へみんなで向かってください。
そうすれば、きっとこの世から魔王がいなくなって、世の中も元通りになると思います」
そう言って、八雲に深々とお辞儀をすると、千影は拝殿を出ていった。