プロローグ
男はひたすらに冷静になることだけを考えていた。この取調室は地下にでもあるのだろうか。ひんやりとしていてカビ臭い。
刑事が気をきかせ、タバコに火をつけて男に渡した。しかし彼の指は、それを掴んで受け取ることができず、まるで手をすり抜ける様に机の上にむなしく落ちる。火種が砕け散る様は、まるで心が折れてはじけてしまいそうな、今の心境を表しているかのようだ。
動揺を隠しきれない彼に刑事は先ほどから淡々と現状を説明してくれている。だがずっと下を向いたまま現状を受け入れられないようだ。彼の身体は動くたびにノイズが走った立体映像のように透けている。どうやら物体に干渉するとそうなるようで、頭の上についている天使の様な輪だけは、はっきり視認できる状態だ。
刑事は立ち上がり彼の肩をゆすって正気を確認しようと手を伸ばす…しかし彼に触れることはやはりできない。気まずい空気が取調室を埋め尽くす。刑事は気だるいため息を吐くとこう言った。
「お前は死んでいるんだ…これは現実なんだ。」
刑事は机のバインダーを男に渡し言った。
「記憶が戻るまではそれがお前の名前だ。」
そこには死者証明書と書かれていて、名前の欄には「死者ナンバーJ666」と書かれていた。
なんでこんなことに…。
彼は目覚めた瞬間から記憶がない。それは死んでいるから、もしくは死者になったからだ。人は死ぬと物体である身体から魂が抜け出す。そしてエクトプラズムという新しい器を作り、まるで幽霊の様な状態になる。簡単に言ってしまえば物体の器から空気のような器に鞍替えしただけなのだ。それは成仏し天国に行き、転生するための準備のようなものと思われている。しかし、器がかわると記憶が欠落してしまう。それによって成仏できなくなる。要は死んだら生前の記憶を探さなければならない。言わばこの幽体の体はそのためだけのものなのだ。外見は生前と一見かわりない。魂に残るかすかな記憶が具現化しているだけらしいが詳しく解明されてはいない。
彼、死者ナンバーJ666、つまり死者Jは、これから自分を成仏させるために生前から死に至るまでの記憶を探さなくてはならないのだ。
Jが目覚めたのは、とあるホテルの一室だった…。