奴隷の運命と聖女の望み
一部投稿済のタイトルを変更しましたが、内容はそのままです!
「傑作だったわ。あの蟷螂みたいに惚けた顔!」
くつくつと大口を開けて彼女が笑う。
気品に溢れた奥ゆかしい女性の面影などどこにもない。目の前で大口を開けているこの女は誰だ。
ヴォルガード公の屋敷の敷地を離れ、山の中腹まで降りてきた。屋敷を突然飛び出すことになり、朝から腹を空かせて生まれて初めて人を殴って仕事も失ったエリオの体力はもう限界だった。
適当な木陰で休もうとしたが、カトリアの豹変ぶりにエリオはこの先不安しかない。
「……おい。そんな場合じゃないだろ。どういう相手を敵に回したか、あんたわかってるのか?」
ヴォルガード公は国の有力な貿易商の一人だ。人脈も広い。一度敵に回せばどんな報復に合うかわからない。
あんな国の貿易に関わる人物を敵に回して、この国ではもう暮らしていけないだろう。
「さあ。知らないわよ。あんなしけた顔の蟷螂。人を見下してるような態度も気に入らないわ」
「あの男はこの国でも名の知れた貿易商の男だぞ。逆らってタダで済むわけがない。もうこの国で生きていけなくなる」
どんな仕打ちが待っているかを想像して、エリオは胃が痛くなる。こんなことならまだ耐えてあの屋敷に居させてもらう方がマシだったかもしれない。
絶対的窮地だというのに、この女はどうしてこうも能天気なんだ。
「あら、そう」
「あんたなあ……これからどうなるかわかってるか? あの蟷螂に素性もバレてるんだぞ」
社会的抹殺どころか、殺し屋を雇って追いかけてくるかもしれない。あの男ならやりかねないことだ。
エリオは自身の震え出す身体を必死に抱きしめる。明日は我が身とはこのことか。
「心配するほどじゃないわ。エクソシストのカトリア・ゲルシュツアルトなんてこの世にいないもの」
「……ああ゛?」
さっきからわけのわからないことばかり口にする得たいの知れない女に、エリオの我慢も限界に来ていた。
どうしてあの瞬間に咄嗟にこんな女を庇ったのか、エリオは今も不思議で仕方がない。あのときの自分はどうかしていた。
「あんた、何がしたいんだよ。何が目的で俺なんかに構うんだ」
こんな状況では、はぐらかしても仕方ない。彼女は今こうしてエクソシストもカトリア・ゲルシュツアルトも現実にはいないと言った。
エリオも腹を括って彼女の目的を割り出すことにした。今更後戻りはできないのだから、この状況から好転するようなきっかけがほしい。
「そうねえ、あなたが作るホットミルクが飲みたいから」
「ふざけんな。はっきりしろよ」
そんな冗談で人の機嫌が直ると思っているのか。こちらは失うものが多すぎて気が狂いそうだと言うのに、その無神経さに腹が立った。
「なんだか気難しい猫を飼ってしまったみたい。もう少し可愛げがあると思っていたんだけど」
「おい」
「落ち着きなさい。あなたには包み隠さず真実を話すわ」
エリオが言いかけたが、その声が制した。
ようやく話す気になったかと、エリオは身を構える。唾を飲み込もうとすると、固まらない血の味が気持ち悪かった。
どう話を切り出そうかと悩むように、カトリアは頬に手を当てて大袈裟に振る舞う。
「あんまり自分では言いたくないんだけど、隠していても仕方ないしね。お腹も空いたし」
腹が減ってるのはこっちだ、とはさすがに言わなかったが、エリオは彼女の話す内容に集中する。
「私の名はドロシー。ドロシー・シュワルツ。身分を偽っていたのには、諸々の事情があるけれど、私の弟子になる子を探していたの」
待ち構えていた言葉は、拍子抜けするほどふざけたものだった。
「……弟子、だと?」
「そう。私の代わりにこの国を救う救世主になってほしいの」
またわけのわからないことを言う。エリオは一応確認した。
「俺が、あんたの?」
「そうよ」
「嫌だね」
即答する。意味がわからない。
自分はこんなことのために奴隷の仕事まで手放したのかと泣きたくなった。泣く気力もほとんど残っていなかったが。
「ちょっと! まだ話の途中よ!」
「大体答えになってない。あんたは結局何者なんだよ」
最早彼女が何者なのかはどうでもよくなってくる。
どの道これじゃ先は短いだろう。自分の散々な運命を受け入れるしかない。
「私は、このドロシー・シュワルツという名前を以って10度目の聖女になる。あなたには聖女の弟子として、私の務めを代行してもらうわ。エリオ」
ドロシー・シュワルツは、大真面目に語った。
それを聞いたエリオの胸の内など知るはずもない。
――聖女? なんだそのあやふやな設定は。聖女ってなんだ? 具体的に何をやる職業なんだ? そんなよくわからない仕事で食べていけるのか?
この10年間エリオは逞しく生きてきたつもりだったが、聖女の「聖」の音すらろくに聞いたことがない。だから彼には聖女と聞いてピンと来るものがなかった。
相手にしなくなってしまったエリオに、ドロシーは首を捻った。このままでは説得力がないのだろうと、エリオの気を引く案を練る。
「まだ疑っているようね。なら、こちらにも考えがあるわ」
そう言って、膝を折るとエリオに影を重ねる。
とうに彼女の話に興味をなくしていたエリオは、それに反応するのが遅れた。
不意に気配の方へ顔を上げると、彼女との距離が詰められていることに気づく。そして殴られたばかりで赤みが癒えない彼の頬に、白い手がそっと触れる。
咄嗟に何をしてくるのかと構えていたが、生暖かい感触に思考を奪われた。これはなんだ? と至近距離で目を閉じるドロシーに目が離せない。
血色があり形のいい彼女の唇が、戸惑うエリオの口と重なっている。薄らと開いた隙間に、彼女の舌が侵入する。熱を帯びて暖かいそれは、彼の舌や内部にねっとりと絡みつく。
密着した身体からも、彼女の体温が感じられる。先程殴られた痛みも血の生臭さも、あっという間に彼の思考から吹き飛んだ。
「ッ〜〜!?」
ほんの一瞬の出来事だったが、エリオにはとても長く感じられた。まるで世界の刻が止まったような。
新緑のカーテンが日差しから彼らの秘事を覆い隠していた。瞬く間に起きた出来事は、軽いリップ音とともに彼女の方から離れていく。
「あら、顔が赤いわよ。思春期の男の子には、少し刺激が強いかしら」
「てめっ……!」
いいように弄ばれ、さすがのエリオも黙ってはいられなかったが、先程までの痛みや違和感が感じられないことに動きを止める。
まさかとは思うが、自身の舌や手でそれを確かめる。治ってる。あの胸糞蟷螂に殴られたときの傷が。
どうしてなどと、原因を探ることは不要だ。
目の前にいる原因の正体が、エリオを見つめてほくそ笑んでいるからだ。
「これが聖女の力よ。魔法みたいでしょう?」
なるほど。聖女とは治癒の力があるのか。ひとつ勉強になった。
ドロシーのラストネームはカトリアにする予定でしたがシュワルツに乗っ取られました。
ヴォルガード公の名前は未だに覚えられずキーボードの予測変換に頼ってます。