ドストエフスキー思想の全体を考える
ドストエフスキーという人は独特の二分論を持っていた。それは取り敢えず、次のような図式で考えられる。
ロシア的=大地=民衆=キリスト教=神を信じる生き方
VS
ヨーロッパ的=大地から遊離した=無神論=自我を重んじる、自己中心的な生き方
ドストエフスキーは大体、以上のような二つの思想を自分の中の対立軸として持っていて、それはカラマーゾフの兄弟のラストで特に巨大に展開されているように思う。結論的には、無神論をくぐり抜けると、神に到達するという風になっている。もちろん、ドストエフスキーはドストエフスキーなので、実際は非常に難解かつ面倒な事になっているが大枠ではそう考えられると思う。
この思考というのは、カント、あるいはキルケゴールと同じパターンではないかと自分は考えている。もちろん、切り取り方の問題なのでいくらでも反論はできるだろう。
カントは純粋理性批判で、人間の理性の限界を認めたが、実践理性批判で神の存在を要請した。人間の理性とか、論理に限界を感じるとは我々にとっては苦しいものであるが、その苦しさをカントは神を要請する事でくぐり抜けようとしたのだと思う。ドストエフスキーも同じく、自我の先に神を想定する事で問題を解決しようとした。あるいは、問題というのは常に解決不能であると考えられているからこそ、神は存在しなければならない、という思考になってくる。つまり、ここで論理は終わり、信仰が始まる。しかし、最初から信仰があるわけではない。信仰は、現実を癒やす為にあるのではない。現実の臨界点を知ったものがそこに彼岸を見出すのが信仰なのだろう。
個人的には、ドストエフスキーの民衆主義というのは以前から疑問に感じていた。実際の所、ロシアの民衆は、ロシア革命を経て、社会主義に流れていった。ドストエフスキー的には、対立軸の片方がなくなった、あるいは神を信じて敬虔な生き方をしていたロシアの民衆が神を信じなくなったという事かと思う。比喩的に言えば、これは我々が皆、ラスコーリニコフ的になった事を意味している。吉本隆明は「大衆の原像」と言ったが、そんな像は今や消えてなくなり、我々はみんな、生半可な利口者となった。ある種の敬虔なものが我々からは消えたわけだが、それによってドストエフスキーもわかりにくいものとなった。我々に理解しやすいのは、ラスコーリニコフの過剰な自意識であり、ドストエフスキーが念願としていたキリスト、神の問題ではない。
大きく言えば、今の世界というのは、ドストエフスキーが批判的であった、「西欧=物質主義=無神論」がそれこそ神のように君臨している時代であり、こういう時代では、自己というものが絶対的なものとなって現れてくる。自分の幸福というものが非常に巨大な圧力となって僕らの背中を押している。現在でも、日本でも、ドストエフスキーは読まれ、議論されているが、それはドストエフスキーが批判していた場所からドストエフスキーを見ているのであり、その見方それ自体を自覚しない場合は、エンタメ的にドストエフスキーを読むしかないのではないかという気がする。中村文則や平野啓一郎がドストエフスキーから影響を受けたと言っても、彼らは現代の常識に埋没しているので、実際の所、まるでドストエフスキー的ではない、あるいはそもそもドストエフスキーが何と格闘したかという事自体がわからなくなっていると思われる。
ドストエフスキーは自身、都会人であったし、快楽主義者であったので、そういう意味では、我々と同型の現代人なのだが、その主義、生き方に疑問を感じた時(おそらく牢獄で疑問を感じた)、彼の前にはキリストが現れた。また、神を信じて生きている民衆が現れた。ドストエフスキーの時代においては、そうした民衆はまだ存在していて、知識人と大衆との分裂が、彼にとっては、一つの救いとなったのだろう。つまり、自分自身の限界を感じた時、彼の前には信仰が、また信仰を持っている人々がいて、ドストエフスキー自身が本当に信仰を持った事は多分一度もなかっただろうが、にもかかわらず、彼にはそれは非常に重大なものとして目に見えてきたのだった。
ドストエフスキーの思想はそういうものだったと思うが、現在、同じ事を考えようとすると……当然、色々面倒な問題が起こる。現在の我々はみな、ラスコーリニコフ的であるが、人を殺さない小才的ラスコーリニコフと言えるのであって、自我を中心にものを考えている事は同じである。ここから、最終的に、ロシア民族を褒め称えるように、日本民族を褒め称える…という方向に行っても良いし、そういう人もいるだろうが、僕にはそもそも、日本というもの、日本民族というものがなんであるのか、現代人的感覚で濁らされている為に見えなくなっている。自分は日本人だ、と言うのは簡単だが、言ってみれば、我々は既に(日本人としての)神を失っているので、一体何が大切なのかわからず、ただ、自分を中心とする物質的観念だけがあるという風になっている。家族を大切にする、愛情を大切にしている、という人もいるだろうが、それはいかなる場所に向かっているのかと考えると、別に我々の敬虔な生活があるというわけではないだろう。そこにあるのは、自分達の幸福であり、自分を「自分達」に拡大した所で、問題が解決されるとは思えない。
でははて、現在では何を考え、どう生きればいいのかというと、まるで見えてこない。ドストエフスキーの前には、断絶した知識人と大衆の問題があり、大衆=民衆は彼にとって重大な帰結となるのに十分だった。トルストイもまた、主人公には、農民の何気ない言葉で悟りを開くという瞬間を用意している。我々にはもはやどんな断絶も存在しないのであり、偉大さが現れるのに必要な差異=断絶が存在しない。そういう条件下に現在はある。
だから、現在の状況でも、まともに前進しようとする人物、文学において何かをしようとすると、ペシミスティックに陥らざるを得ないのではないかという気がする。具体的にはミシェル・ウエルベックの名前が頭に浮かぶので、ウエルベックのペシミズムは、彼の誠実さの現れと理解している。呑気であればいくらでも楽に方向に行く事ができる。それは死を忘れて、遊び呆けるのと同じだ。
…とまあ、現代の状況はそんな風なものだと自分は理解している。自分がこれからする事にはペシミズムの影が色濃くなってきて、そこからどう前進するかという問題になるが、最終的には自分の神を見つける事になるであろう。その神は、キリスト教的神でもなければ、仏でもなく、極めて個人的なもので、他人に話すような事でもないだろう。現代のような社会では、自分の神は他人から隠しておかないとまともに生きる事は不可能だろう。人々の神から離反する事に罪があるとすれば、己の神を持つとは二重の罪を意味する事になるだろうか。それがどういう意味を持つかはまだよくわかっていない。色々、これからも様々なものは変化するだろうし、自分も変化していくだろうという感じがしている。その際、自分にとっては、都会人であり、自己中心主義者でありながら神への憧憬を持ち続けた矛盾人間…つまりはドストエフスキーという人物が常にあるタイプの模範となって見えている。これからもドストエフスキーの事を注視する予定である。