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第十三章 千影の背負い文字③

 その晩、千影は座禅を組むようにベッドの上に座り、勉強机に広げられた特攻服をしげしげと見つめていた。


(俺はやったんだ……)


今まで経験がないほどの達成感。


(全部、俺ひとりの力でやってやったんだ!)


千影は、今日の一連の出来事を何度も思い出しては気分を良くしていた。

だが、その夢見心地の意識はすぐにはっきりとした強烈な現実世界に引き戻された。

特攻服の赤黒く染まった背負い文字が、千影の眼球めがけて飛び込んできたのだ。


“実事求是”


千影にはこの意味が未だによくわからなかったが、なんとなくこの四文字から、リキチの兄の強い念が伝わってくるような気がした。

他の銀狼の仲間達も皆、ひとりひとり違った背負い文字をそれぞれの背中につけていた。

ヤンキーたちにもヤンキーなりの信念というものが各々にあるのだろう。

千影は日中、リキチに渡した自分の背負い文字のことを思い出し、下を向いた。

そこには頼りなく緩んだ掌が二つ。


(あの文字は、本当に俺の信念なのか?そもそも、俺に信念なんてものがあるのだろうか……)


千影の晴れ澄んだ心に陰鬱とした雲が立ち込めた。


 次の日、千影はまだ日が昇る前に起きた。

自らの意志で起きたというよりは、悪夢にうなされて目が覚めた。

目覚めた途端にだいたい忘れてしまったが、その夢はとにかく真っ黒で、光などどこにもない。

目が開いているのか閉じているのかもわからない。

ただただ息苦しくて、千影はその暗黒の世界でたったひとりぼっちでもがいていた。

その時、どこからか声が聞こえてきた。


「こっちだ!千影!」


その声で千影は目覚めた。少年の声であった。

その声の主が誰なのか、千影は思い出すことができなかった。

しかし、その声の余韻を何度も反芻するうちに、自然と自分の口から言葉がこぼれ出た。


「前にもこの声に助けられたような……」


千影はスマホの明かりをつけた。登校するまでまだだいぶ時間がある。

千影は学校のジャージに着替えると、肌寒い朝霧が立ち込める薄暗い外へと出ていった。

軽くランニングをすれば体もほどよく疲れて、また眠りにつくことができると千影は考えていたのだが、結局、学校へ行く時間までランニングして、昨日借りた血生臭いマトイをひょいと片腕にかけると、そのままリキチのところへ向かった。


「やぁ、ニンくんおはよう!」


すでにリキチは小屋に来ていたようで、走ってくる千影に向かって柔らかな笑顔を見せながら手を振っていた。


「すみません、リキチさん。もういらしていたんですね」


「いやいや、僕もついさっき来たばかりだよ。それより、ニンくんは朝が早いんだね。えらいねぇ」


リキチはそう言いながら小屋の扉を開けた。


「さぁさぁ、中に入って。ニンくんのマトイが出来上がっているよ」


千影は借りていたマトイをぎゅっと握りしめて背筋をピンと伸ばした。


(俺のマトイ……。これを受け取れば、俺は本当に銀狼の仲間入りをするんだな……)


小屋に足を一歩踏み入れた。

細かな埃が舞う朝日の筋が一本、リキチの作業台に射していた。

そこにはきっちりと畳まれたマトイが置かれている。

千影は並々ならぬ緊張に襲われた。


「ニンくん、さぁ、これだよ」


作業台の横に立つリキチは、満面の笑みを浮かべて手を差し出した。

千影は冷たく汗ばんだ両手でマトイをつかんだ。


(これから、俺の忍務の幕開けだ!)


千影は思い切り広げた。

真新しいマトイには、金色の艶めいた糸で千影の背負い文字が堂々と縫い付けられていた。

千影はまじまじとその文字を見た。


「ん?」


千影は首を傾げた。

すると、目をキラキラと輝かせていたリキチも同じ方角に頭を傾けた。


「あ、あれ?俺……こんな文字、お願いしましたっけ?」


千影は顔を引きつらせながらリキチに背負い文字を向けた。

リキチは傾けた頭を直すと、またにっこりと笑って深く頷いた。


「うん!ニンくんの希望通りに!」


千影の震えた手で広げられたマトイの背には、“安全第一”と書かれていた。



「正心第一って書いたはずなのに!」


しかし、それは紛れもなく千影が自らの手で書いたものだということが、リキチの手元に残されていた、A4の紙切れに記された汚い文字で証明された。


「いったい、俺はどこまでマヌケなんだろう……」


千影は改めて自分のことが嫌いになった。

銀狼アジトから少し離れた林の中で木の幹にひとりもたれかかり、受け取ったばかりのマトイの背負い文字を眺めては、何度もため息をついた。


「まぁ、いいんじゃないのか?」


突然、頭上から声がしたので、千影はマトイを放り投げて飛び上がった。


「ったく!脅かすなよ蛍!」


木の上に隠れていた覆面黒装束姿の蛍は、千影が投げたマトイを手に取り広げると、必死に笑いを堪えていた。


「もう、ほっとけ!」


千影は頬を膨らませてそっぽを向いた。


「まぁまぁ、そう不貞るなよ。いいじゃないか、この文字。

ある意味、忍びの真髄ともとれるし」


蛍は木から飛び降りると、マトイを千影の肩にかけた。


「いよいよ始まるな、千影。油断するなよ。気を引き締めていけ」


千影は肩にかけられたマトイを握りしめると、まっすぐ蛍の目を見た。


「お前はやるときはやる男だ。

大丈夫。きっとうまくいくさ。

それに、お前が窮地に陥れば、俺はいつでもお前の元に駆けつける。

俺はどんな時だってお前のことを信じている。

だから、お前も俺のことを信じろ」


そういうと、蛍は千影の目の前に手を差し出した。

千影は一度深く頷くと、差し出された蛍の手を固く握った。


「うん、蛍。俺、頑張るよ」


二人の横をかすめた一匹の蜻蛉が巻雲めがけてツイツイと飛んでいった。

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