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大空少年が無事に愛田県職員として勤めあげた

         一


 観測史上最高気温と騒がれる猛暑といっても、エアコンのかかった書斎のなかにいる生活には関係がなかった。

 そうはいっても、夏が過ぎ去ったいま、二階の窓を開けて、初秋の風を呼び込むと、レースのカーテンが頬をくすぐって心地良かった。一日のほとんどを、大空だいすけは書斎にある安楽椅子にすわり、本を読んで過ごしていた。

 お気に入りの安楽椅子にすわっていると、背中と腰が、フランネルの布地に柔らかく包まれて、幼子のころにゆりかごに揺られていたときのようなまどろみに誘われる。

 安楽椅子を好む理由にはもうひとつある。

 日々頁を繰る小説のなかで、登場人物の使うアイテムとして、ひときわ精彩を放っているからだ。とりわけ推理小説の主人公が使っている安楽椅子は印象的だ。

 大空は瞼を閉じると、安楽椅子のなかに沈み込んだ。そして小説の一節を頭のなかで反芻した。

 いまのこの生活こそが、大空が求めていたものだった。

 ひねもす本の頁を繰り、うつらうつらと居眠りをする。太平無事であった。

 ところが、そんな心安らかな時間に、外の世界から、横槍を入れるものがいた。

 耳元の窓硝子が、感電したかのように小さく震えた。次にはバイクのエンジン音が飛びこんできた。

 大空の家と信号交差点とは隣同士であった。

 家のすぐ西側には、朝夕の通勤時間帯には、途切れることなく車が走る道路があり、その道路に突き当たるように、家の南側には、住宅地のなかを横切る通りがあった。

 通りが道路に突き当たったところは、T字路となっており、そこが信号交差点となっていた。その角が大空の家であった。

 だから家の二階にある書斎では、交差点の音が丸聞こえで、なにが起こったかが手に取るようにわかるのだ。

 安楽椅子にすわったまま大空は、首をのばすと、窓に顔を寄せて交差点を見おろした。

 距離にして二十メートといったところか。見覚えのある赤の小型バイクが止まっていた。また、あいつかと思った。いつものようにブルンブルンと大きな音でエンジンをふかしていた。

 午前十時前という、ちょうど交通量が少ない時間帯のため、なおさらそのエンジン音が気になる。

 乗っているのは黒のヘルメットをかぶった若者だ。ジーンズをはいて、シャツの裾を出している。ここから繁華街へ向けて車で五分ほど走ったところに大学があるから、そこの学生かもしれない。どうせ勉強などしない、横着な奴なのだろう。

 交差点は、右折レーン用に信号が時差式になっているため、そのぶん信号待ちが長い。大空の苛立ちもつのる。

 窓から顔を出して、「バイクの音がうるさいんだよ! 静かにしろ!」と大声をあげたかった。

 しかし、若者がごろつきのような奴であったのなら、逆に家にまで怒鳴り込まれ、こちらが追い込まれてしまう。

 いやというほど待ったのち、信号がようやく変わった。若者のバイクは爆弾のような破裂音を出して走り去った。

 大空はため息をつくと、あらためて安楽椅子に沈み込んだ。


 すると、そこに書斎の扉をノックする音が聞こえた。扉が半分ほど開くと、よそ行きに着替えた妻の美香が顔を見せた。

「わたし、いまからセイオンに行くから、あとのこと頼んだわよ。それと、昨日の夜、光也から電話があって、来月そうそうにこちらに来るって」

 セイオンとは近所にある大型ショッピングセンターのことである。

「ああ、いってらっしゃい」

 大空はそういって美香を送り出す。

 六十歳の三月末で愛田県を定年退職した大空が一日中家にいるため、夫婦で顔を合わせているのがいやなのか、美香が代わりにアルバイトに出るようになった。平日の五時間、大手ショッピングセンターであるセイオンで経理補助をしている。

 美香が先ほどいった『あとのこと頼んだわよ』というのは、美香が働きだしてからの大空の家事分担のことだ。美香が、洗って干した洗濯物を取り込むことと、風呂洗いがそれだ。

 大空は、昼飯は自分でなんとかする。コンビニで買うか、インスタントものをつくるか。

 夕飯のほうは、美香がそれまでに仕事を終えて帰ってくるので、従来通りつくってくれる。

 大空も美香も、最近ではこの生活に馴れていた。

 書斎にいる大空に、美香が出がけに声をかけるのはいつも通りだが、この日、最後に気になることをいっていた。そのことが大空の心を穏やかならざるものにした。息子の光也のことであった。

 光也は高校を卒業すると、愛田県のこの家から遠く離れた関東の大学に入学した。大学院を含む六年間の勉強ののち、そのまま関東の会社に勤めている。

 勉強や仕事で忙しいため、この十年間というもの、家に帰るのは、盆と正月だけであった。

 家を出てからの光也は、とりたてて大空の気を揉ませたり、手を煩わせたりすることがなく、光也は光也で生きてゆき、父である大空がかまう必要がなかった。

 ところが、今回はそうはいかなかった。

 大空は遠近両用の眼鏡をはずすと、手にした文庫本を置いた。光也のことを考えるのが面倒であった。

 眼を閉じて、職人の手作りによる安楽椅子の、木製のひじ掛けに肘を置いて揺らしてみる。いったん乱れた心が、しだいに落ち着きを取り戻してきた。

 光也のことも遠のいていった。


    ( 続く )


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