第二十章 千影、お姉さんを助ける②
店は昔の石蔵を改装したものらしく、店内は薄暗くひんやりとしているが、木造のテーブルの上にはステンドグラスのランプが吊るされており、レトロな雰囲気が漂っている。
こんな人気のない通り沿いの店なのに、店内には若い女の客が結構いた。
蜜の甘い香りと芳醇なコーヒーの香りが、女の客のはしゃぐ声とともに漂ってくる。
「暗いから、足元に気をつけてね」
女は慣れた手つきで銀のお盆に氷の入った水を置くと、それを片手に千影を二階へと案内した。
木造の階段は急で、まるで梯子のようであった。
女はさっさと階段をのぼる。
千影も遅れまいと必死に後をついていく。
唐紅の着物に純白のフリルがついた洋風の割烹着。髪を一つにまとめたお団子頭には、コスモス色の小さな玉がひとつだけついた簪が一本挿さっている。
チラリと見える白いうなじが何とも色っぽくて、千影は大人の女性に対する未知の興奮を覚えた。
二階へ上がると、一階の薄暗い雰囲気とは打って変わって、壁の四面に大きな窓がはめ込まれており、外にいるように明るい。
二階席には客が一人もいなかった。
女は大きな窓から山が一望できる一番左端の席へ案内した。
「ささ、ここへお座り」
千影は窓側の席に着くと、女は千影の前に「みつや」と書かれた丸い紙製のコースターを敷き、その上に汗のかいたグラスを置いた。
千影は女に目を合わせないように、おそるおそる女を見た。
胸元には名札が付いており、“諸澄”と書かれてあった。
「さっきは本当に助かったよ」
千影は名札の漢字をどう読んでいいかわからず考えていると、いきなり女がそう言ったので、ビクリと体が跳ねた。
女は千影に向かって再び頭を下げた。
水のコップを傾けながら千影もつられて頭を下げたので、その様子を見た女は明るく笑った。
「私は、諸澄千代女。
みんな“おちよ”とか、“ちよ”とか呼んでいるよ。
隣町の聖ルカ女学院高の二年なの。
ここの店では、月水金の週三でバイトしているんだよ」
「こ、高校生!?」
千影は口に含んでいた水を吹き出してしまった。
千代女はとっさに割烹着のポケットから白いレースのハンカチを取り出すと、びしょ濡れになった千影の口元や服を拭きながら、涙を流して笑っていた。
「アンタ、正直でいいよ。私、よく言われるんだ。随分大人っぽいねって。
でも、正真正銘の現役女子高生さ」
そう言いながら、千代女は胸元から学生証を取り出すと千影に見せた。
そこには、黒髪のストレートのロングヘアの千代女が、可愛らしいピンク色ブレザーの制服姿で写った写真が貼ってあった。
「うぅ、なんか失礼な反応して、すみません……」
「いいって、いいって。そんなに気にしないでよ。
私、アンタみたいな正直な男、好きだよ」
千代女はそう言ってわざとらしくウインクした。
それを見た千影は口をもごつかせた。
「あぁ、そうそう。今すぐにあんみつを持ってきてあげるからね。一口食べたら、ほっぺたが床まで落ちちゃうんだから。楽しみにしていな」
そういうと、千代女は踵を返して、颯爽と一階へ駆け下りていった。
(可愛らしい人だなぁ……)
見た目とは裏腹に、茶目っ気があって明るい千代女に千影はうっとりしながら、ふと、窓の外をみた。
そこにはつい先ほど、魂ごと引きずり込まれそうになった艮宮山が一望できた。
麓に張り巡らされている有刺鉄線の向こう側には、一点だけ、ずーんと暗く影になっているところがあった。
(あそこは……真っ黒でお札だらけのヤバイ鳥居が立っている辺りだ)
ふと、千影は鳥居の前で嗅いだ腐臭を思い出した。
思い出しただけでも吐き気がする。
(何なんだ、あの臭いは。酸っぱくて少し甘いような、今まで嗅いだことがない臭い……もしかして、あの辺りに死体でも埋まっているんじゃないのか……?)
そう考えると、千影はぶるりと身震いをした。
その時、階段の方から、明るく弾みながら階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。
「お待ちどうさま!」
千代女はそういうと、千影の目の前に涼しげな薄紫色のガラスの器に盛られたあんみつを置いた。
色とりどりのフルーツと紅白の白玉が器いっぱいに散りばめられ、その真ん中には、色の濃いあんこと、白と緑の二種類のアイスクリームが花芯のように盛られている。
「最後にね、このみつや特製の黒蜜をかけるんだよ」
千代女はそう言って蜜が入った陶器のピッチャーを両手で持つと、丁寧にあんみつに回し掛けた。
トロリとした黒い蜜があんみつに降り注ぐ。
蜜の甘い香りが漂ってくる。
千影は、まだ先ほど嗅いだ悪臭を忘れられず、顔を引きつらせていた。
それを見た千代女は手を止めた。
「あら?蜜はかけない方が良かったかい?」
「あっ、いいえ!お、俺大好きですよ!黒蜜……」
千影は慌てて首を横に振った。
「あら、そう……」
千代女は蜜を全て掛け終えると、千影の前に器を寄せた。
「さぁ、これが当店一番人気のあんみつだよ。さっきのお礼さ。
どうぞ召し上がれ」
千代女はにっこり微笑んだ。
千影は慌ててスプーンを手に持つと、とりあえず、白いバニラアイスをすくってエイっと口に押し込んだ。
冷たく濃厚なアイスのバニラの香りは、どす黒い腐臭を一気にかき消した。
千影はホッと一息ついた。
「う、うまいです!」
千影がそういうと千代女は嬉しそうに笑った。
千影が次にまん丸の真っ白な白玉ひとつ、スプーンですくったとき、千代女が口を開いた。
「ところで……アンタ、さっき艮宮山の大黒鳥居に近づこうとしていたね」
急にそんなことを言ったものだから、千影は動揺してスプーンから白玉を転げ落とした。
「アタシさぁ、アンタを止めに行こうとしたんだ。その途中で変なチンピラに引っかかっちゃったんだけどね」
千代女はそう言うと、顔を千影に寄せた。
千影は緊張をして背筋をピンと伸ばして息を止めた。
顔を寄せた千代女の顔からフッと笑顔が消えた。
「アンタ、あの山に何か用でもあったのかい?」
その千代女の声のトーンが今までものと全く違う、低く凄みがあるものだったので、千影は必死に首を横に振ることしかできなかった。
それを見た千代女は千影から離れると、腰に手を当ててため息をついた。
「アンタ、さては、湯舟郷の人間じゃないね?
ここに住む人間なら、まずあの鳥居には近づかないからねぇ。
あそこに平気で近づくのは、艮宮山の魔王のことを知らない都会人か、気の触れた者くらいさ。モノ好きなオカルトマニアでさえ、迂闊にあそこへは近づかないよ」
千影はスプーンをテーブルに置くと、千代女に顔を向けた。
「俺、今は西町に住んでいるんですけど、元々は都会の人間だったんです。
中学に入学する少し前にこっちへ越してきたんですけど……その、俺、高校入学までずっと引きこもりだったから、正直、艮宮山の魔王のことなんてつい最近知ったんです。
だから、あの山がまさかあの艮宮山だったなんて……知らなかったんです」
「あら、そうなのかい」
そう言いながら、千代女は銀のお盆を抱えたまま千影の横の席に腰掛けた。
「その……あそこは何だか異様ですね。初めて行ったんですけど、悪臭が漂っていて、その臭いを嗅いだ途端、気持ち悪くなっちゃって……」
「あの臭いはね、魂が腐って朽ち果てる瞬間に放つ臭いなんだってさ。
一度嗅ぐと忘れられない臭いだよ。ところで……」
千代女は千影に顔をまっすぐ向けた。
「アンタさぁ、本当に何の目的もなく、たったひとりであそこへ近づいたのかい?
あんな恐ろしいところにさ」
千代女にそう訊かれた途端、頭の遥か彼方に飛んでいったユキオのことを思い出した。
「あ゛ぁぁぁ!!!」
千影は言葉にならない声をあげてその場に立ち上がった。
「ヤベェ……すっかり忘れてた……」
そういうと、千影はまるであんみつを飲むように一気に口へ流し込み、マトイの内ポケットからぺらぺらの財布を取り出した。
「あ、あぁ、いいんだよ。これは私からのお礼だから。それより、そんなに口いっぱい入れて、大丈夫かい?」
千代女の心配をよそに、千影は顔の形が変わるほど、両頬ぎゅうぎゅうにあんみつを詰め込みながら「ごちそうさまです。うまかったです」と、もごもご言うと席を立った。
「あ、あぁ、またいつでもおいで」
千代女の呆れたような声を背後に、千影は逃げるように店を後にした。
ユキオのことをすっかり忘れていた千影は、とりあえず、一度ユキオの屋敷に戻ってみることにした。
千影はいつもの屋敷前の藪の中から屋敷の方を注意深く伺った。
辺りはすっかり日が暮れて真っ暗だ。
灯りが二つだけ付いた門前には誰もいない。屋敷の中も、静まり返っている。
(ユキオのやつ、ちゃんと無事に家に戻ってきているんだよな……?)
以前、蛍からもらった銀の笛を懐から取り出した。
これを吹けば、きっと屋敷内でメイドに扮している蛍が飛んでくるだろうが、千影は吹くことをためらった。
(忍務のこともユキオのこともすっかり忘れて、美人なお姉さんと話をしながらあんみつご馳走になっていたなんて蛍に知られたら……)
千影は笛を懐にしまった。
(明日からは……ちゃんとしよ……)
千影は西町の方へ踵を返した。
「それにしても……」
千影はもう一度、屋敷の方へ振り返った。
(ユキオ、お前はどうしてあんな艮宮山の入り口なんてところへ行ったんだ?)
千影はまた西の方へ向きなおすと、銀狼のマトイをひっくり返し黒い忍び装束に姿を変えて暗闇の藪の中へと飛び込んだ。




