78 新ヘブル王国
前半はディーナの故郷の国のお話になります。後半はお食事中の方はご注意ください。
さくらと大魔王を背にしたドラゴンは、僅かな羽ばたきで空に浮かび上がると、優雅に風を切り北へと向かう。あっという間に深い緑一色の魔境を超えると、低木が所々に見られる草原地帯の上空に差し掛かる。
「さくらちゃん、この一帯は昔は荒地が広がっていたのに、ずいぶん緑が豊かになっているわね」
「ドラゴンの話によると、上空の気流が変わって、この辺りにも雨が降るようになったんだって。はなちゃんが言っている『昔は~』って、そもそも600年前のことだからね」
ずいぶん壮大なスケールの話を、つい昨日の出来事のような口調でこの二人は話題にしている。最早この世界の神の一角に数えられるさくらと大魔王にとっては、600年前であろうが昨日であろうが、そう大差ない出来事に感じるのかもしれない。
草原の上空を30分ほどドラゴンの背に乗って飛翔すると、現在はディーナの祖母が治める魔族の国家〔新ヘブル王国〕の国境の町、ガラリエが視界に入ってくる。600年前にこの二人が初めて足を踏み入れたときには、滅亡を迎える寸前であったこの町だが、現在は帝国の大規模な町と比べても、まったく遜色がないくらい繁栄している様子が伝わってくる。
「ディーナは熱心に政治に取り組んでいるようね。あの子は真面目な性格だから、日々の政務に手を抜くなんて考えられないけど」
大魔王が口にした『ディーナ』とは、現在魔法学院に通っているノルディーナの祖母で、この国の巫女王を指している。大魔王から委任されてこの国を600年間治めている巫女王も、大魔王から見ればいまだに子供扱いであった。
「そうだね。私は政治なんて興味はないけど、魔族の国は平和で暮らし易いっていう評判だよ」
ちょっと待ってもらいたい! 『政治に興味がない』と言い放っているさくらも、獣人の王国を治める王様のはずだ。国王自身がこんな調子で、果たして獣人の国は大丈夫なのだろうか?
「さくらちゃん、せっかくだから町の住民に顔を見せておきましょうか。久しぶりだから、歓迎されるか自信はないけど」
「はなちゃん、いまだに魔族の町には大魔王の肖像画や銅像がいっぱい建っているよ。みんな恩を忘れないように、毎日花束やお供え物を欠かさないんだよ」
「なんだか私が死んでしまったみたいね」
大魔王のセリフはもちろん冗談ではあるが、長い年月が過ぎ去っても、魔族たちは大魔王に対する心からの敬意を失ってはいないのだった。新ヘブル王国を去って日本へ戻っていった大魔王が、再びこの地にやってくるのを、国民全員が心待ちにしているのは言うまでもない。それは600年を経た現在では、信仰に近いところまで昇華しているのだった。
ドラゴンは何回かガラリエの上空を旋回すると、ゆっくりと町の中心にある広場に降りていく。
人々は何事かと警戒した様子を見せていたが、その背中に乗る人物を一目見ると、その場に一斉にひれ伏した。町中に大魔王の訪来を告げる早鐘が打ち鳴らされて、広場には後から後から住民が詰め掛けてくる。全員一刻も早くその目で大魔王の姿を見ようと、取るものも取り敢えず駆け付けてくる。
「大魔王様だ!」
「ついに大魔王様がお姿を現されたぞ!」
「この日をどれだけ待ち焦がれたことか!」
「お母さん、本物の大魔王様なの?」
「ほら、あそこの銅像とまったく同じお姿でしょう。この国の人々を幸せにしてくれた素晴らしいお方なのよ」
住民の間には歓喜と熱狂が徐々に広がって、ついにそれは大歓声となって爆発する。
「「「「「大魔王様、ばんざーい!」」」」」
「「「「「大魔王様に栄光あれ!」」」」」」
「「「「「永遠なる繁栄と安寧を!」」」」」
熱狂した歓声は留まる所を知らず、いつになっても鳴り止む気配を見せない。住民の気持ちはありがたいが、これでは一向に埒が明かないので、大魔王は右手をあげて静まるように合図をする。
潮が引くようにしんと静まり返った広場、住民たちはいよいよ大魔王の声が聞けると、こぞって顔を紅潮させてその時を待っているかのようだ。
「ガラリエの者たちよ、大魔王が12年振りに帰ってきました。町の暮らしで困っていることはありますか?」
住民たちは両手を振ったり、首を横にブルブルと往復させている。暮らしに困っているだなんて、そんな滅相もないといった態度を示しているのだろう。
「子供たちは毎日学校に通っていますか?」
今度は子供たちが揃って元気に手を上げる。その表情が生き生きとしているのを見て取った大魔王は、満足そうに頷いて、次の言葉を続ける。
「子供は国の宝です。たくさん生んで、立派に育てなさい。それこそが大人の最大の務めです。たくさんの子共が笑って過ごせる世の中こそが、この国に幸福をもたらします」
「大魔王様! うちは4人目の子供が生まれました!」
「我が家は5人目がお腹にいます!」
親たちは大魔王に我が子を見てもらおうと、その小さな体を抱えあげて子供の人数自慢を始めている。その表情は、安心とゆとりに包まれて子育てをしているかのようであった。
「我が民が平穏に暮らしているようで何よりです。今回は半年ほど滞在しますから、再びこの町にも顔を見せる機会があるでしょう。皆も日々の暮らしが心休まるように努めなさい」
「「「「「大魔王様、ありがとうございます!」」」」」
慈愛溢れる大魔王の一言一言が、住民の心に染み入るように響いている。かつては荒々しい暴力に訴えて、人族と抗争を繰り返していた魔族だったが、大魔王が争いを収めて以来、その言いつけを忠実に守って平和に暮らしているのだった。
「急ぎの旅路の途中で立ち寄ったまで、これから魔王城に向かいます。我が民よ、息災であれ」
「大魔王様!」
「ぜひまたこの町にお寄りください!」
「待っております!」
こうしてドラゴンの背に乗ったままではあるが、大魔王のガラリエ訪問は終わりを告げる。住民たちはふわりと中に浮かび上がってどんどん遠ざかっていくドラゴンの姿を、いつまでも見送るのだった。
大魔王がガラリエに姿を見せたという情報は、たちまち国中に巡らされている通信網で、新ヘブル王国内に伝達された。もちろん、魔王城がある王都ヘブロンにもその第一報がもたらされている。
「城内の全員に告ぐ! 城をあげての歓迎の準備に取り掛かれ! それから町の住民にも大魔王様のご到来を触れて回るのだ」
巫女王の側近中の側近で、現在この国の内務大臣を務めるシャロンが、慌しい様子で采配を振るう。城内に勤めるメイドや下働きの若い魔族が、花を生け替えたり、汚れがないか隅々まで見て回る中で、シャロン内務大臣は襟を正して王の執務室へと向かう。
「巫女王殿下にお目にかかりたい」
「ただいまご支度中でございます。控え室でしばしお待ちください」
新ヘブル王国では『陛下』と呼称されるのは大魔王ただ一人、したがって現在この国を統治する巫女王ですら『殿下』と呼ばれているのだった。実質的な統治者ではあっても、それは大魔王という絶対的な権威から統治を委任されている立場なのである。
「シャロン様、お待たせいたしました。殿下のご用意が整いましたので、お入りくださいませ」
「承知した」
案内役のメイドに連れられて、巫女王の執務室に入ると、肝心の統治者は心ここにあらずという表情で、ソファーに腰を下ろしているのだった。そしてシャロンの姿を発見すると、これ以上の重大事項はないという顔で、言葉を紡ぎ出す。
「シャロン、大魔王様をお出迎えするにあたって、この姿でおかしくないでしょうか?」
「殿下、そのように慌てずに、もう少し落ち着いてもらいたいです。大魔王様がいらっしゃるたびに、まるで子供に戻ったような態度になってしまうのは、いい加減直していただかないと」
「シャロン! あなたは何を言っているのかしら? 私にとって大魔王様は命の恩人であり、魔法の師ですよ。失礼があってはなりません!」
「大魔王様のお人柄は殿下が一番ご存知でしょう。少々の無礼など気にも留めぬお方です。あのような器の大きさこそ、殿下がもっと見習うべきです」
「そ、それもそうだったわね。急にお越しになると聞いたから、気が動転してしまったわ」
「歓迎の準備に手抜かりはございません。かく言う私も、大魔王様のご尊顔を拝見するのが楽しみなのです」
「あなただけではないですよ。このお城とヘブロンの住民、いえ、この国中の者たちが、大魔王様のお越しを心待ちにしています」
こうして弾む気持ちを抱えながら、二人は窓の外に目を遣って、一刻も早い大魔王の到着を心待ちにするのであった。
その頃、魔法学院では……
「ふー、ションベンが漏れそうだ!」
掘っ立て小屋…… ではなくて、冒険者養成コースの休み時間、トシヤは慌ててトイレに駆け込もうとする。だが、肝心のトイレの前には二人の生徒が中に入ろうかどうしようかという様子で佇んでいるのだった。
「おい、二人ともどうしたんだ? 中に入らないんだったら、漏れそうだから俺が先に行くぞ!」
トシヤが強引にトイレに入ろうとすると、その二人が彼を引き止めようとする。
「俺たちも入りたいのは山々なんだけど、入れない事情があるんだよ」
「事情がある? そんなもの気にしていたら、ションベンが漏れるだろうが! 先に入るぞ!」
トシヤがドアのノブを回してトイレに一歩踏み込むと、そこには想像を絶する悪臭が漂っていた。どうやらこの強烈な臭いが、先客の進入を阻んでいた理由らしい。
「おえー! これは無理だ! 窓、窓を開けなければ!」
トシヤは息を止めながら窓までダッシュして、大慌てで全開にしてから窓の外に顔を突き出す。彼の鼻が新鮮な空気を求めて、能力最大で息を吸い込むと、ようやく臭気地獄から生還した心地がしてくる。
「どこのバカだ! ゴブリンの腰巻と腐ったドブを足して二倍したような、とんでもない臭いを撒き散らしやがって!」
強烈に鼻を刺激した臭気によって若干涙目になりながらトシヤが苦情を申し立てるが、扉が閉まっている個室からは何の応えもない。その間にも背後から迫ってくる臭気から身を守るため、トシヤは上半身を窓の外に乗り出して、懸命に新鮮な空気を求めているのだった。
やがて個室の鍵がガチャリと音を立てて、中から聞き覚えのある声が、トイレの中に響いてくる。
「ふー、屁と一緒にひり出すクソは、予想以上にデカかったな。おかげでケツが疼いているぜ」
ドアが開いて出てきたシルエットは、2メートルを超える大柄な体格に加えて、頭の上には狼人族特有の耳がついている。その正体こそ、いわずとしれたカシムであった。ドアから出てきたカシムは、窓の外に身を乗り出すという奇妙な行動をしているトシヤに気が付く。
「おや、こんな所でハゲ野郎は何を遊んでいるんだ?」
「全部テメーのせいだろうが! 一体何を食っていればこんな腐った臭いのクソが出せるんだ!」
「別に何の臭いもしないぞ。お前の鼻が腐っているんだろう」
「いいからその場に土下座しやがれ! 俺がその空っぽの頭にションベンをかけてやる!」
「ションベンなら自分の頭にかけてろ! 髪の毛の2,3本も生えてくるかもしれないぞ!」
ほのぼのとしたトシヤとカシムの日常会話だった。獣人は鼻が人一倍敏感なはずだが、自分の排泄物に関しては、あまり気にならないらしい。もしそんなことを気にしていれば、カシムはトイレに行くたびに気絶しているかもしれない。
「ダメだ! もう我慢の限界だ」
トシヤはまだ完全には消えていない臭いのさなか、意を決して用を足し始める。もちろんせめてもの防護策として、息は止めている。そして排尿の最中に、我慢するという緊張感から解放されたトシヤの括約筋が緩んだ。
ブブーーー、ブッ!
「テメー! なんて臭い屁をひり出しやがるんだ!」
「うるせー! テメーのクソの100分の1くらいの可愛い物だろうが!」
繰り返しになるが、獣人は人一倍鼻が利く。トシヤの放った仕返しの一発は、当然カシムの鼻を直撃した。彼は自分の鼻を手で覆って、その場で悶絶している。
ここからは、どちらが先に臭気地獄から脱出するかの競争が開始されるのは言うまでもなかった。一刻も早くドアに辿り着こうと先を争う二人、だがトシヤがズボンのチャックを閉める時間の分だけ、カシムにはアドバンテージがあった。
カシムが一歩先にトイレから飛び出て、そのあとにトシヤが続く。その様子を見た同級生二人は、どうやらトシヤが安全に用を足したものだと誤った判断を下してしまった。もう大丈夫だろうと考えて、不用意にトイレに入っていく。そして……
そこにはカシムの残り香に加えて、トシヤの一発もブレンドされた、強烈な臭いが残されていた。
彼らはこのときに悟った。冒険者は一瞬の判断ミスが命取りになるのだと。この二人はトイレで倒れているところを発見されて、仲良く医務室に運ばれていくのだった。
久しぶりの投稿で最後はお下品な話になって申し訳ありませんでした。この続きは年明けにでも投稿します。大魔王がわざわざこの世界に遣って来た目的などが明らかになるかも。




