大空の日常
二
この四月の初めのことだから、すでに半年と少し前のことだ。
大空は定年退職をむかえたその翌週、妻の美香にカタログを見せ、長く勤めあげた自分への褒美として、安楽椅子を購入したいといった。
美香には内緒であるが、本当の理由は、勤めていた職場での、冷たく硬い事務用椅子の感触を忘れたいがためであった。そのために、職場用の椅子とは似ても似つかない、心を癒すための安楽椅子が欲しかった。
ネット通販の検索と、家具店を数件回って、最後に見つけた高額なものだ。
即座に美香が、購入することに反対の意をとなえた。
「どうして、そんなに高価な安楽椅子を買うの? ただのリクライニングチェアでしょ。代わりに最新のテレビとビデオデッキが買えるわ。それに、第一どこに置くつもり?」
「もちろん、おれの書斎だよ」
幸運にも大空には書斎があった。
美香と結婚したてのころ、子どもができる前に家を建てようということになった。間取りは、子どもを二人つくる予定で考えたが、出来たのは男の子一人だった。そこで、空いた五畳ほどの狭い一部屋を大空の書斎としたのだ。
狭い書斎にさらに安楽椅子を置くというので、美香はつんとした態度で、「まあ、これ以上、部屋を狭くしたら、足の踏み場もないわ。仕事を辞めたあとはなにもしないのだから、書斎ぐらいは、あなたが掃除してね」と、皮肉った。
いわれるまでもなく、書斎ぐらいは自分で掃除するつもりでいた。
椅子を買うことに反対した美香であったが、それ以前に、美香にはもっと大きな不満があった。それは大空が、六十歳の定年で仕事を辞めることであった。
大空は書斎の置時計に眼をやった。午前の十一時をさしている。
書斎にこもっていると、気分転換にしばしば窓の外を見る。そうすると、次第に、よく見かける顔を覚えてしまうものだ。
大空は安楽椅子にすわったまま首をのばすと、窓に顔をくっつけ、交差点から住宅地の奥へとつながる西側の道路を見た。
その人物は、大空のほうから見て車道の向こう側の歩道を、とぼとぼとこちらに向かって歩いてくる。中折れ帽をかぶった、八十歳過ぎの爺さんである。
通勤時間帯なら、勤め人や学生が多数行き交うのだが、いまの時間、歩いているのはその爺さんだけだ。
夏場にはいっとき見かけなかったが、季節がよくなった最近、また、同じ時間帯に歩いているのを見かける。
痩せ型で少し背中が丸まっている。ガニ股気味に開いた脚はいかにも力がなさそうで、いつ転んでもおかしくない。
爺さんは道路を渡ろうと、歩道で立ち止まると、首を左右に動かし、安全を確かめだした。
大空の家の前の交差点には、歩行者用の信号もあるのだが、長い信号待ちを嫌い、たいていのものは、その手前の信号のないところで道路を横切ってしまう。
爺さんも例外ではなかった。いつも手前の横断歩道のない、決まった場所で道路を渡る。
結局、歩行者用の信号を利用するのは、登下校の小学生がほとんどだった。
いきなり爺さんが道路を横断しようと足を踏み出した。大空は驚いて、椅子から腰を浮かせた。
その爺さんが渡ろうとするその先から、一台の車が走ってくるのだ。爺さんの脚では道路を渡るのに時間がかかる。通常のスピードで車が走ってきたら、爺さんがはね飛ばされてしまう。
どこの誰かもわからない爺さんであろうと、命にかかわることだから気になる。
「爺さん。危ない」
大空は声を出していた。
すると、車のほうが横断していく爺さんに気がついたようで速度を緩めた。のろのろ運転にして、爺さんが道路を渡りきるのに合わせてくる。
前方注意を怠らない良心的なドライバーであったため、爺さんは無事に道路を渡りきることができた。大空は胸をなでおろした。
車は爺さんが道路を渡りきると、通常のスピードに戻して、大空の家の前の交差点を走り抜けていった。
爺さんは何事もなかったように、渡った側の歩道を歩いてくる。
交差点のところまでくると、そこから曲がって、大空の家の南側の通りを歩いて行く。この通りは小学生たちの通学路でもある。
小学校に向けてその先は、歩くには良い道が続いているから、おそらく爺さんはそのあたりをぐるりと散歩してくるのだろう。
( 続く )