走る大空
七
慣れない速さで進もうとしたため、爺さんの足がもつれた。まるで糸であやつられた操り人形のように手足が踊っている。
河で溺れそうになって、命たえだえに、対岸にたどり着こうとする姿にも見えた。
それでもなんとか、道路の向かい側まで渡りきった。
セダンは、高らかにクラクションを、戦のかちどきのように鳴らし、爺さんを掠めるように通過していった。
開け放たれたサイドウィンドウから怒鳴り声が聞こえた。
「バカヤロウ! くそ爺、ウロウロしてんじゃねえよ!」
セダンはさらに加速すると、大空の家の前の交差点を矢のように走り抜けていった。
なにはともあれ跳ね飛ばされなくてよかった。大空はほっと胸をなでおろした。
だがそれで安心してはいられなかった。
渡った先の歩道を見ると、そこに爺さんが倒れているのだ。
大空の部屋からは少し距離があって、表情まではわからないが、歩道で寝そべって、片方の手で膝のあたりを押さえている。
高齢で足腰が弱っているところに、道路を足早に渡ろうとするから転んでしまったのだ。
爺さんが転んでいる姿を見ながら、大空の心は急に冷え冷えとしてきた。
自業自得だ……と思ったりもした。
大空は窓から離れると、外の世界から自らの知覚を遮断するかのように、安楽椅子のなかに埋もれた。
――わざわざ家から飛び出して、爺さんのもとまで駆けつけることもない。もう、爺さんのことは見なくていい。
大空があえて行かなくても、すぐに誰かほかの通行人が爺さんを助け起こすだろうと思った。
安楽椅子を揺らしながら眼を閉じた。
だが、揺れているうちに胸が苦しくなってきた。
いったい、自分の退職後の生活はなんなのか? そんなことを考え出した。
仕事をやめて、本を手に書斎にこもり、すべての煩わしさから逃れる。そして時にはぼんやりと、下界の景色を見る。これが望みの生活なのか? と自問した。
大空の心臓はドキドキと高鳴り、悲鳴に似たような音になってきた。それが自分の胸のなかで聞こえているのだ。ついには痛みさえおぼえてきた。
胸の底に埋めておこうとするものの、職場での人間関係も逆流して溢れ出してきた。
係長たちとのいざこざは大空には耐えがたいものであった。そのために人間嫌いになって、退職した。そして、もう人と関わりたくないと思った。
大空はさらに自分に問いかける。
そんなことが、困っている人を助けなくてよい理由になるのか?
大空は胸をかきむしると、安楽椅子から立ち上がった。
傍観者でいいわけがない! と声をあげた。
窓の外の爺さんをもう一度見た。
歩道に寝転んだままだった。悪いことに通行人の姿は見当たらない。
大空は書斎から飛び出すと、階段を駆け下りた。三和土に立つと、コンビニに行くときに掃くサンダルには眼もくれずに、下駄箱のなかで何年も眠る運動靴を取り出した。
爺さんのもとへと行かなければ。その気持ちだけで動いていた。
大空は歩道を走った。
駆け寄ると、窓から見たときは爺さんは片肘で歩道に身体を支えていたのに、いまは、ぐったりと寝そべっていた。
「だいじょうぶですか?」
声をかけてもうめくばかりで、大空がそばにいることすら気づくようすがない。身体をかがめしゃがみ込むと、爺さんの細い肩にふれた。
「ちょっと失礼。脚はどんな状態ですか?」
爺さんはようやく、大空のほうに顔をあげた。
皺のなかに埋もれている細い眼が動いた。
「ああ……、すみませんな。左脚がおかしくなったようでね。痛くて動かないんですよ」
しわがれて今にも消え入りそうな声だった。
爺さんは左脚を動かしてみようとするが、苦痛で顔を歪めただけで、脚はぴくりとも動かなかった。動かそうとしたことで、痛みがひどくなったようで、顔をしかめてさらにうめきだした。
「動かないで。そのままじっとして。救急車を呼びます」
大空はそういって、ズボンのポケットに手をやる。
慌てて出てきたため、スマホを持ってくるのを忘れたことに気づいた。
馬鹿もんが! この役立たず! 大空は言葉に出さずに自らをなじった。
こうなったら、爺さんをいったん一人でこのまま置いといて、家まで電話をかけに戻るしかない。
「ちょっと待っていてくださいね。すぐそこに家があるんです。家から電話で救急車を呼びます」
立ち上がろうとした、そのときだった。
ブルンブルンという聞きおぼえのあるバイクの音が近づいてきた。
その音を聞いた瞬間、大空は爺さんの心配とは別にいらだちを覚えた。
道路の先へと眼を向けると、これまで何度も腹を立てた、騒音をふりまく赤のバイクがこちらにやって来るのが見える。乗っているのは例の黒のヘルメットを被った若者だ。
こんなときに通りかかるか! とはらわたが煮えくり返る。
さっさと行ってくれ、と思っていると、若者は爺さんと大空のかたわらに、すぅーっと赤いバイクを寄せ、ぴたりと止まった。
若者にいざかたわらに来られると、大空は恐れて肩を縮こませた。
ヘルメットの下からのぞく顔は、目つきが鋭く濃い顔つきであった。過去の職場での記憶と重なった。係長と一緒になって怒鳴り散らしてきた若い職員に似ている。
若者はバイクにまたがったまま、こちらを観察している。
やられる……と、大空は震えた。
( 続く )