第二十四章 卑弥呼とアゲハの戦争②
千影は走りながら誰に相談しようか考えた。
真っ先に浮かんだのは、覆面の蛍の顔であった。
だが、千影は首を横に振って、ハルの顔に書き換えた。
千影はアジトへ猛スピードでたどり着くと、にじり口の戸を思い切り開けた。
しかし、中には誰もいなかった。
「くそっ、ハルさんはどこにいるんだ?」
千影はそう呟きイラついたように懐に手を突っ込んだ。
そして、銀色の笛を取り出した。
(これを吹けば、おそらく、いや、絶対に蛍は来る)
しかし、千影はしばらく笛を見つめた後、そっと懐に戻した。
(つばめちゃん、まだあそこにいるのかな……)
千影は先ほど卑弥呼とアゲハがにらみ合っていた原っぱに戻ることにした。
千影はどうしたらいいのか分からなかったが、とにかく、つばめのことが心配で仕方がなかった。
しかし、原っぱに再び戻ってきた時、もうそこには誰もいなかった。
(つばめちゃん、可哀想に……きっとひとりで苦しんでいるに違いない!
いったい、今どこにいるんだ!)
千影は銀狼のマトイを翻しながら、再びアジトへ向かって走った。
「ちょっと、アンタ!」
アジトへ向かう途中の山林で、突然、誰かに声を掛けられた。
千影がその声の方を向くと、そこにはピンクのブレザー姿の千代女がいた。
「アンタ……いったいどうしたの!?顔が真っ青じゃないか!」
「千代女さん……」
今にも泣き出しそうな千影の顔を見た千代女は、慌てたように千影の元へ駆け寄った。
「何かあったんだね?私でよければ、話を聞くよ」
千代女は千影のだらりと下がる力無い腕を引くと、みつやへ連れて行った。
千影は引かれるがままに歩いていった。
「ここに座って。今、お茶を持ってきてあげる」
千代女はいつもの二階席の窓側の隅の席に千影を座らせると、小走りで一階に降りて行った。
(今頃、卑弥呼の連中にアイドルのこと、問い詰められてるんだろうな……もしも、卑弥呼とアゲハが衝突したら、つばめちゃんの忍務は失敗。
忍び破れとなって、社会的に追放される。
それだけじゃない。
もしも、卑弥呼が負けたら、つばめちゃんは、卑弥呼という田舎の不良をやっていたことが世間にバレてしまう。
そうしたら、芸能界からも追放される……)
「もし、そうなったら、つばめちゃんは……いったいどうなっちゃうんだ!?」
強く握りしめた千影の拳の内側は、汗でびっしょり濡れていた。
「はい、あたたかいお茶だよ」
千影が頭の中でつばめの今後について悶々と考え憂慮していた間、いつの間にか隣に立っていた千代女は、制服姿のまま千影の目の前に湯気が立った青緑色した湯のみを静かに置いた。
「お、俺の、とても大切な人が……今、すごく大変な目に遭っているんです。
でも、俺……何もしてあげられなくて……」
「彼女さん?」
千代女はそう言いながら、千影の向かいの席にそっと腰を下ろした。
「い、いえ。そういうんじゃ、ないんですけど……」
「じゃあ、お友達?」
「ま、まぁ、そんなところです」
「そのお友達が、何かあったのかい?」
千代女はお盆をテーブルに置きながらさらっと聞いてきた。
千影は湯のみを両手でそっと触ってみた。
すごく熱い。
千影はパッと手を遠ざけた。
「詳しくは、話せないんですが……。
その彼女、今、色々追い詰められていて、大変なことになってて……でも、俺、何もしてあげられなくて。
どうしたらいいのか……わからなくて……」
千影は下を向いたままボソボソとつぶやくように言った。
千代女はテーブルに頬杖をついて千影を見ていた。
「アンタのその気持ち、よく分かるよ。
大切な人が苦しんでいるのに、何もしてあげられない時ってあるよね。
ただ見守ることしかできない。
私も……そうだから」
千代女がテーブルの木目に人差し指をなぞらせながら言った。
千代女の言葉に千影はハッと顔を上げた。
「千代女さんも、その……彼氏さんが大変なんですか?」
千影がそう訊くと、千代女は「彼氏じゃないよ!」と言いながら明るく冗談めいたように笑ったが、とても悲しそうな顔をしていた。
「訳あって、彼とはあまり仲良くしちゃいけないんだ」
いつも明るい千代女が暗い表情を一瞬だけ見せたので、千影は慌てた。
「そ、そんな……仲良くしちゃいけないって、誰が決めたんですか?」
千影が必死にそう言うと千代女は目を丸くしたが、とたんに笑い出した。
「そうだよね。いったい、誰が決めたんだか」
千代女は窓から見える艮宮山に目を向けた。
秋深まる季節だというのに、艮宮山だけ色は黒っぽい緑のまま。
「でも、彼とは敵同士だから、会っちゃダメなんだ……」
「て、敵!?」
千影は突然、普段の生活で滅多に使うことのない単語がさらりと千代女の口から出てきたので、困惑した。
しかし、その不自然で異様な単語について、追求できるような雰囲気ではなかったので、千影はその単語を聞き流した。
「千代女さん……その人のこと、とても大事なんですね……」
「そりゃあね。私の初恋の人だし。とても大切だよ」
千代女は目を細めたままずっと外を見ていた。
「でも、あの人が辛い目にあっても、何もしてあげられない。
遠くから見守ることしかできない」
そう言うと、千代女は千影の顔をまっすぐ見た。
「アンタはどうなの?本当に、何もしてあげられることはないの?」
「ずっと、考えているんですが、その何をしたらいいのか、さっぱりわからなくて……」
千影が言い訳がましいことをぶつぶつ言っていると、千代女はテーブルに両手のひらをバンと叩きつけて立ち上がった。
「アンタ!その子のこと、好きなんだろう?
だったら、すぐにその子のところへ行っておやり!
きっとその子は誰か助けてくれるのを待っているよ」
「で、でも……」
「女は弱っている時、誰かそばに寄り添って欲しいものなのさ。
さ、早く、行きな!」
千影は慌てて湯のみを掴むと、口元へ近づけた。
その時だった。
目の前にいた千代女が突然、握りこぶしを千影顔の目の前に突き出した。
その瞬間、湯のみが横に真っ二つに割れ、中に入っていたお茶とともにテーブルの上にガチャンと落ちた。
「な、なんだ!?」
千影は目の前の千代女の拳を見た。
その手には、一本の矢が握られていた。
千代女は険しい顔つきのまま、握った矢を見た。
矢柄に小さな紙が結び付けられている。
それを外すと、広げてその紙面に目を落とした。
そして、顔色が変わった。
「そ、それはいったい……」
そう千影が言いかけた時、千代女は広げていた紙をぐしゃぐしゃにして丸めた。
「アンタ、すぐに帰んな」
千代女の声は、今まで聞いたことがないほどトゲトゲしいものであった。
何が起きたのかさっぱり理解ができなかった千影だったが、千代女が怖い顔をしていたので、千影はお茶代をテーブルにそっと置くと、一度も後ろを振り返らずにそそくさと店を出た。
そして、店を出た瞬間、突然、背後から誰かに首根っこを掴まれた。
「うわぁぁぁ!」
千影が慌てて後ろを振り返ると、そこには覆面忍び装束の蛍が鬼気迫る様子で立っていた。
「ったく!お前は!危うく死ぬところだったぞ!」
「は、はぁ!?」
千影は蛍の手を振り払おうとしたが、蛍は周りを警戒しながら千影を小脇に抱えると、藪の中に飛び込んだ。
「っおい!離せよ!いきなり現れて訳わかんねぇこと言ってんじゃねぇよ!」
千影は暴れながら言うと、蛍は乱暴に千影を地面に放り投げた。
「いってぇ……」
「今、お前と一緒にいた女は、甲賀組の忍び、ヒバリだ」
「こ、甲賀の忍者!?」
千影は打ち付けて痛む腰をさする手を止めた。
「そ、そんなバカな!だ、だってあの子は千代女っていう名前……」
「アホか。ヤツは忍びだ。
お前の前で本名を名乗るわけないだろう。
アイツは、表向きはみつやでアルバイトをする女子高生。
裏では、以前にもお前に教えたと思うが、アイツはアゲハに潜入して、西町の男をたぶらかして風魔に取り込んでいたり、卑弥呼を潰そうとしたりしている」
「な、何だって!?」
「それにだな。今、お前は毒入りの飲み物を飲むところだったんだぞ!」
「そ、そんな……」
千影は突然のショッキングな事実を受け入れられず、蛍の顔を呆然と見上げていた。
「アイツには気をつけろ。ヒバリは対人術のプロだ。
お前はまんまとひばりの術に引っ掛かって危うく毒を盛られて殺されるところだった」
千影は千代女の一瞬見せた、暗い顔を思い出した。
(たとえ、千代女さんが甲賀忍者だったとしても、あの時、話してくれた千代女さんの言葉と表情は、嘘じゃない!)
千影は蛍を睨みつけた。
「千代女さんは悪い人じゃないっ!」
「はぁ?何言ってるんだ、お前……」
「蛍は、千代女さん……いや、ヒバリさんの何を知ってるっていうんだよ!
俺もすごく親密ってわけじゃないけど、でも、ヒバリさんは、好きな人のことで悩んだり、俺の悩みを聞いて共感してくれたり、相談に乗ってくれたり、血の通った優しくて素敵な人だ!
ヒバリさんは絶対に俺を殺したりなんかしない!」
千影が一息で一気にまくし立てていうと、苦しそうに肩を上下させた。
「だから、それがもう騙されてるんだっつーの」
蛍が呆れた声でそう言ったが、千影は蛍から顔を背けて聞く耳を持たなかった。
蛍はため息をつきつつ、千影のそばにしゃがむと、切れて少しだけ血が滲んだ千影の口元にハンカチを当てようとした。
すると、蛍の手を千影は払い退けた。
「蛍よりも……ヒバリさんの方がずっと信頼できるっつーの!」
蛍の顔を睨み付けてそう言い放つと、千影は立ち上がり、銀狼のマトイを返して忍び装束になると林の中に消えた。
その後ろ姿を、蛍は心配そうな寂しそうな目で見つめていた。




