32 エイミーの態度
前回フィオの家に泊まりこんだトシヤの行動を巡って、どうやら雲行きが怪しくなる気配が・・・・・・
翌朝、一晩フィオの屋敷に泊めてもらったトシヤは彼女が通学に使う馬車に便乗して学院に向かう。『ご一緒に馬車で登校しませんか?』という彼女の申し出を遠慮なくトシヤは受け入れていたのだった。
学院が近付くと自宅から通学する生徒の姿が目立つようになってくる。貴族の子弟は馬車で通ってくるのが当たり前で、彼らを乗せた馬車が同じ方向を目指して何台も走る他、徒歩で校舎に向かう生徒の姿も学院に繋がる石畳の道にちらほらと見られる。
「朝はみんなこうやって学校に集まってくるんだな。俺は寮生活だから歩いて5分で教室に到着していたけど、こうして毎朝早目に家を出るのはなかなか大変だろう」
「そうですね、ギリギリの時間だと、馬車を停める場所が混み合って遅刻しかねませんから、なるべく早い時間に学院に到着するようにしています。ですから日を追うごとに、家を出る時間がどんどん早くなっています」
フィオは2人っきりの車内でトシヤとの会話を楽しんでいる。毎朝の光景を話題にしながら、昨夜晩餐のあとで再び書斎にこもって僅かな時間ではあったが、トシヤから日本の科学技術の概念についてレクチャーを受けたのを思い出している。
たとえば初代大賢者が残した書物に『燃焼の概念』という項目がある。そこには燃焼の仕組みについて次のような解説が加えられていた。
『物が燃えるというのは、空気中の酸素と物を構成する分子の中に存在する炭素が結びついて化学反応を起こして光と熱と二酸化炭素を発生する現象』
この記述の中でフィオには『酸素』『分子』『炭素』『化学反応』『二酸化炭素』という言葉の意味が全く理解できずにいた。そんな彼女に対してトシヤは『この世界のあらゆる物質はすべて分子やそれよりももっと微細な原子から成り立っている』という解説を加えていく。フィオがその目には見えない分子や原子の世界の概念を理解するまで、繰り返し何度も教えていくのだった。
その概念はフィオにとっては衝撃的なものだった。身近にある手に取れる物すら、トシヤの解説によると全て分子や原子で構成されているというのだ。そして物資の特性はその原子や分子の組み合わせによって変化するという。
そして魔法というのは分子や原子の本来の在り方に魔力で介入して変成したり、あるいはエネルギーそのものに分解して改変するものという定義に再び目を丸くしたのだった。
「トシヤさんは天才なんですか?」
「全然違う! 俺はさくらちゃんから貰った本で、日本の化学や物理についてちょっと勉強しただけだよ。そのために真剣に日本語を覚えたんだ。おかげでこの世界の文字を勉強する時間がなくなって、全く読めないで困っている」
「それだったら私が教えて差し上げますわ」
「うーん、覚える自信がないから、できれば日本語に翻訳してくれないか?」
「そこはご自分で頑張ってください!」
馬車の中でトシヤの真向かいの席に腰を下ろして揺れに身を任せているフィオは昨夜の遣り取りを思い返して、口に手を当ててクスクスと笑っている。日本語を勉強し過ぎてこの世界の文字が全く読めなくなったトシヤの愉快な子供時代の話が、相当な勢いで彼女の笑いのツボを刺激しまくっている。
「何を笑っているんだ?」
「すいません、トシヤさんはとんでもない天才かと思えば、全く字が読めないなんてちょっと抜けたところがあって、本当に面白い方ですよね」
「うーん、なんだかバカにされている気がする」
「そんなことはありませんわ! 完璧な超人よりも、まだ不完全なところを持っていて、その欠点を克服するために努力をする姿の方が好感が持てます!」
「慰めてくれてありがとう」
「古い言い伝えによると、この世界にやって来られたご先祖様も結局最後まで文字の読み書きができなかったそうですわ。それでもあれだけの偉業を成し得たのですから、トシヤさんも気にする必要はありません!」
「いや、学院の成績的にかなりマズイだろう! 下手をすると進級できないんだから」
「大丈夫ですよ! そのために私がきちんと協力いたします。日本の知識を教えてもらえるお礼です」
車内では依然として2人の会話が盛り上がっている。昨日の夕方校舎裏で出会ったばかりとは思えない程、フィオはトシヤに気を許している。なぜそのような心持ちになっているのかに関しては、彼女自身には自覚が全くないのだが……
ただし、トシヤも同様だった。本来育ってきた環境が特殊なせいで初対面の人間に対しては慎重にその人柄を観察するタイプなのだが、フィオはいつの間にか自然に彼の心理バリヤーの内側に踏み込んできていた。日本という共通の話題が、2人の距離を急速に縮めているのかもしれない。
そうこうする内に馬車は学院の停車場に到着して、御者が降り立ち外側からドアを開く。
「それではトシヤさん、次にお話をうかがう機会を楽しみにしていますわ」
「ああ、いつでも声を掛けてくれ」
こうしてフィオはAクラスの教室に、トシヤは一旦男子寮に向かう。
荷物や着替えはマジックバッグに全て収納してあるので、わざわざ部屋に戻る必要はないのだが、外泊届けを提出しなければならなかったのだ。この時間だったらあの顔馴染みになった舎監は食堂に居るに違いないと当たりを付けると、案の定彼はやや眠そうな表情でいつもの席で朝食の最中だった。
「アルテスさん、昨夜は急に外出して行き掛かり上止む無く外泊をしました。申し訳ありません」
「おお、君か! 入学早々無断外泊とは中々やるね、先々が本当に楽しみだよ! とは言っても私にも学生寮の管理という業務があるから、一応の事情を聞こうか」
「はい、実は……」
トシヤは昨日の事情をあるがままに話す。フィオに誘われて彼女の勉強に付き合い、熱中するあまりに時間が過ぎてしまったことなどを掻い摘んで説明した。
「なるほどね、ルードライン家のお嬢さんならば、君のあの術式に興味を示しても不思議ではないな。貴族の招きとあったら君も断り難かっただろう。まあ今回は不問にするから、次回からはきちんと届けを出してほしいな」
「はい、ありがとうございます。次回以降が気をつけます」
「外泊する気満々だね! 若いっていうのは全く羨ましい限りだよ! ぜひ色々と頑張りたまえ!」
どうやらこの舎監は昨夜の出来事を色々と誤解しているようだ。トシヤとしては疚しい点は一切持っていないので、あらぬ誤解は晴らさないといけないように感じた。
「あの、俺はちゃんと勉強のために……」
「わかったわかった、そこまで言わなくても大丈夫だよ! 私はそれほど無粋な人間ではないからね」
舎監は『グッドジョブ!』という表情でサムアップして、トシヤから外泊届けを受け取った。アルテスの頭の中では昨夜のトシヤの行動は、コンプリートされたギャルゲーのストーリーのように出来上がっている。
完全に誤解されてもうひとつ納得いかない表情のままトシヤは自分の教室に向かう。いつもはもっと早い時間に登校するのだが、今日はだいぶ遅くなってしまいクラスの大半がもうすでに席に着いている。もちろんエイミーとアリシアも着席して待っていた。
「2人ともおはよう!」
「トシヤなの! おはようなの!」
「……」
トシヤが声を掛けるとアリシアはいつものように元気な挨拶を返してくるが、エイミーはなぜか機嫌が悪そうなブスッとした表情で無言のままだ。
「んん? エイミー、どうしたんだ?」
「何でもありません!」
依然として機嫌が悪いエイミー、その表情は『なんでもない訳ありません!』と明らかに公言している。
「アリシア、エイミーが怒っているみたいだけどどうしたんだ?」
理由を言おうとしないエイミーは諦めて、トシヤはアリシアに話の矛先を向ける。
「トシヤが今朝『貴族の女子生徒と同じ馬車で学校に来た!』ってクラスで噂になっているの! ちょうど降りてくる姿を誰かが目撃したらしいの!」
アリシアはエイミーが機嫌が悪い理由をペロッと白状した。彼女はこの事態がどう転ぶのかを面白そうな目で見ているのだった。
「ああ、その話か! 昨日はルードライン家のお嬢さんの招きで屋敷に行ってきたよ。彼女は俺の〔汎用人型魔法戦闘ドローン〕に使用している術式に興味があるようだ。偶然出会って話の流れで屋敷に行くことになった」
トシヤは5聖家の件は隠して、それ以外の事情を正直に説明するが、なおもエイミーのご機嫌は好転しない。むしろ逆に悪化しているように映る。
「裏切り者です」
そうボソリと彼女は呟いたきり、窓の外の顔を向けて一言も口を聞かなかった。
「あっ、先生が来たの!」
担任のラファエル先生が教室に入ってきて、いつものように午前中の授業が始まる。トシヤとカシムは当然Fクラスに移動していくのだった。
昼食の時もエイミーの機嫌は直らず、彼女はトシヤやアリシアから離れた席で1人で食事を取っている。いつもならば『お腹が空きましたー!』と言って彼女が一番張り切る時間のはずなのに……
放課後はEクラスで小さな演習質を借りて魔法実技の自主練習に取り組む。クラスの生徒たちが、授業で学んだ方法に従って術式を操って魔法を発動しようと試行錯誤している。全員が平民出身のEクラスは、学院に来て初めてきちんとした魔法理論を学んだ者が9割以上を占めているので、術式を魔法が発動するような形に組み上げるのに苦労している。今までは理論に頼らずに独自に手に入れた手法で魔法を発動していたため、術式自体が不完全だったり威力や照準が不安定だったりしていたのだ。
アリシアにはトシヤがマンツーマンで魔法理論に基づいて術式を組み上げる練習をしているところだ。アリシアは種族の固有魔法で『幻影の術』と『狐火』が使用できるのだが、せっかく授業で学んだ魔法理論を生かして他の様々な術式を自分のものにしようとしている。彼女はこう見えても中々努力家なのだ。
「魔力を事象改変に用いる過程が難しいの! 中々きちんと発動しないの!」
何度も挑戦するが、基本中の基本のファイアーボールが発動せずにいつも元気なアリシアにしては珍しくへこんでいる。この事象改変に関する部分は当事者の『感覚』『センス』『思念』『イメージ』『思い込み』等に大きく左右される。言葉に表すのが難しい感覚的なものが大きなウエイトを占めているので、そのコツを掴むまでは繰り返し練習あるのみだ。
ちなみにアリシアの種族固有魔法は『事象改変』の部分を精霊が代行しているので、アリシアにとっては余計に感覚が掴み難いのだった。
「体術だって体に技が染み込むまで何度も繰り返し練習するだろう。魔法も同じだから、自分なりに何かを掴めるまで繰り返し遣るしかないんだ」
「わかったの! 頑張るの!」
トシヤの励ましでアリシアは気持ちを取り直している。彼女は匕首を武器にして今では体の一部に感じる程熟練した動きができるようになっている。彼女はその体捌きが可能になるまでの長かった努力を思い出して『魔法も同じように努力しないと身に付かない』と考えを切り替えたのだ。
カシムは演習場には姿がなく、いつものようにグランドに出て走り込みを行っている。彼が発動できる魔法は身体強化のみだった。元々魔力量が少ない狼人族の中ではそれでも異例の存在で、バカでも彼は獣人のエリートなのだ。身体強化は強化する度合いを引き上げる程体に大きな負担がかかる。酷い場合には全身の筋肉が肉離れを起こす可能性もあるのだ。
したがってカシムにとっては、ひたすら体を鍛えて身体強化に耐えられる肉体を作り上げることこそ魔法の強化に繋がるという完全無欠の脳筋状態だ。他の生徒とは比較にならないくらいに魔力が少ない彼はこの方法で努力するしかないと割り切っている。
だが待ってほしい、そもそも彼の頭では仮に豊富な魔力があっても術式自体を絶対に覚え切れないだろう。
そしてここに1人、どんよりした空気を周囲に撒き散らして、演習室の隅で膝を抱えて体育座りしているエイミーが居る。
彼女の様子は一見人を寄せ付けないオーラを発しつつも、『誰か構ってください!』という矛盾した心の声を上げているかのようだった。その目は演習室で活動しているクラスメートの姿をぼんやりと追うだけだった。
「トシヤ、私は1人で練習しているからエイミーを何とかするの!」
「とは言っても、何でエイミーがあんなにイジケているのか理由がわからないからなー」
「つべこべ言っていないでさっさと何とかしてくるの! 早く行かないと狐火をぶつけるの!」
アリシアに怒られて理由もわからずにエイミーの元に向かうトシヤだった。
次回はトシヤがエイミーのご機嫌をどのような方法で取るかというお話になりそうです。




