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第三十章 父親の話①

 蛍の家は、拝殿の前を横切る道の一番奥にあった。

古そうな木造平家建てだが、手入れの行き届いた広い庭園に囲まれた立派な家であった。


蛍が玄関の引き戸の取っ手に手をかけた時、扉がガラガラと開き、中から中年の美しい女性がひとり出てきた。

そして、蛍の姿を見るなり、まるで何十年ぶりの再会のように、蛍に抱きついた。


「蛍さん、よく戻ってきてくれましたね。ずいぶん遅かったから、心配していたんですよ」


そう言って蛍に抱きついたまま、蛍の隣に立つ千影の顔を見ると、目を大きくして輝かせた。


「あなたが……千影くん?」


千影は少し緊張したように頷くと、その女性は蛍から離れて、涙をうっすら浮かばせながら千影の頭をぎゅっと抱きしめた。

いきなり女性の腕の中に頭をすっぽり埋めた千影はどうしていいかわからず、顔を真っ赤にして固まっていた。


「母上、千影が苦しがっていますよ。もうそのくらいにしてあげてください」


蛍がそう言うと、蛍の母親は涙をこぼしながら千影から離れた。


(この人が、蛍の母ちゃんなんだ……)


千影は戸惑いながらも、涙を割烹着の裾で拭う蛍の母親の顔を見ていた。


(似ていないなぁ。蛍は父親似なのかな?)


千影がそうぼんやり思っていると、「早く入らないと、扉が凍りついて閉まらなくなるぞ」と蛍は言って、母親と千影の背中を押して家の中へと入れた。


外は深々と雪が降っている。

蛍は縁側の雨戸を閉めると、囲炉裏がある居間に千影を連れて行った。


「お腹が空いたでしょう。ご飯の用意はしてありますよ。

あっ、でも、お外は寒かったから、先にお風呂にしましょうか」


蛍の母親は、落ち着きなく廊下を行ったり来たりしながら言った。


「あの人は、昔からああなんだ。俺がいつもこの家へ帰ってくるとそわそわする」


蛍は少し照れ臭そうに言った。


「きっと、蛍が家に帰ってきて嬉しいんだね」


千影はそう言いながら、自分の母親のことを思い出した。

だか、いい思い出がひとつも思い浮かばなかった。

すぐに思い出すのは、悪いことばかり。

父親が家を出て行った後、泣いてばかりいた母親の後ろ姿。

千影が部屋に引きこもっていた頃、病気の体を引きずりながら何度も部屋の前にご飯を運んできた母親の弱々しい姿。

そして、突然死んでしまって、遺影写真の中で笑う母親の顔。

千影は気分が暗くなってため息をついた。


「蛍はいいな……あんな優しそうな母ちゃんがいて」


千影の口から勝手に言葉がこぼれ落ちた。

それを聞いた蛍は風呂敷の包みを解く手を止めた。


「千影……」


蛍の重たい声を聞いて千影はハッと我に返った。


「あっ、い、いや、俺の母ちゃんは、もう病気で死んじゃったからさ。

家に帰ったら自分のことを迎えてくれる母親がいてちょっと羨ましいなぁ……って。あ、いやいや、もう母ちゃんが恋しい歳じゃないし、だいたい、うちにはめっちゃ怖いばぁちゃんがいるし、全然、さみしくなんかないよ!」


千影は必死に本心を隠そうとしたが、涙は隠せなかった。

そんな千影の顔を見た蛍は顔を歪ませて千影を両腕で強く抱きしめた。

千影は涙を必死に止めようとしたが、突然、蛍に抱きしめられたことに驚き、そして、そのあまりにも暖かい温もりに包まれて胸が急激に熱くなり、小さな子どものように声を上げて泣いた。


「ごめん、千影……ずっとそばにいてやれなくてごめんな……」


蛍は息ができないほど強く千影の頭を抱きしめて言った。

だが、顔を真っ赤にして泣きわめく千影の耳にその言葉は届かなかった。

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