37 Eクラスの授業風景
エイミーの外泊騒動が一件落着して、Eクラスは午後の授業が始まっている。
この日は木曜日で、午後の授業は格闘技演習だった。
なぜ魔法学校で格闘技などわざわざ授業で行っているのかピンと来ない人が多いのだが、大元を正すと、かつてこの学校のカリキュラムに大きな影響をもたらしたトシヤのご先祖様が決めたことだった。
「圧倒的な力を持っているのなら魔法で全てを片付けろ! そうでなければ自らの身を守る方法も身につけろ!」
この教えが今でも学院の教育に生かされているのだった。そしてその言葉にある『圧倒的な力』というのは、少なくとも魔王並みの魔法力を指してる。いったいどこの世界に魔王並みの魔力を身につけられる生徒が居るのだろうか? 元々かなり無茶振りする傾向が強かったこのご先祖様だが、その考えの根本は『魔法だけに頼らずに総合的に戦える能力を高めろ』という意味だった。
というわけで不意に襲い掛かられたり、乱戦に巻き込まれた時の対応として、週に一度こうして近接格闘技の訓練をしているのだった。入学試験でも選択科目として格闘実技の項目があったように、この学院ではある程度何らかの格闘技や剣技を経験している生徒が多数在籍している。
女子の殆どは未経験者ばかりだったので、ひと塊になって現在は護身術程度のメニューをこなしている。
「いいですか、急に背後から襲われた場合に魔法は間に合いませんから、最低限相手を振り解いて距離を取らなければなりません! 背後の相手を振りほどくには『足の指先に踵を落とす』『自分を拘束している相手の小指を折る』『後ろを振り向く余裕があったら目を狙う』などの方法があります」
教官が床に座って聞いている女子生徒たちに具体的な動き方を再現しながらレクチャーしている。それにしても狙う箇所がエグイ部分ばかりだ。それも全て『容赦なく一撃で破壊しろ!』と教え込んでいる。初心者にこんなヤバイ技を最初から仕込むとは相当な無茶だと思われるが、この世界は決して治安が良いとは言えなかった。先日アリシアが誘拐組織に目を付けられたように、いつどこで狙われるかわからないのだ。
その上一歩街の外に出ると魔物が襲ってくるという危険がある。身を守る手段を持っているに越したことはないのだった。
「えいっ!」
エイミーは12人居る女子たちに混ざって教官から教えられた通りの型をなぞろうとしている。だが残念なことに彼女の運動神経は壊滅的に酷かった。へっぴり腰でぎこちなく体を動かしているのだが、とてもその技が決まるとは思えないレベルだった。いや、正確に言えば『目も当てられないレベル』と表現するのが相応しい。
トシヤは何度かエイミーに『モトハシ流』の基礎を教えようとしたのだが、あまりの彼女の運動オンチ振りに、早々に匙を投げていた。
「エイミー、もっと腰を入れて素早く前に踏み込みなさい」
「はい、わかりました! えいっ!」
教官から指摘されて元気な返事をしているが、相変わらず手足がバラバラに動いて何の効果もなかった。さすがにその様子を近くで見ている教官は渋い表情をしている。
「毎年学年に一人は居るのよね。あなたのような人が…… 気長に頑張りなさい」
教育熱心で定評があるこの女性教官も、エイミーの惨憺たる有様にトシヤ同様に匙を投げていてるのだった。
変わってこちらは男子が集まっている演習室、なぜか一人だけアリシアもここに加わっている。
「女の子たちのヌルイ護身術なんか遣っていられないの!」
獣人の森で王様が広めた武術を学んできたアリシアにとっては、欠伸が出るような女子たちの演習に付き合っているのは時間の無駄だった。男子たちに混ざって組み合いを行って、次々に相手を投げ飛ばしている。小柄なアリシアを『組みやすい相手』だと思って挑みかかって来る男子をまったく寄せ付けずに返り討ちにしているのだった。
「どいつもこいつもだらしが無いの! 私の相手になるのは100年早いの!」
アリシアは彼女に挑みかかった果てに折り重なって倒れている男子に中指を突き立てている。大人しそうな外見とは打って変わって、彼女には獣人の荒ぶる血が脈々と流れているのだ。その気の強さはクラスで一番かもしれない。
「アリシア、相手が居ないみたいだな。軽く俺と遣ってみるか?」
「そうなの! トシヤくらいしか相手にならないの! 朝帰りの罰を下してやるの!」
当然エイミーと同室の彼女には昨日の件はすっかりバレている。教室に顔を出してからトシヤとエイミーをアリシアは散々問い詰めていた。アリシアは昼休みに、『エイミーを応援しているとはいっても、いきなり朝帰りは度が過ぎているの!』というお説教を食らわせたばかりだった。その罰をトシヤに与えるいい機会が目の前にぶら下がっている。
「だから疑われるようなことは俺はしていないから!」
トシヤは必死に弁解している。確かに彼は一緒に風呂に入る以外は疑わしい行為をしていなかった。だがエイミーの方はずいぶん危険な冒険を仕出かしているので、心の底から否定できない面があった。
「問答無用なの! 掛かってくるの!」
2人は構えを取って睨み合う。トシヤは『獣神・さくら』直伝の『モトハシ流』の遣い手。それに対してアリシアは源流こそモトハシ流だが、獣人の森で独自に発展した武術の遣い手だ。互いに相手の技や出方がある程度わかっているので、迂闊に踏み込もうとしないで慎重に間合いの探り合いを始めている。
(アリシアの動きは早い上に変則的だから厄介だよな。いちいち追い回していたら逆にこっちに隙ができるからカウンター狙いに絞って集中するか)
トシヤは方針を固めると、両腕をやや引き気味にしてガードを固めた。右半身の体勢でアリシアを迎え撃つ気満々で彼女が動き出すのを待っている。
(どうやらトシヤはカウンター狙いみたいなの! でも先手を取った方が絶対に有利なの! ガードを固めているのなら、ガードが届かない場所を狙うの!)
アリシアはトシヤの足に狙いを絞って、下段から体勢を崩そうと目論んでいる。だがその視線が一瞬トシヤの膝の辺りに向けられたのを、彼は見逃さなかった。
(なるほど、基本通りのローキックから体勢を崩そうとしているのか。蹴りをすかしてからのカウンター狙いに絞ってよさそうだな)
アリシアの攻撃の方向性を見破ったトシヤは僅かに右の軸足に重心を掛けた。だが素人目には絶対に気付かないようなその微妙な動きがアリシアの目に留まる。
(やっぱりトシヤに読まれていたの! このまま踏み込んだらトシヤはカウンターで顔面を狙うはずなの! だから蹴り技を囮にして姿勢を低くしながら鳩尾を狙うの!)
アリシアにもトシヤの狙いが読めていた。彼女は僅かに体を前傾させてトシヤの隙を伺っている。だが、トシヤからもそのアリシアの僅かな動きが丸わかりだった。
(踏み込んでくるのか? いや、あれは違うな! おそらく蹴り技をフェイントにして腹の辺りを狙うつもりだろう。そこをかわしてから腕を取って関節を極めるか)
トシヤは避け難い腹部への攻撃に備えて、左足を5センチ前に出してアリシアに対して体を真横に向けた。こうすることで前面投影面積を最小限にして、胴体への攻撃を避け易くするのだ。
(トシヤから踏み込んでくるの? ううん、あれは違うの! 多分私の狙いがわかって避け易いようにしているの!)
こうして2人の間では依然として睨み合いが続く。その間両者の頭の中では何百通りもの相手の出方が描かれてその対応策がすぐに浮かぶのだった。
「おい、あの2人はさっきから全然動かないぞ!」
「向かい合ったままで構えているけど、一体何をしているんだ?」
まったく動きを止めているように映るトシヤとアリシアの2人に様子に気がついた周囲は、動こうとしない2人に疑問の目を向けている。大した技量を持っていない彼らには、睨み合ったままで動かない2人の間には目に見えない激烈な駆け引きが行われているなど知る由も無かった。
そしてついに先にアリシアが動き出す。両者が接近して互いに拳による突きや蹴り技を繰り出して動き回っているかと思ったら、あっという間にアリシアがトシヤによって床に組み伏せられていた。
「悔しいけどまいったの! トシヤの勝ちなの!」
「中々いい動きだったぞ!」
「全然嬉しくないの!」
速度はアリシアにやや分があるものの、その他の点ではトシヤが大きく上回っていた。特に相手の出方に対する読みの部分でトシヤはアリシアのはるか上だった。伊達に『獣神・さくら』直々に鍛えられたわけではない。
「君たちに教えることは何も無いようだね」
2人の対戦を見守っていた教官が思わず声を上げる程、その一瞬の攻防は技を極めた動きの理に完全に調和したものだった。それほどこの両者は洗練された格闘技術を持っているのだった。
そして、ここにも別の意味で優れた技術を持って暴れている人物が居る。
「オラオラ! この程度で遣られるようなヤワな体じゃ、獣人の森では生きていけないぞ!」
「ダメだ! 手が付けられない!」
「5人掛りで何もできないなんて……」
その豪腕に撥ね飛ばされて次々に床に転がされる男子生徒たち、彼らは身体強化を掛けているにも拘らず、全く相手にされずに面白いように吹っ飛ばされているのだった。
当然その中心に居るのはカシムだ。彼は身体強化など掛けていない素の状態で、5人を相手にして全く一方的な戦いをしている。もちろん本物の戦闘ではないので怪我をしないように加減しているが、それでも床に転がされている生徒たちは体のあちこちに痣を作っている。
「カシム、程々にするの!」
「ええ? 何でだ? この時間は適度に暴れていいから俺が一番輝く時間だぞ!」
アリシアの制止にカシムは聞く耳を持っていない。何しろこの時間を楽しみに1週間を過ごしているようなものなので、『いまさら止めろと言われましても』と思っている。
「そのうち誰か大怪我をするの! カシムはバカだから馬鹿力なの! もっと気をつけないといけないの!」
アリシアは怪我人が出るのを心配をしているのだった。だが、どうやらその心配は杞憂に終わりそうだ。もうこの時点でカシムに一戦挑もうという勇気がある生徒は1人も居なくなっている。それはそうだろう、あんな暴力の台風みたいな存在に自分から怪我を覚悟で向かっていくのは、誰の目にも無謀に映っているのだった。
「まったく脳みそが無いから、戦いが力任せで全然頭を使っていないな!」
「なんだと! ハゲの分際で偉そうな口を叩くな!」
「よーし、わかった! 今からその言葉を空っぽの頭にそっくり飲み込ませてやるから覚悟しやがれ!」
「僅かに残った髪の毛をきれいに毟ってやるぜ!」
トシヤとカシムのほのぼのとした挨拶代わりの罵詈雑言の応酬だ。毎日教室で繰り返されているので、今更誰も気にはしていない。それよりも周囲の目はトシヤとカシムのどちらが強いのかという興味を持って、両者の対決の行方を見守っている。
「ああ、2人とも、せっかく盛り上がってきたけど、もう授業終了の時間だよ。対戦は次の機会にお預けだね」
だがそこに教官からの無常な宣告が言い渡された。その声に息を呑んで行方を見守っていた一同はガックリとした表情になる。
だが一番ガックリ来ていたのは当の本人たち、トシヤとカシムに他ならなかった。この機会に一発かましてやろうと考えていたのが、お預けになってしまったのだ。特にカシムは大好物を取り上げられた駄々っ子のような表情になっている。
「おい、ハゲ野郎! 来週まで我慢できないぞ! 放課後に模擬戦で決着を付けてやるから、準備しろ!」
「ああ、望むところ…… じゃなかった! そういえば俺は3ヶ月間模擬戦も公式戦も禁止されているんだった!」
ようやく大事なことを思い出したトシヤ、そのセリフにカシムは目を剥いている。
「なんだと! 本当に使えないハゲ野郎だな! いつ決着を付ければいいんだよ!」
「誰がハゲだ! このうすらポンコツ頭が! そんなのお前の粗末な頭で考えやがれ!」
相変わらず言い争う両者だが、学院の規定には逆らえなかった。そのまま不完全燃焼のような気分を抱えながら、教室に戻っていくのだった。




