第二十章 千影、お姉さんを助ける①
千影は悲鳴を聞いた方へ近づくと、声を荒げる男たちの声が聞こえてきた。
(ケンカか?)
千影は木の陰に隠れながら、声がする方へ近づいた。
幹から少し顔を出して向こう側の様子を伺うと、開けた芝の土地の真ん中に二階建ての石の蔵が一つだけ建っていた。
その建物には「みつや」と書かれた木製の看板が掲げられてあり、その建物の入り口付近には、見るからに不良の男が三人と、それに囲まれる割烹着姿の若い女がひとり立っているのが見えた。
「だーかーら、ほんのおしるし程度でいいんだよ」
背中に金色の大きな文字で“風魔”と書かれたグレー色の特攻服を着た男が、女に詰め寄った。
「何度言っても同じだよ。そんなもん、払う義理はないね。とっとと帰っておくれ!」
女は強い口調でそう言った。
すると、そばにいたもう一人の不良の男が、女の胸ぐらを鷲掴みした。
「んだとぉ?」
女のことを助けるかどうか、助けるにしても、どうやって助けたらいいのか迷いに迷っていた千影は、女が今にも不良男から暴力を振るわれそうになっていたので、隠れて見ていたことも、どうやって助けようか迷っていたことも全て吹っ飛んで、気がつけば、女の胸ぐらを掴む不良男の手を掴んでいた。
「今すぐこの手を離せ!」
千影がそう言うと、女を掴んでいた男はぽかんとした顔をしたが、すぐにニヤリと隙間だらけのボロボロの前歯を見せて不気味な笑みを浮かべた。
「なんだ?テメェがこの店の代わりにみかじめ料払ってくれるのか?」
女の胸ぐらを掴んだまま、不良男がそう言うと、その男の両隣に立っていた他の不良たちもあからさまにオラついて千影に食ってかかってきた。
「このお姉さんの代わりに払ってくれんだろ?」
「さぁさぁ、早く出せよ」
千影は“みかじめ料”というものがいったい何であるのか知らなかったが、不良たちが金をせびっていることは何となく分かった。
「お、俺は今、カネ持ってないぞ!」
女は不安そうに千影の顔を見ていた。
それはそれはとても美しい女であった。
かすかに震える長いまつ毛、切れ長な目は少し潤み、すーっと通った細く上品な鼻筋、薄く控えめな唇には真っ赤な紅が引かれており、口元の小さなホクロがより一層妖艶さを引き立てている。
その小さな純白の顔は、まるで日本人形のようであった。
女の美貌に思わず目を奪われた千影の不良の手を掴んだ手の力が緩んだ。
すると、不良男は女から手を離すと、その手を拳に変えて千影の顔面めがけて殴りかかろうとした。
千影は抵抗する手段も思い浮かばず、ただ歯を食いしばって目をギュッと閉じた。
すると、それを見ていた女はとっさにその不良男の手首を掴むと捻り上げた。
そして、頭に挿していた簪を素早く引き抜くと、その先端を不良の頚動脈付近に突き当てた。
そして、その不良男の耳元に口を近づけた。
「お前さん方は湯舟郷の人間じゃないね。風魔の人間は、みかじめ料なんてもんは取らないよ」
女がかすかに唇を動かしながらそう言うと、他の二人の不良男が女に襲いかかろうとした。
すると、女は突きつけた簪をさらに強く押し当てた。
押し当てられた男は声をあげた。
その声に驚いた千影はパッと目を開けた。
今さっきまで自分のことを殴ろうとしていた不良男が、いつの間にか、妖艶な女に簪の先を首につきつけられて泣きべそをかいている。
首から一筋の鮮血が流れた。
それを見た二人の不良男の顔は真っ青になった。
「今度、また他人様の名前を拝借するときは、事前によく下調べすることだね」
女の紅色の口元からは、鷹のくちばしのような鋭く光った白い八重歯が覗いた。
不良の三人組は、負け惜しみの言葉を汚く吐き散らしながら、尻尾を巻いてその場から去っていった。
「アンタのおかげで助かったよ。ありがとうね」
女がとつぜん明るい口調でそう言ったので、千影は驚いて女の方へ顔を向けた。
すると、今さっきまで氷の冷笑を浮かべていた女が、目を細めて深々とお辞儀をした。
「それにしても!」
そう言って女が顔を上げた。
その顔は、先ほどのものとは打って変わって可愛らしい小花のようににっこりと微笑んでいた。
「アンタ、勇気のある男だねぇ。アンタのような勇敢な男に出会ったのは何年ぶりだろう。私、久しぶりに嬉しかったよ!」
はしゃいだように言う女の顔は、無邪気な笑い皺ができ、大人っぽい顔つきの中に少女が滲み出た。
これを見た千影はホッと胸をなでおろすと同時に浮かれた。
「せっかくだからさ、うちの店、ちょっと覗いていっておくれよ!」
そう言って女は千影に近づくと、唐紅の着物の袖から陶器のような白く滑らかな細い手を出して、長い指の先で千影のマトイの袖を摘んで引いた。
女の少し着衣が乱れた胸元からは、豊満な白い胸がチラリと覗く。
花の蜜のような頭がクラクラするほどの甘い香りが千影の鼻先をかすめた。
千影は、今、自分が息を吸っているのか吐いているのか、立っているのか座っているのかも分からなくなった。
ユキオのことなど、頭の遥か彼方へすっ飛んでいた。
「ねぇ、ちょっとくらい、いいだろう?少しだけでいいから、寄っていっておくれよ。ちょっとお礼をするだけだからさぁ」
顔を真っ赤に染めてモジモジしている千影の姿を見て、女は千影の袖を引く力を強めた。
すると、千影の腕に柔らかな女の胸が当たった。
千影はもう沸騰したやかんのようであった。
「で、でも、お、俺、まだ未成年だし、そういうお店は、ちょっと……」
千影がこう言うと、女は一瞬目を丸くして、たちまち空を向いて笑い始めた。
「まぁ!アンタったら!ここはそういう店じゃないよ。ほら、看板をよくご覧よ」
女に腕を何度も強く叩かれてようやく正気に戻った千影は、改めて店の正面の屋根に掲げられてある看板を見上げた。
“甘味処みつや”と書かれてあった。
「うちは日本一おいしい甘味処だよ。当店の一番のオススメは、みつや特製のあんみつさ。アンタ、甘いものはいける口かい?」
そう訊かれて、千影は大きく頷いたが、つい先ほどまでとんでもない勘違いをしてひとり舞い上がっていた自分が恥ずかしくて、今すぐにこの場から逃げ去りたかった。
「じゃあ決まり!ささ、いつまでもこんなところで突っ立っていないで、中へお入り」
千影は顔から火を吹き出しそうになりながら、女に手を引かれて店内へ入った。