第一章 千影、忍者と出会う①
音もなく、臭いもなく、知名もなく、勇名のかけらもない。
春には花が咲き、秋には葉が色づくように自然の理に紛れる。
そして、ひっそりと力強く大地に根を張り続ける。天地がひっくり返されぬように。
この世は末世。神も仏もいない。テロや戦争、不況貧困、疫病蔓延、いじめ虐待、嘘や騙し、罵り蔑む。人の心は乱れに乱れ、世もまた乱れる。
『いったい誰のせいだ?』
時代が悪い、という者がいる。社会が悪い、という者もいる。はたまた、艮宮山の魔王が目覚めたからだ、という者もいる。
この乱れた世の中に愛想をつかして自ら命を絶つ者が後を絶えない。
その数、年々増え続ける。
【ばあちゃんへ。オレ、生きるのが疲れた。
だから、母ちゃんのところに行く。ごめん先行って。ばあちゃんは長生きしてね。本当にごめん。
それから、オレの大好きなつばきたんへ。あっちの世界に行ってもつばきたんのことぜったい忘れないからね。つばきたんはオレのすべてだった。ありがとう。】
「それじゃあ、さようなら」
今は春。桜色の風は、柔らかな日差しの中を悠々と吹き抜ける。田んぼの畝に咲くタンポポやスミレたちは、心地良さそうにそよそよと揺れる。
千影は、給水タンクで日陰になった校舎の屋上の端っこでフェンスに指をかけ、その光景をぼんやり眺めていた。
春といっても、まだ四月の初め。日陰になっているところに吹く風はまだ肌寒い。
腐りかけた木箱を目の前に置くと、その手前におろしたての真っ白な上履きを脱いでそろえて置き、“い書”と表に殴り書きされた二つ折りの紙を上履きの間にはさんだ。
そして、長くて太いベルトをズボンから抜き取ると、木箱に片足を乗せた。すると、木箱がギィィと嫌な音を立てた。
千影はフェンスの頭一つ上のところにベルトを引っ掛けて輪を作り、箱から下りた。
「よし。これで、準備完了だ」
千影はカラカラに乾く口の中で張り付く舌を懸命に動かして、自分自身に全てを納得させるように言った。
そして、注意深く周囲を見回した。
この屋上には千影以外、誰もいない。
いたるところの塗装が剥げて薄汚れた校舎の屋上に、千影がひとり。そこに砂埃をたっぷり抱いた冷たい風が一筋、通り過ぎていった。
脂ぎった前髪はパタパタなびき、千影は埃にむせて咳き込んだ。薄い水色の空にはトンビが一羽、寂しそうな声を上げて飛んでいる。
千影は姿勢を正して箱の前に立った。
錆びついたフェンスの向こう側には、春の陽気に包まれた生命たちがきらきら輝いている。
その光景は瞬く間に涙で淀んだ世界になったので、千影は袖で目をこすった。
そして、意を決したように一度だけ頷くと、フェンスに両手をかけて、慎重に片足ずつ箱の上にのせて上がった。
箱はミシミシギイギイと軋んだが、なんとか持ちこたえた。
箱の上に登ると、千影はフェンスからそっと手を離し、首にベルトを引っ掛けると、フェンスを背にして立った。目の先には、ペンキの剥げたクリーム色の鉄のドア。誰かが壊したのか、ずっと半開きのまま、時々そよぐ風でキィキィ鳴っている。
千影はしばらくドアの向こうの様子を伺っていたが、首を横に振った。
(絶対に今日死んでやる!早く死んで、このクソみたいな俺の人生終わらせてやるんだ!)
千影は胸の中でそう決心すると、たるんだ腹に力を入れた。
(苦しいのはほんの数秒だ……大丈夫……すぐに逝ける……すぐに楽になるさ)
呼吸が浅く早くなる。
ベルトを握る手はじわりと嫌な汗をかく。
肉に埋もれたひざが笑う。
心臓が口から飛び出てきそうだ。
千影はけいれんするまぶたをゆっくり閉じた。視界が真っ暗になったり、ドアのクリーム色がちらっと見えたりする。
「それじゃあ、さよなら」
千影は震える声で自分にそう言い聞かせると、えいっと右足を前へ蹴り出した。
だが、身体がいうことを聞かない。
足が全然上がらない。
それどころか、何とか落ちないようにバランスを取ろうと太い体を必死に支えている。
「きょ、今日は日が悪いのかな。や、やっぱ明日にしようかな……そうだ!死のうと思えばいつだって死ねるんだし!べつに今日じゃなくても……」
そう独り言をまくし立てている時だった。
とつぜん、足元の木箱が、自分の力ではない何かによって勝手に動き始めた。
千影はバランスを崩してエビ反りになった。
(地震か?!うわっ!お、落ちる……!)
慌てた千影は閉じていた目をカッと開いた。
まだ揺れている。
木箱がギシギシ軋む。だが、建物が揺れている感じではない。
まわりのフェンスは揺れているような音を立てていないし、目先のドアも静かだ。
千影は木箱から落ちないよう首にかけたままのベルトにしがみつき、おそるおそる足元を見下ろした。
そして、目が点になった。
「だ、誰だ?お前……」
そこには、全身白装束に身を包んだ覆面の忍者がひとり、一心不乱に千影が乗っている木箱を揺らしていた。
あまりにも一生懸命に揺らしているので、この白い忍者は、千影が見ていることにも気付いていないようだ。
この突然の非日常的光景に驚いた千影は、首を吊ろうとしていたことをすっかり忘れて、必死に箱を揺らす白い忍者をしばらくの間見ていたが、正気を取り戻した千影は、たちまち、忍者の格好をした得体の知れない人間に恐怖を覚えた。
「お、おい!お前!お前はいったい誰なんだ!」
千影がうわずった声でこう訊ねると、忍者はハッと我に返ったかのように顔をあげた。
その顔は、鼻から下は頭巾で覆われていて、すっかり見ることができないが、わずかに覗く小さな目は、驚きのあまりビー玉のようにまん丸になっている。
「き、貴様、死にたいのだろう?だが、貴様を見ていたら、なかなか踏ん切りがつかないようであったから、俺が助太刀してやろうと思ったまでだ」
忍者は、初めは千影に気付かれたことに動揺していたようだったが、開き直るようにそう言ったので、千影は妙に納得してしまった。
「貴様は、今すぐにでも死にたいのだろう?
だが、恐怖でなかなかこの箱から飛び降りることができない。
だったら、この俺が手を貸してやろうというわけだ。
わかったのなら、ほら、俺が箱を揺すって貴様を落としてやる!」
そう言うと、忍者はまた箱を揺すりはじめた。
「や、やめろ!俺、今日はまだ死なないことにした!今日は自殺を中止することにしたんだ!だ、だから、もう箱を揺するのをやめろよぉぉぉ!!!」
千影は自分の首を引っ掛けたままのベルトにしがみつき、軋む木箱の上で必死に訴えたが、忍者はいっこうに手を止めようとしない。
そのうち、箱の軋む音がギイギイからバリバリピキピキと変わった。
「だ、誰かぁぁぁ!!!誰か助けてぇぇぇ〜!!!」
とうとう、千影は力の限り叫んで助けを求めた。
“バキン!”
どこからともなく金属片のようなものが、勢いよく千影の頭のすぐ上のところへ飛んできて、フェンスに刺さった。そのとたん、木箱はバキバキと音を立てて崩壊した。
そして、ドシンという大地を揺るがすほどの大きな音とともに、千影の肉がたっぷりついた背中と尻に激痛が走った。
息が詰まった。
頭の中がすっかり混乱してしまった千影はベルトを両手で握りしめたまま、両足をバタつかせた。
(痛い!苦しい!俺は死ぬのか?これが俺の最期なのか?)
千影は絶え間なく自問した。
「千影、大丈夫か?」
千影の頭上で声がした。
その瞬間、頭の中の混沌とした闇に一筋の光が差したようだった。
聞き覚えのない若い男の声。
きっとこれは、自分を迎えに来た天使か菩薩の声だと、千影は悟った。
(あぁ、やっぱり俺は今日死ぬんだな。きっと俺はこれから純白の天使か何かにあの世へ連れて行かれるんだ……)
千影はゆっくりと目を開けた。
「おい、千影、大丈夫か?」
だが、千影の目の前に立っていたのは、全身黒ずくめの覆面忍者ひとりだけであった。
「ま、また忍者!?」
千影はそう言うと、すぐさま立ち上がりその場から逃げ去ろうとした。
だが、フェンスに背をもたれかけた姿勢から体がピクリとも動かない。
黒装束の忍者は、フェンスの上の方にひっかかっている四方にとがったナイフのようなものを軽く跳んでひょいと抜き取ると、千影の目の前までやってきて立てひざをついた。
「心配するな。俺はさっきの白装束の者とは違う。お前の命を狙ったりしない」
その忍者も、白い忍者同様、鼻から下をすっぽり覆った覆面頭巾を被っており、大きな瞳は澄んだ水のように美しかった。
「俺は百地蛍。伊賀忍者だ」
「は、はぁ?い、伊賀忍者?」
「あぁ、そうだ。この格好を見れば一目瞭然だろう?」
「ま、まぁ、そうだけど……」
すっかり抜けてしまった腰を少しずつ横にずらして退きながら、千影は、堂々と自分のことを“忍者”だと言い張る男を見て、自分が自殺未遂にまで追い込んだ元凶をまざまざと思い出した。