もう降ることのない青の下で
それはきっと、はじめての雨だった。
雫がひとつ、ぽつりと頬を撫でてゆく。まさかとおもい見上げた途端、空のやつはざあざあと景気よくやりはじめた。
まだ肌寒さの残る山の袂にひとりきり、体を濡らして得られるものもなく。僕は取るものとりあえず、近くの手水舎へと駆けた。
「ふう……」
遠くはずれにある、廃れて久しい小さな神社。親の代にはそれなりの催し物もあったような。なぜと聞かれてもよくわからないが、僕はいつからか空いた時間をみつけては繁く足を運び、ひたすらにこれを掃除していた。
けっして打ち込むつもりはなかった。受験勉強の息抜きにふらりと立ち寄り、荒れ果てた社になにをおもったか草でもむしってやろうと、ただそれだけだった。そこに思い入れが在るでもなければ使命感やなんかでもなく、過去を悔い改めたかったわけでもない。
しいて挙げれば、上手くいかない学業への苛立ちを発散したかったとか、あるいは漠然と良い行いがしたかっただけなのかもしれない。
にもかかわらずそれから幾度もここに通い詰め、あげく濁りゆく空模様に気づけないほどには、きっと熱を入れていたのだろう。
己の意外な一面に関心を寄せながら、雨に打たれた上着を払う。それからてごろな岩へと腰を据え、ふうと小さな鼻息を見送って、視線をあげた。
いつから、だろうか。
今日ここへ来ていたのは間違いなく僕ひとりだった。いや、これまでに一度だって誰に会うこともなかった。
冴えない林にぐるりと囲まれ、忘れ去られてくたびれた社の傍ら。そこから、こちらをじいっと伺う者がひとり。
淡い朱染めの着物、伸ばしてばかりで腰ほどまであろう黒髪。大人びた端正さを纏いながらも、どこかあどけなさの残る顔。凛をおもわせる佇まい。しかしながら、とても手放しに褒められるでもない薄汚れた出立ちをしている。
そんな不思議な少女としばらく、ただ静かに見つめ合う。
今の時代に珍しく、それでいてこの場に在っては相応しいなと、なんだか素直にそう感じた。
降りしきる音に遮られ、きっと言葉は届かない。そうおもえばこそ、ほんの礼儀のつもりで会釈をしてみた。するとやはり、あちらもまた深々と頭を下げ、それからあっさり踵を返し、奥のほうへと姿を消した。
どこの誰なのだろうとは考えなかった。ただなんとなく、後ろ姿に見惚れていた。
それが、彼女との出会いだった。
ふたたび神社へ訪れるまでに、少しばかりの間があいてしまった。だからこそ、その日は気合いを入れて朝早くから掃除をはじめた。参拝する者もなく、誰に喜ばれることもないというのに。
たしかに、また会えたらという期待はあった。そこに邪なものが無かったともいわない。
どんな名前だろうかとか、こんなところでなにをしていたのだろうとか。ともすれば今日の塾はさぼってしまおうだとか、夜はなにを食べようだとか。
とにかくそんなことを考えながら、目につく汚れをのんびりと掃除しつづけた。
この日、彼女の姿は拝めなかった。
くたびれ損とはおもわなかったが、少しばかりの物足りなさもまた、嘘ではなかった。
はじめて言葉を交わしたのは、やはり雨の滴る鬱屈とした日のこと。いつまでも顔を出さない空を睨みつけ、酷くなる前に引き上げようと、荷物をまとめはじめた頃だった。
しかし、言葉を交わしたというのは正しくはない。なぜなら、彼女は声を持たなかったからだ。もしくは類稀なる無口なのかもしれないが、故に彼女は僕の問いにゆっくりとうなづいてみたり、あるいは微笑んだり、目を伏せたり。
社の軒先に腰掛けながらの四苦八苦なやりとりの末、どうやら彼女もまた、この神社のありさまを憂いていることがわかった。
彼女もまた――――。
自然とそうおもえるほどに、僕はこの神社に対して愛着のようなものを抱きはじめていた。
彼女はこの地で生まれ、この地で暮らしている。歳のほどは変わらないようにみえるが、しかし流行やなんかについては僕以上に疎かった。
だからだろうか、彼女は僕の話をいつも愉しそうに、とても真剣に受け止めてくれる。声に出さずともそれは充分に伝わってくる。
そうして他愛もない会話をしながら、どこか嬉しそうに箒を握る彼女と笑い合う。そんなことを繰り返すうちに、いつしかその笑顔は僕の深くに強く焼きついてしまっていた。
彼女とは、神社に行けば必ず会える。
けっして、そういうわけではなかった。それどころかながく会えない日々が続くばかり。奇妙なことに、彼女は雨の降るときに限って顔をみせるようだった。
それからもうひとつ。神社が少しづつ綺麗になってゆくにつれ、彼女の姿もまた、不思議と少しづつ輝いてみえた。
どんどん綺麗になってゆく神社と、彼女。それが本当にただ嬉しかった。
晴れた日にはひとりで、雨が降れば彼女とともに。
そうとわかってからの僕は、実に単純だった。次の雨はいつだろうかと待ち焦がれ、あてにならない天気予報に悪態をつき、しまいには雨乞いの真似事をしてみたり。
僕の行動はまるっきり子供のようだった。それを抑えきれない心もまた、同様に。いつか忙しさにかまけて忘れてしまっていた胸の高鳴りを、思い出しでもしたかのように。
ある雨の日。今日もまた彼女に会えると、僕は当然のように浮き足立っていた。新調した雨具を纏い、もはや汚れを探すほうが難しいくらいに綺麗になった社を前に、早くからひとり黙々と勤しんでいた。
しかし、待てど暮らせど彼女は現れない。控えめな雨雲ではあるが、いまにも止みそうな小雨ではあるが、ともに笑顔を並べていてもおかしくはないはず。
雨の日は必ず会える。それはこれまでに彼女が現れた状況から、僕が勝手に決めつけていたこと。でも、そうと確信できるほどに、雨はいつだって彼女を連れてきてくれた。
連れてきてくれると、おもいたかった。
それからはいくら降れども、たとえ土砂降りであろうとも、あの笑顔を見ることが出来なくなっていた。
彼女に会えないことが、こんなにも苦しかった。
それでも、いつかきっと彼女の喜ぶ顔がみたくて、いつかきっと会えると信じて。ただそれだけのために僕はひとり、来る日も来る日も神社を磨きつづけた。
ただ、彼女に会いたかった。
本当はなんとなく、わかっていた。彼女の存在と、そしてこの小さな神社と。
もしかしたら彼女が雨を降らせ、全ての汚れを洗い流そうとしていたのではないか。
だけど、僕がこの神社を綺麗にしてしまったから、以前のように蘇らせてしまったから、だからもう彼女に会えなくなってしまったのではないか。
そういうことにしておかないと、僕の心はどうにかなってしまいそうだった。そういうことにしておかないと、でないと、あの優しい笑顔に嫌われてしまったんじゃないかって。
こわかった。
自分に都合の良いことばかり。だけど今の僕にはもう、僕に在るのはもう、ここだけだったから。
僕は 今日もここにいる
見違えるほど綺麗になった 彼女のそばに
彼女は 僕を見てくれているだろうか
僕のそばに いてくれているだろうか
もう降ることのない青の下
降るはずのない雨粒ひとつ
ぽつりと 頬を撫でてゆく
それはきっと さいごの雨だった
流してしまったものと、流れてしまうものと