救済の手を
記念すべき10度目の転生は、アスタルナ帝国のドロシー・シュワルツとして生を授かった。
マリアナとして世界を救った記憶など蘇ることもなく、今世ではドロシー・シュワルツとしてぬくぬくと生きていけたらこれ以上嬉しいことはない。しかし経験上そんなイージーモードはない。
物心ついたときには、ドロシーは綺麗さっぱりこれまでの自身の輪廻転生譚を思い出していた。4歳の頃だ。ミシェル・カインズとして生まれて初めて聖職に就いた記憶など、大昔の栄光のように思える。
たった4つで世界の命運を遣わされた幼女の気持ちがお前らにわかるのか。周りの大人は蝶よ花よとドロシーに微笑んだり、語りかけるばかり。話にならない。
幼くしてドロシーは心に誓う。
この国に今後降りかかる災厄など救わないと。
聖女なんて慈善活動には一切手を出さないと。
しかし、国が滅ぶのは彼女も本望ではない。
これでも一応は聖女の端くれであり、実績もある。自国が悪に屈する様を指を咥えて見ていることはできない。
ここまで何も手を打たず、運悪く私以外に世界を救う者がいなければ、あっという間に滅亡ルートの穴に真っ逆さまだろう。困ったものだ。
だから幼いドロシーは、一策を講じる。
そうだ。私の代わりに世界を救う奴を育てよう。
そいつに聖女代行をさせてやればいい。
そして救済の聖女は、弟子をとるための旅に出た――。
時の流れは現代に巻き戻り、貿易商人のヴォルガード公の屋敷を飛び出したところだ。
その屋敷の奴隷使用人だった少年エリオを連れ出し、手懐けようとするがどうやら簡単には懐いてくれないらしい。まるで気難しい野良猫のようだ。
ドロシーは頭を悩ませた。ここまでしてようやく捕まえた弟子候補を、これから上手く飼い慣らしていかなければと。
「どの道あなたはあの屋敷にいることはできなかったの」
「なっ」
「ヴォルガード公と婦人が悪夢を見るようになったのは、あなたのせいだからよ。エリオ」
どういうことだと、力の入らない身体を前のめりにしてエリオは問い詰めた。彼女は素直に応じる。
「はっきり言うなら、原因はあなたが作る料理ね。隠れてコソコソと不純なものを料理に混ぜていたけど、ヤマトナデシコ族は意図せずして霊体を引き寄せてしまう体質……まああなたは明確な恨みを持ってやっていたようだけど」
彼女の話では、エリオが密かに彼らにしていた悪質な嫌がらせによって、彼らが口にするものに邪気が蓄積し、体内に吸収することで影響が出始めたという。ちょうど半年前から……。
「ウソ、だろ……そんなことで」
「あの壺には何もなかったわ。それにあの壺の形に、焼き方……ここから遠く離れた東洋の国の伝統工芸品じゃないかしら。数百万はくだらない」
「だ、だってあいつら、昨日も俺の料理を食べて、今朝はよく眠れたって言ってただろ!?」
「ええ、あんなに臭いのによく気づかないのね。あのままじゃ夜もうなされることだろうから、よく眠れるお薬を渡したのよ」
そういえば、とエリオは昨晩の記憶を思い起こす。確かに彼らに薬を渡してやっていた。
だが、エクソシストの除霊剤なんていうのは真っ赤な嘘だ。聖女の浄化の力を込めたただの睡眠薬だと言う。
「ど、どうしてその弟子が俺なんだ。別に俺じゃなくてもいいんだろ?」
その聖女の弟子という役職に、自分がなれるとはエリオには到底思えなかった。飢えれば道草を食べて生き、時には盗みを働き、奴隷として生きるしか能のない自分には……。
「いいえ、あなたが適任よ。エリオ。あなた達の種族の特別な力は、実態のない彼らに祈りを捧げることとよく似ている。きっとあなたなら大丈夫」
俯いた少年に、ドロシーは優しく語りかける。
これも聖女の役割のひとつだ。現役の頃はこんな風に人々の悩みを聞いて回っていた。一人の少年の心を救うことは彼女には難しくない。
「それにこうなってしまった以上、他に行く宛なんてあるのかしら?」
「……」
逃げ場を失った少年の絶望感に満ちた眼差しが、ドロシーを睨んでいる。最早彼に逃げ場などないのだ。エリオはすでにドロシーの手中で転がされている。
今こそその不敵な微笑みに一族の力を発揮する時だと呪いの念を込めるが、彼はまだ力をコントロールするどころか、発動の仕方もよくわからなかった。彼は無力だった。
「心配しなくても、あなたの面倒は責任を持って見るつもりよ」
そもそも一介の元奴隷が、百戦錬磨の窮地を救済した聖女相手にどうこうできるはずもないのだ。もう一度言う。彼は無力だ。
「それじゃあ、お腹も空いたし何か食べに行きましょうか。エリオ」
聖女の手は、行き場を失くしたエリオの前に差し出される。彼の行き場を失くした原因もまたこの聖女である。
だが、遅かれ早かれ自分の運命はこうなっていたと、彼は思う。この手はきっと紛うことなき救いだ。
朝日に照らされる彼女の手を、エリオは掴んだ。
自分の新しい運命を生きるために。