31 勉強会と晩餐
フィオの家にやって来たトシヤは早速日本に関する勉強を開始します。そこから徐々に2人の関係が……
トシヤとフィオは日本語の基礎を反復しながら、彼女の祖先〔初代大賢者〕が残した中から、比較的簡単な内容の〔生活の基礎知識〕というタイトルの書物を読んでいる。
「なるほど、鉄道というのは馬車よりももっとたくさんの人や荷物を、一度に運べる便利な仕組みなんですね!」
フィオは『鉄道』という文字を読むことは出来ても、その概念を頭の中に描けなかった。トシヤがマンガに出てくる絵を見せて、その仕組みを詳しく説明すると彼女にも理解が出来たようだ。
「その通り、日本には鉄道の他に自動車とか飛行機といった交通手段があるんだけど、それはもう少し色々勉強してから教えるよ」
フィオはこの世界とは全く違う高度な文明を築き上げている日本に思いを寄せると同時に、初代大賢者はどのような思いでこれらの書物を残したのだろうかと考える。全く理解できないような高い技術を用いたこのような文明のあり方は、この世界とは隔絶した社会システムを維持しないととてもではないが保つことができない。それでも初代大賢者は『この世界がいつの日にか日本のような高度な文明に到達できるように』という一縷の思いを託して、その役に立つように彼女の知識をこうして残したのだろう。
しかし現実は大賢者の知識を基にして身の回りの生活に役立つ照明器具や冷暖房器具、調理器具などが出回る他は依然として旧態依然の生活がこの世界では続いている。それだけでも人々の生活が格段に向上したのは間違いないが、社会システムの根本は何も変わっていなかった。
「トシヤさん、日本という国に行ってみたいですね。私、すごく興味が湧いてきました!」
「うん、俺も一度はこの目で実際に見たいと思っている。こうして本で知識を学べても、実際に見るのとでは大違いだろうからな」
どう考えても実現不可能な願いだが、フィオの心の奥にはこの考えが深く刻み込まれるのだった。
「ああ、すみませんでした。私ったらつい夢中になって、時間が経つのをすっかり忘れていました。いつの間にか外は真っ暗ですね」
「そうみたいだな。俺も日本の話になるといつも時間を忘れてしょっちゅう本を読み続けるから、その気持ちはよくわかるよ」
フィオは簡単な漢字を含めて日本語の読み取りがある程度可能だった。ここまでは彼女が読み進める言葉のうちで、理解できない事柄についてトシヤが説明を加えたり、漢字自体が読めない言葉の意味を教えたりしながら解読を進めてきた。時には言葉が持っている概念の説明に多くの時間をとられて、まだ解読自体は10ページも進んでいなかった。
だがそれでもフィオにとっては全く知らなかった新たな発見に満ちた、大変意気のある時間が経過していた。そして彼女はその濃密な時間の中で、いつの間にかトシヤに知らぬ間に感情的に大きく依存しているのだった。
(ああー、なんだかすごく勉強になったし、それにトシヤさんは何でもよく知っているからとっても頼りになるわ)
AクラスのフィオがFクラスのトシヤをまるで師と仰ぐような眩しい目で見ている奇妙な光景が出現している。ペーパーテストだけではその生徒が持っている知識や能力の全てを測ることは不可能という実例のようだ。実際、もし試験問題が日本語で書かれていたら、トシヤの学力試験の自然科学と魔法理論の分野の成績は、AクラスをはるかにブッちぎってSSクラスの評価が妥当だった。
「トシヤさん、今日は遅くなってしまったので、お部屋をご用意しますから我が家に泊まっていってくださいませ。そうしていただければ夕食のあとでもう少しだけ日本についてのお勉強に付き合ってもらえますわ」
「ずいぶん熱心だな。それじゃあお言葉に甘えて一晩やっかいになろうか」
基本的にトシヤは遠慮を知らない。他人の好意は常にありがたく受け取るタイプだ。男子寮に外泊届けを提出していないが、明日の朝戻ってから顔馴染みの舎監に届ければギリギリセーフだ。
「それでは一旦頭を休めるためにお食事にいたしましょう」
「そうだな、ちょうど腹が減ってきたからご馳走になるよ」
2人は3時間ほど篭りっきりだった書斎を出て連れ立ってダイニングに向かう。
「あら、お父様! 珍しく先に召し上がっていたんですね」
フィオはダイニングに入ると、そこには仏頂面で食事をしている伯爵の姿があった。その横には夫人も同席している。伯爵は使用人から2人が書斎に入っていったと聞いており、脳裏に浮かべた不健全な疑いを一応は拭い去っていた。
「お母様、こちらの方は魔法学院の同じ学年のトシヤさんです」
「はじめまして、トシヤです」
「まあまあ、娘が同級生を連れてきたとメイドから聞いて、お会いするのを楽しみにしていましたのよ。今まで全く男性に興味を示さなかったこの子が、どのような殿方を連れてきたのかとワクワクしながら待っていましたわ。挨拶なんかいいから、お座りになって食事をしながらお話しましょう!」
挨拶をするトシヤを見てフィオの母親の伯爵夫人はキラッキラの星を瞳の中に浮かべながら、イタズラっぽい表情で席を勧めた。
(フィオは完全に母親似だな! 仕草が丸っきりそっくりだ!)
トシヤは初対面の感想を表情に出さないようにして、フィオの隣に腰を下ろす。その様子を見てダイニング担当のメイドたちがサッと動き出して、2人にスープと前菜を運んできた。
「あなたたちが帰ってきた時はちょうどまだ出掛けていて、ご挨拶が遅くなってごめんなさいね。でも、さすがはうちの娘だわ! 男性を見る目があるわね!」
「お母様! 私とトシヤさんはそのような関係ではありません。今も2人でずっと日本について勉強していたんです!」
トシヤについて完全に誤解している夫人が、遠慮無しにペロッと口にした台詞をフィオはムキになって否定する。だがなぜかその顔はほんのりと赤くなっていた。トシヤは母娘の会話に介入しないように口をつぐみ、伯爵は相変わらず苦虫を噛み締めた表情をしている。だが、彼は娘の口から飛び出した『日本』というフレーズに急に食い付いた。
「日本だと? なぜ日本のことを彼に教えたのだ?!」
伯爵は完全に誤解をしていた。フィオがトシヤに同じ祖先を持つ者として日本の知識を教えていたのだと思い込んでいた。それは『日本の知識をむやみに口外しない』という一族の掟に反する行為なので、注意が必要だと考えたのだった。
「お父様、それは丸っきり反対です! 私がトシヤさんに様々な日本の知識を教えてもらっていたんです!」
「な、なんだと! なぜその少年が日本について知っているのだ?!」
「まあまあ、とっても興味が惹かれますわね!」
フィオの反論に対して伯爵は『まさか門外不出の秘伝が盗まれたのか?!』とトシヤにあらぬ疑いをかける。日本の知識は大賢者の家系の独占的な所有だと思い込んでいるのだった。対照的に夫人は夫人でますます彼に興味を深めている。
「ああ、これを見てもらえればわかりますよ」
トシヤはマジックバッグからマンガ本を取り出して伯爵に手渡す。お馴染みのロボットマンガだ。
「これは……! 何でこんな物を君が持っているんだ?」
色鮮やかな印刷で製本されたその単行本は絶対にこの世界では成し得ない高度な技術だった。伯爵はそのページを開きながらあまりに精巧な出来に言葉を失っている。
「これはたまに家に遊びに来るさくらちゃんからもらった物です。他にももっと難しい本や魔法書もたくさんありますよ」
「お父様、本1冊で驚くのはまだ早いです! トシヤさんは日本の魔法術式でゴーレムを作り出して、それを意のままに動かせるのです」
「まあまあ、凄いのね! これは是非とも我が家にお婿さんとして迎え入れなければなりませんね」
気の早い『婿入り』というフレーズを口にした伯爵夫人をトシヤは華麗にスルーしている。彼の特殊スキル〔すっとぼけ〕が発動中だ。
「一応聞いておくが、『さくらちゃん』とは誰のことを言っているのかね?」
「ああ、ご先祖様の妹で、俺の体術の師匠ですよ。よく俺の家に遊びにやって来て飯を食ったり昼寝をしています」
この世界では、もはや神話に近い伝説となっている〔獣神・さくら〕は、暇があると気軽に日本からやって来る。趣味の魔物狩りにはトシヤの実家が便利なので、しょっちゅう彼の家に滞在しているのだった。適当に魔物を狩って満足すると、ドラゴンに乗って気ままに世界各地を飛び回って、面白い話が転がっていないか見て回るのが、彼女の習慣だった。
「ではやはり先日帝都に降り立ったのは、さくら様だったのか」
伯爵の耳にも帝城内の軍の演習場に10年ぶりにドラゴンが舞い降りたという報告が入っていた。気軽にドラゴンを乗りこなす存在など滅多やたらに居るものではない。『さくら様が何らかの用事で皇帝陛下に会いに来たのだろう』と見当はつけていた。当然再びドラゴンが飛び立つまで城内が大騒ぎに包まれたのは云うまでもないが、この情報は政府によって訪問の目的等一切が隠蔽されている。
「なんだ、さくらちゃんがわざわざ来ていたんだ! まったく過保護だな、きっと俺の入学試験の様子を見に来たんだよ」
トシヤは秘匿された情報に触れる機会がなくて、今までさくらがこの地に来ていた件を全く知らずにいた。だが彼の勘は正確に彼女の行動の目的を把握していた。『暇つぶしに愛弟子の入試の様子を見に行こう!』などというのはいかにも彼女が考えそうなアイデアだ。
「まあまあ、トシヤ君はずいぶんご先祖様から可愛がられているのね! これはますますお婿さんに迎え入れなければならないわ!」
またしてもトシヤの特殊スキル〔すっとぼけ〕が発動する。つられるようにしてフィオにも同時に発動して、彼女の耳には一切の母親のセリフが入ってこなかった。
「なるほどな…… 私はまだ一度もお目にかかったことはないが、さくら様がちょくちょく日本からこちらの世界にやって来ているという話は耳にしていたよ。魔族の国と獣人の森に長く滞在していると聞いてはいたが、まさか君の実家にも訪れていたとは知らなかった」
〔獣神・さくら〕は、現在でも獣人たちの王を務めている。彼女は面倒な政治に口を出すことはないが、軍隊に気合を入れるために森に長期間滞在するのだった。その後『見回り』と称して、経験の少ない若者の部隊を引き連れて、森に危険な魔物が居れば討伐して回る。こうして獣人の軍隊は力を付けていくのだ。その結果としてアリシアやカシムのような驚異的な戦闘力を持つ人員を養成しているのだった。
魔族の国、新へブル王国に長期に渡って滞在するのは、かつて共に冒険をして回ったノルディーナの祖母がまだ存命のためだった。昔話に花を咲かせたり、時には一緒に魔物を討伐したり、近くの温泉に足を伸ばしに出掛けているらしい。
ここまで話をしてようやく伯爵にもトシヤが日本について詳しい理由が理解できた。それはさくらを通じて直接日本の知識を取り寄せていたという全く意外な方法であったにせよ、大賢者の家としては彼の知識を学び取るのは大いに歓迎するべき事項だった。
「トシヤ君、どうか娘に色々な知識を教えてほしい。フィオレーヌも彼の近くでしっかりと教えてもらいなさい」
「もちろんですわ! お父様に言われなくても私は最初からそのつもりです! トシヤさんから絶対に離れませんわ!」
「あらあら、フィオは堂々と交際宣言ですか?」
三度トシヤの特殊スキル〔すっとぼけ〕が発動する。だが今回、フィオは彼のスキルにつられずに、まともに母親の言葉を耳にしてしまった。見る見るのその顔が真っ赤に染まる。
「お、お母様! そ、そんなつもりで云った訳ではありません! わ、私は日本の知識に興味があるだけです!」
「あらそうなの? それでは彼に男の子としての興味がないわけね」
すでにしどろもどろになっている娘に対して母親の鋭い追撃の矢が飛ぶ。穏やかな口調にも拘らず、伯爵夫人はドSなのかもしれない。トシヤは相変わらず、すっとぼけ発動中で何も耳に入ってこない。今度は彼につられるようにして、伯爵までもがスキルを発動している。というよりも、溺愛する娘の恋愛宣言など絶対に聞きたくないという態度だった。
「そ、その…… 全く興味がないというわけではありませんが……」
「それなら最初からそのつもりできちんとお付き合いしなさい。素直に接するのがあなたの気持ちを実らせる一番の近道なのよ」
どうやら伯爵夫人は本人すらまだ気がついていなかったフィオの、トシヤに対する淡い気持ちを敏感に感じていたらしい。女の勘は恐ろしい。特に母親は自分の子供のことになると、必要以上に敏感にその勘が働くものだ。
「は、はい。頑張ります……」
消え入りそうな小さな声でようやくそれだけ何とか答えるフィオだった。
次回は舞台が再び学院内に戻る予定です。何かしらトラブルの予感が……