第3話「文殊」
愛宕夏美にゲロをふっかけたあと、瞬は授業に身が入らなかった。
といっても、今日は金曜日なので、今日さえ乗り越えれば相談できると思って身を奮い立たせた。
金曜日2限目、専門科目「有機化学」の授業だった。
理系、主に生物系・化学系専攻の生徒に立ちふさがる壁として悪名高い科目である。
当大学の有機化学の担当教授は、例え生徒にとって取らなければ卒業できない必修科目でも容赦なく落とすと有名だった。
他の授業よりも力を入れて話を聞いていると、後ろの席の学生に肩をたたかれた。
「ねえ―――」
ふと愛宕夏美との事件を思い出した。
一瞬、頭が真っ白になるが、冷静に考えると愛宕夏美は国際学部、有機化学の授業など取っているはずもないのだ。
後ろを向くと、古田くんだった。
古田優斗、同じ理学部2回生で、よく授業を欠席しているイメージの子だった。
入学後の新歓で何度か話したことがあり、いわゆるオタクであることは認識済みだった。
「ねえ、せ、先週のノート見せてくれないかな」
「うん、いいよ」
先週分のルーズリーフをファイルから抜き取り渡そうとした。
「あ、授業のあとで大丈夫だから、必要だろ」
「わかったよ、終わったら渡すね」
じゃあ授業が終わってから言えばいいだろう、と集中を切らされたことにわずかにイライラしながら教科書に視線を戻した。
日曜日の夜、岡崎瞬・花田勇気・森綾香は場所を瞬の家に変え、再び集まっていた。
時間は8時を過ぎていたので、食事を済ましていないのは花田だけであった。
花田はコンビニでカップ麺買ってきており、森は場所代としてチューハイを3缶持ってきていた。
「花田、自分の分だけ?」
「うるせー、まさか森が持ってくるなんて思わないじゃないか」
「気にしなくていいよ」
「なんか俺が悪モンみてーだな」
特に悪びれた様子も見せず、カップ麺をすする花田。
それを横目に森は1人1缶ずつお酒を配る。
「じゃあひとまず乾杯」
「おう、乾杯」
「乾杯」
乾杯するような集まりではないと瞬は思ったが、何とか口に出さずにいられた。
「で、森の愛宕夏美に聞きたかったことってなんだよ」
「あー、うん。それもあるけど・・・瞬さ、飲み会の後なにかあった?」
「えっ」
瞬の「えっ」は聞き返すためのものではなく、驚嘆するときに発せられるものだった。
先日の出来事が脳内で思い起こされ、真っ白になる。
やはり愛宕夏美はあの恥ずかしい事件を言いふらしているのだろう、しかもバリバリに色をつけて。
しかし、森の口から放たれた言葉は全く別の方向へ着色されたものだった。
「いや、夏美が学校で、ゲロってる瞬を見たっていってたの。介抱しようとしたら走って逃げたって」
瞬はてっきり、夜な夜な酔っ払いに襲われて挙句ゲロされた、ぐらいを覚悟していた。
しかし、森が愛宕夏美から聞いたストーリーは穏やかなものであった、瞬の創造より、現実より。
「瞬、ゲロするほど飲んでたっけか?」
「だよね、そんなに飲んでなかったから」
「えっと、その・・・」
真実を打ち明けるべきか、話を合わせるべきか。
脳裏で愛宕夏美が「喋ればバラす」と脅しているシーンが容易に想像できた。
今思えば、まったく面識のない男性とキスをするのは異常としかいえない。
愛宕夏美にどれほどの動機があるのか計り知れない。
さらにその事実を隠蔽しようとする節がある。
「瞬?どうしたの?」
どうするのが最善であろうか。
「また気分悪くなったか?」
「あんたのラーメンのせいじゃないの」
その逡巡はおよそ数秒のものだっただろうが、瞬の脳はスパコン並みに働いていた。
しかし、愛宕夏美と対峙したときとは異なり、その冷静さは一切失われていたなかった。
そのおかげか、瞬はある疑問点にたどり着くことができた。
「どうして―――」
「あ?」
「どうして、愛宕夏美はそのことを森にはなしたんだ・・・」
それは瞬の悪い癖だった。
「どうしてって・・・」
「愛宕夏美はぼくたち3人がリベンジポルノについて探っていることを知っている・・・」
「なんだって?」
森と愛宕夏美が仲がいいのはわかっている、そのことで瞬との事件を話すのは納得できる。
しかし、キスしたことだけでなく、瞬のことまで庇う必要はないのである。
愛宕夏美はおそらく、何らかの手段で3人がリベンジポルノを探っていることを知り、
その対策として森を通じて瞬に脅しをかけることで「ただの介抱しそびれた事件」に仕立て上げようとしているのだろう。
驚くべきことに、そのシナリオは瞬の数秒の逡巡によって組み立てられたものであった。
しかし、そのことを説明することはすなわち、愛宕夏美の脅しを無視することになる。
そして、脅しとは普通、次に何らかの強硬手段が待っているものである。
「愛宕夏美が瞬と森が仲いいって知ってたんじゃないか?」
「たしかに・・・でも、入学してから食堂でご飯も一緒にたべたこともないよ」
「うーん、なら普通に話したかっただけだろ。だっておもしれーもん」
瞬はうっかり考えを漏らしてしまったことを後悔した。
瞬が事件について話さなくても、2人が推測で愛宕夏美の意図に気づかないという保証はないのだ。
「実はね、わたしも不思議だったんだ。夏美がそんなことだけ話したりしないって思ったし」
「べつにふつうだと思うけどな」
「だから・・・瞬、なにかあった?」
なるほど、森はすでに愛宕夏美の隠し事を疑っていたのだ。
森が愛宕夏美に疑いを持つことは、リベンジポルノがあった後なのだから道理であるともいえる。
しかし、それが脅しであることまでは考えを至らせてはいないようだった。
「愛宕夏美とひと悶着あったとか?」
「瞬、心配するなよ、だれにも話さねーぜ」
さすが花田である、リベンジポルノの相談が花田に集まったことにも納得できる。
結果的に花田の一言で真実を話す踏ん切りがついた。
「じゃあ、話すよ。えっと、前置きだけど、これを聞いたことで2人に危害が及ぶかもしれない―――」
瞬にしてはかなり大げさに言ったつもりだったが、かえって2人を真剣にさせてしまったようだ。
花田はカップ麺を隅によせ、森は改まって正座になった。
「―――あのあと、ぼくは、愛宕夏美とキスをしたんだ」
できるだけ瞬自身が悪者にならないように、かつ森の手前なので愛宕夏美を貶めないように気を使った。
愛宕夏美がいきなり接触してきたこと、なすすべなくキスをされたこと、逃げたのはとっさのことなので仕方がなかったこと。
2人は笑ったり怒ったりせず一貫して黙ったままだった。
「なるほどな」
「瞬は、めちゃくちゃ酔って気分が悪くなって、その、吐いたの?」
「わからないけど、吐くほど飲んだわけじゃないし、体調も良かったから、違うとおもう」
「・・・見えたぜ」
花田が急にどや顔で立ち上がった。
さしずめ、月9でやっている推理ドラマの影響を受けたのだろう。
「なに言ってんの」
「愛宕夏美がキスした理由だよ、り・ゆ・う」
瞬はぜひとも聞きたかった。
愛宕夏美の脅しにはたどり着けたが、どうしてもその動機については明快な答えを出せていなかったのだ。
「馬鹿じゃないの?ふざけるのもいい加減に―――」
「はなして」
「ちょっと瞬、調子に乗るからだめだって」
「気になるだろ?」
森を制止しながら花田を促す。
「愛宕夏美は次のリベンジポルノのターゲットを瞬に定めたんだよ。
実際、ほかのやつらの中にもいきなり話しかけられて誘われたって言ってるやついるしな」
「瞬のゲロはたぶんキスすることで下剤か睡眠薬か、とりあえずヤバイものを口移しで飲ませたんだ」
「で、介抱を装って愛宕夏美の家に連れ込んで、リベンジポルノ完成ってな!」
それは瞬がすでに考えたものの1つだった。
花田の言ったことには穴が2つあり、まず家に連れ込むためにわざわざ薬を飲ませる必要がないこと。
現実に、瞬がキスされてから嘔吐に至るまでせいぜい10秒程度で、薬が効くには早すぎる。
2つ目に、リベンジポルノする動機を説明できないこと。
しかし、気になったことがあった。
「他のやつらの中にもって、キスされなかった人もいるの?」
「ん?ああ、瞬と同じケースが2人、SNSとかメッセージアプリが2人、かな」
「キスした人って、やっぱり吐いたの?」
「そこまでは言ってなかったが、吐いたなら俺にそのこと言ってると思うぞ」
どうやら花田の薬の口移し説はダメのようだ。
「ねえちょっと、あんたの友達って、夏美に百発百中されてるってこと・・・?」
「どうだろ、断ったやつは相談なんてしてこないだろうしな。何人かに聞いてみようか」
「だめだ」
花田がスマホで連絡を取ろうとするのをやめさせる。
愛宕夏美の脅しがあるし、そもそもどこから3人が探っていることが知れたのかも分かっていない。
「だめか?瞬」
「やめたほうがいいと思う。最初に、危害が及ぶかもって言っただろ。」
「それは愛宕夏美が、森がぼくにその話をわかってて、わざとゲロとキスのこと伏せたんだと思うんだ」
「いわばメッセージで、ゲロは黙っててやるから、お前もキスのこと黙っておけよって」
「まず森がぼくに話すってわかっていることもヤバイし、脅しをするってことはまだ奥の手的な何かがあるんだよ」
そうだ、瞬は説明しながら思い知った。
ぼくらの動きは、完全に封じられていると。