12 模擬戦 3
さてさて、主人公と貴族のボンボンの模擬戦はこのお話で結末を迎えます。どのような決着になるのでしょうか?
正面から突っ込んでくるトシヤに対して、ペドロは魔法を放つ気配を見せないまま怪しげな表情でトシヤを見ている。
(何かおかしいぞ! まったく攻撃する素振りがないのはどうしたんだ?)
ダッシュを開始したトシヤは、ペドロの様子に違和感を感じていた。だがすでにスピードに乗っているので、今更その勢いを止めることはできない。あと一歩でその手がペドロに届く、そんな距離まで接近した時、トシヤの目が大きく見開かれた。
「何っ!」
ペドロがローブの内側に隠していたその右手には、液体が入った透明な小さなビンが握られている。ニヤリとした表情で彼は、そのビンの中身をトシヤに向けてぶちまけた。
「グワーー!」
咄嗟にかわそうとしたものの、正体不明の液体の一部がトシヤの顔から左肩にかけて降り注ぐ。服に覆われた部分は特に大きな被害はなかったが、問題は顔にかかったその液体だった。目に入り込んだ液体が強烈な痛みを引き起こして、トシヤは顔面を手で覆いながら、バランスを崩して転倒する。ペドロが振り撒いたその液体の正体は酸だった。この世界では地球のように、塩酸や硫酸といったPHの高い強酸は殆ど手に入らないが、鉱山や火山の近くから天然で産出する弱酸は、かなりの量が産業に活用されている。弱酸とはいっても酢よりも酸性度が高いので、それが目に入ったらとんでもない痛みを引き起こすのだった。そして人間の目というものは、強い痛みに晒されると本能的に開けなくなる。つまりトシヤはこの時点で視力を完全に奪われてしまった。
痛みのせいで床を転がり回るトシヤを、狂気に満ちた目で見下ろすペドロに、審判の教員が駆け寄る。
「ペドロ、君は失格だ! この試合は没収とする!」
審判の裁定が場内に響くと、見学席からはペドロの卑怯な攻撃に対する抗議のブーイングが飛び交った。
「トシヤさん!」
「トシヤ、大丈夫なの!」
「なんてことしやがるんだ!」
彼の戦いぶりを見守っていた3人からも、容態を心配する声が上がる。だが依然としてトシヤは、顔を押さえて蹲ったままだった。
学院での模擬戦で認められているのは、魔法と体術や刃引きの剣、ロッド等による攻撃のみで、アイテムを直接使用する行為は、重大な反則に該当した。もしペドロがこの液体を利用して何らかの術式でトシヤを攻撃していたら、ぎりぎりセーフだったかもしれなかったが、液体を直接使用した時点でペドロの反則負けが決定していた。
会場からはペドロに対する罵声が相次いで、騒然とした空気が流れている。だがエイミーやアリシアは、トシヤが心配で居ても立ってもいられない様子だった。
「ペドロ、この場を退場して学院の処分が下るまで登校を禁止する。速やかに退場したまえ」
「うるさい!」
完全に自分を見失ったペドロ、はあろうことか審判役の教員に至近距離から風魔法を放った。教員はまともにその魔法を食らって、部屋の壁に背中から激突して意識を失う。
「さあ、邪魔者は居なくなった。これから思う存分に痛めつけてやる!」
今のペドロは『模擬戦の勝敗などどうでも構わない』という思いが、頭の中の全てを占めている。当初は20人の仲間が居れば『トシヤ独りなどどうにでもなる』という甘い見通しを持っていたのだが、頼りにならないその仲間たちが居なくなった現在『どのような手段を用いてもトシヤに恥をかかされた復讐を遂げる』という思いだけがペドロを支配していた。貴族としてのつまらないプライドが彼をこのような暴走に突き進ませたのだった。甘やかされて常に天才とちやほやされ続けた未熟な精神が、敗北という現実を受け止め切れなかった故の悲劇に他ならない。
このペドロの暴挙に演習室全体が凍りついた。まさか審判に手を出すとは誰もが考えていなかっただけでなく、この先彼がどのような行動に出るのか、まったく予測できない不安と緊張に会場全体が包まれた結果だ。
「見学している生徒はすぐにこの部屋を出なさい! 待機している教員はペドロの確保と負傷者の救出を!」
フィールドの近くに設けられた審判席に待機していたラファエル先生の指示が飛ぶ。ペドロの暴走がこのまま続き、万が一上級魔法などの使用に及んだら、それほど強固な結界で隔てられていない見学者にも危険が及ぶ可能性があるので、この措置は当然だろう。彼ともう一人の教員が生徒の誘導に当たり、他の3人の教員がフィールドの入り口に向かって走り出す。
だがその混乱した状況の中で、いつの間にか立ち上がっていたトシヤの声が演習室に響き渡った。
「零号機、倒れている人間を隅に寄せろ! 初号機、入り口を封鎖しろ!」
相変わらず目を閉じたままで、マジックバッグから2体のゴーレムのような物体を取り出したトシヤが、矢継ぎ早に指令を与えると2体はその指示通りに動き出す。トシヤのオタク魂の結晶であり、彼が心血を注いで10分の1サイズのフィギュアと間違うばかりの精巧さで作り上げた2体は、本物の人間以上の素早い動きで命令を遂行する。零号機は倒れている生徒の襟首や胸倉を掴んで次々に壁際に雑に放り出して、初号機は入り口のドアに手を掛けて開かないように押さえ込んだ。
「なんか凄いのが出てきたの! 人みたいに普通に動いているの!」
「あれってトシヤさんが出したんですか?!」
「どう見てもハゲ野郎の命令に従っているよな!」
トシヤが心配で退避指示に従わずに最前列の席に残っていた3人の口から驚愕した様子の言葉が漏れる。目にしたことなどあるはずも無く、想像すらつかない姿をした日本のアニメに登場する『汎用人型何チャラ』がいきなりのご登場とあっては、これが当たり前の反応だろう。3人と同様にまだ退避の途中で部屋に残っていた生徒はそのゴーレムのような物を見て目を丸くしている。
ひとまずは零号機と初号機が指令を完了した様子を繋がっている魔力線を通して確認したトシヤはペドロに向かって中指を突き立てて非難の声を上げる。だが目が見えない悲しさで、その位置はペドロが実際に立っている場所から角度にして90度ズレていた。
「さて、ずいぶんなことをしてくれたな! この便所スリッパ野郎が! もしこの液体が俺の頭皮に掛かっていたら、本気でぶち殺していたところだぞ!」
「そこよりも先に心配する場所があるの!」
「なんで目が見えないことよりも髪の毛を気にするんでしょうか? 相変わらずトシヤさんの考えには全くついていけません!」
「なにしろヤツはハゲ野郎だから仕方ないさ」
カシムが大正解の模様だ。口では気にしていない振りをしているが、実はトシヤ本人にとっては一番の大問題だった。万一頭皮に何かあった場合は、おそらく躊躇いなく零号機と初号機をペドロにけし掛けていただろう。
見たこともない2体の出現に見学席の生徒と同様に呆然としていたペドロは、トシヤのこの声でようやく再起動を果たす。初号機の手によって封鎖されている出入り口からは『ここを開けなさい!』という教員の声が聞こえてくるが、ペドロには全く耳に入っていなかった。
「貴様、なんだあのゴーレムは! あれで戦おうなんて卑怯だぞ!」
自分の反則行為は棚に上げて、トシヤを卑怯者呼ばわりするペドロだった。だがその表情は真っ青になっている。それほどにトシヤが取り出した零号機と初号機は、彼の目に禍々しい程に恐ろしく映っている。
「安心しろ、こいつらは誰にも邪魔されずに決着をつけるために、この場を封鎖しているだけだ。手出しはさせない。それよりも模擬戦は、さっきのお前の反則で終わったということでいいんだな! ここから先は、本当の殺し合いのお時間だぞ!」
ラノベで仕入れた情報で学んだ両腕をやや下げて広げる形、いわゆる『支配者のポーズ』を取りながらトシヤは殺し合いの開始を宣言する。
「なんだか奇妙なポーズをしていますが、あれにはいったいどんな意味があるんでしょうか?」
「なんだか偉そうな雰囲気だけは伝わるの! それよりも何とかトシヤを止めるの!」
「無理だろうな。あそこまで遣られて、黙っていられるハゲ野郎じゃないだろう」
「なんだか心配したのが馬鹿らしくなってきたのは気のせいですかね?」
「エイミー、安心していいの! それがたぶん正常な神経なの!」
3人はトシヤの様子を見て『うん、平常運転だ!』と判断している模様だ。
見学席から見守る3人のどうでもいい話などお構いなしに、トシヤの全身から殺気が溢れ出す。食堂でペドロの取り巻きを失神させた時とは比較にならない、物理的に人体に作用を及ばす殺気がペドロに襲い掛かった。それだけで口から泡を吹いて白目を剥きかねない強烈な気に襲い掛かられたペドロは、体の奥底から縮み上がる思いだが、逆にそれが彼の生存本能に火をつけた。
「食らえ!」
襲い掛かる殺気を辛うじて撥ね退けて、ペドロは風魔法を放つ。『窮鼠猫を噛む』といった状態で放たれた真空の刃が、真っ直ぐにトシヤに向かって飛翔して、彼の体を切り裂こうとする。
「ぐっ!」
ギリギリでその気配を察知したトシヤは、右に転がって風の刃を避ける。目を開けられないので、魔法が体の近くに接近しないと、その気配を掴めないのだった。先程までの余裕のある戦い振りとは全く別人のように、感覚の全てを気配察知に用いている。
「こんなものではないぞ、食らえ!」
トシヤの余裕の無さを見て取ったペドロは、急に勢いを取り戻して、続け様に殺傷力の高い魔法を3発まとめて放った。
「身体強化、最大!」
トシヤは風を切る音が3つ聞こえた段階で回避を諦めて、ペドロの魔法を受け切る決心を固めていた。両腕を顔の前でクロスさせて…… 違う! 顔面よりも若干高く掲げているところを見ると、何が何でも頭皮だけは守る所存のようだ。
「トシヤは無茶をするの!」
「トシヤさん、もう止めてください!」
魔法を避けようとして床に転がったトシヤの様子を見て『やっぱり危険じゃないの!』と考えを改めたアリシアとエイミーが必死に叫ぶ声がこだまするが、精神を集中しているトシヤには全く聞こえてこなかった。彼はその構えのまま一歩一歩魔法が飛んでくる方に向かって前進を開始する。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
3連発でトシヤの体を切り裂くようにウインドカッターが襲い掛かった。頭皮に翳している両腕と胸の辺りと両腿に、服ごと皮膚を切り裂かれた傷ができる。身体強化のおかげで浅く皮膚に傷がついた程度で今の所は済んでいるが、何発も食らうとダメージが大きくなって、動きに支障が出るのは当然だ。切られた部分からはあっという間に血が滲み出して、演習服を真っ赤に染め上げていく。
「まだまだ!」
痛みから意識を逸らして、ペドロの位置を突き止めることに集中するトシヤ、その体に再びより威力を高めたウインドカッターが襲い掛かる。先程よりも相当深い傷を負ったトシヤは、その痛みで膝を床に付き掛けるが、歯を食い縛ってギリギリで耐えた。
「なぜだ、なぜ倒れない!」
本当の命の遣り取りを知らないペドロの口から思わず呟きが漏れる。目が見えない相手に対して自ら声を出して居場所を知らせるという、痛恨のミスを彼は犯していた。それは彼の神経が迫ってこようとするトシヤの殺気に耐えられなくなったことが大きな原因だった。甘やかされて育った貴族のボンボンの限界が露呈した瞬間だ。
「そこか!」
トシヤは一気にスピードを上げて、声が漏れた方向に身を躍らせる。全身が血に塗れたその姿はペドロに本能的な恐怖心を呼び起こさせるに十分だった。彼はローブの内側に隠し持っていたナイフを無意識に引き抜くと、トシヤに向かって突き立てようとする。
「ザクッ!」
「ぐっ!」
目が見えなくても、空気の流れで何かが自分に向かってきていると察知したトシヤは、ペドロの手を撥ね退けようと右手を振るうが、タイミングが遅れて僅かに軌道を下方向に逸らしただけだった。その結果心臓目掛けて突き出されたナイフは、トシヤのわき腹に突き刺さっている。
「トシヤ、だめなの!」
「トシヤさん!」
アリシアとエイミーの悲鳴が上がる。トシヤのわき腹にナイフが突き刺さっている光景に、2人の顔は真っ青だった。
だがそのトシヤはというと……
「苦労したけどやっと捕まえたぜ!」
わき腹に刺さったナイフを握っているペドロの手首を掴んで、絶対に離すものかと徐々に力を込めていく。
「ぐっ! は、離せ!」
「潔く諦めろ!」
ナイフを動かされては敵わないので、トシヤは万力のような力でペドロの手首を握っている。『離せ』と言われてもここで『はいそうですか』と応じるわけには行かないのだ。
手首を握られて力が入らないペドロの腕をナイフから引き剥がして、トシヤは空いている手も添えて捩じり上げていく。その腕を少しずつ高く引き上げると、ペドロの体は痛みから何とか逃れようとして頭が下がっていく。あとは一ひねり加えれば、自動的に彼の体は背中から床に落ちていくだけだった。
「こいつは邪魔だな!」
わき腹に突き刺さっているナイフを引き抜くトシヤ。傷口から一気に血が吹き出てくるが、腹筋をグッと閉じると一時的に出血が治まる。
カラン!
彼の手で離れた場所に放り投げられたナイフが乾いた音を立てる。
体全体が痛みで悲鳴を上げている状態だが、そこはやせ我慢して、まだ握ったままのペドロの右腕の肩の辺りに、足を乗せて一気に捻った。
バキッ!
「ギャーー!」
テコの原理で靭帯を捻じ切って肩の関節を外したのだ。頭から一回転して床に背中を打ち付けて喘いでいたペドロは、人が出せるとは思えない恐ろしい悲鳴を上げる。トシヤはついでに左の肩に踵を落として踏み砕く。この時点でペドロはあまりの痛みに、意識がブラックアウトしていた。
「おい、起きろ!」
鳩尾に足を乗せてグリグリすると、ペドロの目が薄っすらと開いてくる。その瞳からは、すっかり憎悪や復讐といった黒い感情が消え去って、ひたすら痛みと恐怖に耐えるだけの存在に成り下がっている。
「こんなもんでチャラにはできないぞ!」
「た、頼む、もう許してくれ…… ぎゃぁぁぁぁ!」
弱々しいその声に対して、トシヤは馬乗りになって顔面に1発パンチを入れる行為で応える。『コブシで語り合う』をまさに実践しているのだった。
床に寝かされて両腕を破壊されたペドロは、抵抗の術を失っている。そんな相手に対してトシヤの情け容赦ない鉄拳が立て続けに振り下ろされる。ペドロはもう声すら上げられない状態で、その顔面はすっかり原形を失って、誰だかわからなくなっている。
「結構頑張ったけど、ここまでみたいだな。もういいから死ねぇぇぇ!」
トシヤはペドロの顎を左手で押し上げて、大きく頭部を仰け反らせている。そして右の拳が狙っているのは喉仏だった。ここを破壊されると、呼吸困難という重篤な致命傷を負わせるのが可能な人体の急所だ。
完全に殺戮者の雰囲気を漂わせて、最後の一撃を振り下ろそうとするトシヤ。
「トシヤさん、もう止めて!」
見学席から響く聞き覚えのある声にトシヤは振り下ろそうとした拳を寸前で止めて、声がした方向を見えない目で振り返った。
「もういいの、トシヤさん、もうこれ以上やらなくていいんです! お願いだからいつものトシヤさんの戻ってください!」
その声はトシヤが絶対に聞き間違うはずが無いエイミーの声だった。しかも鼻に掛かっている点を考えると泣いているのかもしれない。
(いつも明るいエイミーを泣かせてしまったな)
トシヤの体全体から殺気が消え失せる。馬乗りになったペドロの体から離れて、出入り口を封鎖していた初号機と壁際で待機していた零号機を呼び寄せてマジックバッグにしまいこむ。
「ふー、終わったな……」
そこまで終えてようやく一息ついたトシヤは、その場にバッタリと倒れ込むのだった。