俺は弱いから
翌朝になった。早朝の空はよく晴れている。
彼らよりも早起きをして朝食を作るエリオは、昨晩の出来事をぼんやりとした頭で考えた。
あの女のことはよくわからなかったが、今日で出て行くならば深く考える必要もないだろうと思考を切り替えた。エリオは三人分の皿に焼いた目玉焼きを乗せながら欠伸を欠いた。
朝食の席に遅れて蟷螂の家主が現れると、身支度を済ませて席に着くカトリアに向かって両手を広げた。
「ゲルシュツアルト公! 貴女のお陰でよく眠れましたよ。本当に助かりました」
それは良かったと、彼女はにこやかに言った。
その麗かな春の日差しのような微笑は、昨晩エリオに向けた不敵な笑みとはまるで別人のようだ。
エリオはまだ10歳の若輩だが、女とは恐ろしい生き物であることを直感的に悟った。
「お礼だが、幾らほどがお望みだろうか。希望の額をお渡ししよう」
「お金は要りません」
間髪を入れず、彼女は報酬を断った。
これにはヴォルガード公も、片耳に話を入れていたエリオも驚きを隠せない。
「は?」
「代わりに彼を引き取りたいと思います。ヴォルガード公」
貿易商として、汚い金のやり取りも数多見てきたヴォルガード公は絶句する。その傍らで、同じようにエリオも言葉を失くす。
「え、エリオを……? この奴隷のことですか?」
「私の希望を聞いていただけるのですよね。ヴォルガード公。是非彼を譲っていただきたい」
「いや、ですがこの奴隷は……」
カトリアと立ち尽くす奴隷の少年を交互に見ながら、ヴォルガード公はもごもごと口を動かしている。
煮え切らないその男の返事に、カトリアは穏やかな表情とは一変して声を張り上げる。
「まだわからないの? あなたの汚い金なんかより、私はよく働いてくれる彼の方がずっと価値があると言っているのよ」
まさか彼女の口から想像もしなかった言葉に、ヴォルガード公は口をぱくぱくさせて押し黙る。
「あなたはどうなの。エリオ」
その男になど目もくれず、その奥に佇むエリオにカトリアは視線を向ける。
「あなたの意思を聞いているの。あなたの不遇な生い立ちには同情するけれど、何も言わなければ、あなたの立場は何も変わらないわ」
カトリアの叱咤に、エリオは自身の何かを揺さぶられる。
当たり前だろ。こんな自分は、奴隷として権力者に扱き使われて生きるしかない。時には殴られ、時にはボロ雑巾のように捨てられる。
それがこの世の終わりを見るようにとても怖くて、自分を押し出せる場所なんてずっとなかった。
「ふ、ふざけるな! 一介のエクソシストの女が生意気なっ……」
激昂した蟷螂が、彼女に向けて自身の大きな鎌を振り下ろそうとする。カトリアは抵抗する素振りもない。
そして食器が床に落ちて割れる音が響く。エリオは彼女の前に出て、ヴォルガード公が彼女に振り下ろした手を自分の頬に受ける。口の中が切れて、血の味が滲んだ。
「お前……」
「俺を殴るなら別にいい。俺が食べていけるのは、あんたが毎日大変な仕事をしているからだ。でも、俺が弱いせいでこの人が殴られるなんて見ていられない……だから」
殴られた顔をおもむろに上げ、憎い男の顔を睨みつける。右手に握った拳を振り翳し、自分より遥かに背の高い男の顎に打ち込んだ。
骨に当たると嫌な音がした。エリオは初めて人を殴った。
「雇ってくれたことは、感謝してる。けど、お前なんか大っ嫌いだ。ずっとこうしてやりたかったよ」
腹の底からの本音を、地面に崩れ落ちるそいつに言い放った。ずっと言いたかったが、言えなかった。
糞みたいな奴隷の仕事もなくなるだろう。だからずっと我慢していた。この二年間。せっかく耐えたのに、バカなことをした。
もうここにはいられないだろう。
だからエリオは、後ろで見ていた女に問いかける。
「なあ、俺を連れてってくれるのか?」
「ええ、もちろんよ。エリオ」
二つ返事だ。こんな何もない奴隷の男を、本当に連れて行ってくれるのか。頭のおかしな女だと思った。
やっぱり彼女の考えていることが、エリオにはよくわからない。けど、血塗れの手を握ってくれた彼女に、心を奪われた。