道路上の爺さん
六
窓から覗く秋の空は、一年でこの日にしかお目にかかれないというほどの、透き通った青空だった。
そんな天気とは裏腹に大空の気持ちは晴れなかった。指先でぐるぐると、安楽椅子のひじ掛けに意味もなく小さな円を描いていた。
光也が、明日香さんを連れてくる日が、来週の土曜日と迫っていた。
美香からは、この前の話の続きで、こんなこともいわれていた。
「あなた、光也の相手のかたのことだけれど、どう思う? 会ってみないとどんな人かはわからないけど、あの子なら探せば、もっと若くて素直そうな人がいくらでもいるんじゃないの?」
骨とう品のような古い結婚観かもしれないが、美香のいうことにも一理ある。
大空は言葉を濁した。
「そりゃあ。会ってみないとなんともいえないよ」
美香と同じように、明日香さんが光也より年上で、大学の助教というのには引っかかっていた。なによりも、光也と同じ大学の助教というのに気圧されていた。
光也は、素直な子どもでなにごとに対しても前向きだった。大空の息子にしてはよく勉強した。それに、おまけに光也は理系人間だ。
大空の頭のなかには理系人間は理解できないものだという思いがある。
子どものころより、数字や記号だけで考える理系人間がまったく理解できなかった。
もちろん大空は凡人がゆく私立大学文系卒である。
どちらかいうと光也は妻の美香の頭を受け継いだのかもしれない。
妻の美香は、優秀と名のつく大学を卒業して、若いころは教員をしていた。
いろいろあって、その教員を辞めて学習塾の講師をしていたのだが、大空を産んでからは、また考えが変わって、人に教えるのは面倒だといって、最近ではセイオンのパート勤めをしている。
大空にとって、妻の美香のほうは文系人間であるところが救いだった。
だが、光也となるとお手上げだった。
数字で出来た自分の息子の頭の中を覗くことさえ、気おくれした。それなのに、明日香さんという人は、そのまた上をゆく大学物理学の助教という。
顔にはあらわさないが、美香も大空ほどではないにしても、明日香さんと会うことに内心畏れを抱いているに違いない。
明日香さんと会って、なんの話をして、どう返事をしたらよいのだろうか?
親が明日香さんとそりが合わなかったらどうだろう? だが、いまは、本人同士が決めた結婚に反対などできるような時代でもない。
そうなると、表面的には終始なごやかな関係を保ち、この先もよろしくね、なん言って対面を終えなければならない。
そんなことが、この自分に果たしてできるのだろうか? と大空は思う。
考えれば考えるほど、明日香さんと会うことに尻込みしてしまう。
大空がうじうじ考えていると、窓の外に何日かぶりで見知った人物の姿が見えた。
「爺さん……」
自然と口をついてでた。
例の中折れ帽をかぶった爺さんであった。何度か見るうちに、親近感を抱いていた。
いつものようにひとりで、家の西側を走る道路の歩道を、こちらに向かって歩いてくる。あい変らず、いまにも転びそうだ。
危なっかしくて見ていられないから余計に気になる。
しばらくして爺さんの足が止まった。
爺さんは道路に向き合うようにして立つと、左右の確認をはじめた。
いつものように交差点の手前で道路を渡る。心もとない足取りで、やっこらせといった調子で、道路に足を踏み出した。
同じことの繰り返し……ならいいのだ。
ところが、今日ばかりは違った。
驚きで、それこそ口から心臓が飛び出しそうだった。
「待てっ! 止まれ」
大空は窓に額をくっつけて大声をあげた。
車がやって来るのだ。それも見るからに横着そうな白のセダンだ。
爺さんはセダンに気がついていない。ふらふらと道路を渡る。
白のセダンは派手にクラクションを鳴らした。鳴らすだけで、スピードを落とそうとしない。
爺さんの耳には未だクラクションの音は届いていないのだろう。ゆらりゆらりと道路を横切っていく。
クラクションはさらに大きさを増した。
まるで怒鳴り声のようだ。周囲一帯を威嚇するように鳴り響いた。大空は、白のセダンにはね飛ばされた爺さんが、高く宙に舞い上がる光景を思い描いた。
道路の真ん中でようやく、爺さんはセダンが迫ってくるのに気がついた。遠くからでも爺さんの驚きが手に取るようにわかる。
爺さんは、鶏のように首を前に突き出すと、爺さんなりに慌てて脚を速めた。
( 続く)