第壱夜 宵宴
千沙帆は森の中を走っていた。
鬱蒼と茂る木々が夜空を覆い、わずかな月明かりが少女の影をちらちらと揺らしている。
(ああ。私は何て愚かなの──!)
胸の底から沸き上がる叫びをやっとの事で押し殺し、千沙帆は唇を噛みしめた。
走り続けて上がった呼吸がせき止められ、肺を絞るような苦しさが襲う。
慌てて口を開いて空気を吸えば、微かに鉄の味がした。無理に走り続けたせいだろうか。それとも唇を強く噛みすぎて切れてしまったのだろうか。
そんな事はどちらでもよかった。どちらにしても、今の千沙帆にとっては些細な事だ。
闇夜を駆ける少女の心は、嵐に放り出された小舟の様にぐらぐらと揺らぎ、均衡を保つことで精一杯だった。この痛みを認めればたちまち涙の海に呑まれてしまうに違い。そうなればこの足はもう二度と前には動かないだろう。
思うがままに進むことが出来ないならば、それは死と同じだ。と千沙帆は思った。
今この場で立ち止まると言うことは、そういうことだ。
(泣いている暇などないわ。今の内に少しでも邑から離れなくては)
幸いにも今日は宴だ。酒と喧騒の最中から少女が一人消えたところで、気がつく者も居ないだろう。
──あの隼のような眼を除いては。
千沙帆は滲む目をごしごしと拭うと、足の指の一本一本まで力を込めて、大地を蹴った。
* * * * *
柏槙の木々が茂る入り江に珠流可はあった。
温暖な気候と複雑な海流に恵まれた珠流可は、小さいながらも豊かな邑だ。
海岸線から扇形に広がる邑の背には、深い山々。海と山に囲まれた辺ぴな立地から、他の邑との交流は少なかったが、別段困ることは無かった。
荒ぶる海へ船を出せば様々な魚が獲れたし、森へ入れば豊富な木の実や獣が獲れた。
恵みをもたらす海を奉り、海と共に生きる。
ささやかな、それが珠流可の邑の暮らしだった。
「千沙帆、いい加減に出てこい。俺だって暇じゃないんだ」
呆れとも苛立ちともつかぬ男の声に、夜虫の声がぴたりと止まる。
しっとりと流れていた初夏の宵が突如として凍り付いてしまったかのようだった。
灯りを落とした部屋は暗く、目を凝らしても物の輪郭もわからない。
千沙帆は手探りで帷の影に身を隠すと、気配を悟られないように息を潜めた。
(お願い、こちらへ来ないで)
男が手にしている松明の灯りが、戸口の向こうでゆらゆらと揺らめいている。
ああ、今夜ばかりは優しい乳母を恨んでしまいそう。自分の事のように喜んで着付けをしてくれた栃の嬉しそうな笑顔が過ぎり、千沙帆は己の不甲斐なさに泣きたくなった。
堪えるように袖を握れば、慣れない薄衣の滑らかさが殊更に千沙帆の不安をあおる。そんな気持ちを追いやるように小さく頭を振ると、櫛飾りがさらさらと可憐な音を立てた。
「面倒な……。入るぞ」
その微かな音が合図だとでもいうように、男は戸口にかけられた葦の荒薦をかき分けてずかずかと部屋に踏み込んできた。
男の力強い足取りには一切の迷いが無い。板張りの床を規則的に鳴らしながら、まっすぐに千沙帆のもとへ近づいてくる。
千沙帆は己の愚かさを心底悔やんだ。そうだ。考えてみれば昔から、この男に隠れ鬼で勝ったことなど一度も無かったというのに。こんなことになるのならば、何としてでも御館を抜け出すべきだった。
(──御館を抜け出す)
自らの考えに小さく嗤笑する。
そんな事が出来るのならば、はなから何の苦労も無い。
「ねえ隼彦お願いよ。私のことは放っておいてちょうだい」
観念して懇願すれば、隼彦はつくづく面倒そうに吐き捨てた。
「俺だって出来ることならそうしたいさ」
「だったらどうして急にこんなことをするの? 酒宴の席なんて今まで頼んだって出させてくれなかったじゃない」
「俺の意志ではない。父上の──首長の命であれば仕方あるまい」
「でも私、本当にどうしたらいいのかわからないの。こんな上等な衣裳に袖を通すのも初めてだし、形ばかり立派で何だかとても気恥ずかしくて」
普段着ている麻衣とも祭事にまとう巫女装束とも違う、柔らかな桃染布の薄衣。肩から垂らした領巾はふんわりと軽く初夏の海を思わせる緑青に染め上げられている。黒く艶やかな髪は綺麗に結われ、櫛からは小さな桜貝が幾筋も垂れていた。
どれをとっても、年頃の乙女であれば目を輝かせて喜ぶであろうしつらえだ。
けれどもこれまでめかし込んだ事のない千沙帆にとっては、そのどれもが馴染みの無いものだった。まるで自分が知らない人間になってしまったかのように、得も言われぬ違和感だけが身を包んでいる。
この己のちぐはぐさを、幼いころから同じ御館で兄妹のように育ったこの男──隼彦やその子弟の真問に見られる事が何より恥ずかしかった。
(どうせからかわれるに決まっているわ。特に隼彦は私が女らしく振舞うことを疎ましく思っているのだから)
初めて髪を結った日。「くだらない」と蔑むように言った隼彦の目を千沙帆はいまだに覚えている。千沙帆が巫女として初めて波占をした日も、栃の目を盗みこっそり紅をひいてみた日も。子どもの頃からいつだって、隼彦の苛むような視線が千沙帆を追い立てていた。
「自分でも似合わないのは、わかっているのよ」
それでももしかしたら。
栃が一所懸命に着付けてくれたのだから、少しは褒めてもらえるかもしれない。
千沙帆もまもなく十四だ。子供だった頃とは違う。ほんの少しでいいから自分を認めてもらえたら。巫女としても女としても出来損ないのこの自分に、少しばかりの自信をもって宴の席に向かえるのに。
「いいから出てこい」
千沙帆の態度にしびれを切らしたように、隼彦が帷を押しのけた。
揺れる炎が遠慮なく千沙帆を照らす。
気恥ずかしさから思わず顔を背れば、頭上で小さく舌打ちが聞こえた。
隼彦は鋭い目を一層細めて剣呑な瞳で千沙帆を見下ろしている。
精悍な顔立ちに険しい色を浮かべたまま、隼彦は頭を抱えて大きく息を吐いた。
「俺は今夜こんなものと連れ立たねばならんのか」
千沙帆のわずかな望みは一瞬で打ち砕かれたようだった。
「お前はただ俺の隣に座っているだけでいい。口も開くな」
低い低い声音が夜を震わせる。
「お前が何の役にもたたないことは邑の皆が知っている。余計なことをしてこれ以上俺に恥をかかせるなよ」
そう言って隼彦は千沙帆の手を引いた。
掴まれた手首が酷く痛い。力任せに引かれ転ぶように渡殿へ出れば、軽快な楽の音が聞こえてきた。
普段でさえ若衆の集う邑長の御館が、今日は一層活気づいているようだった。
太鼓の音が脈打つように、夜を煽る。
「何故お前が巫女なんだ」
篝火に照らされた赤い空を睨みつけ、隼彦が言った。角髪に飾られた珊瑚珠が鈍く煌めいている。その不機嫌そうな横顔に、千沙帆の心はふつふつと泡立った。
「……そんな事、私が一番知りたいわ」
巫女とは名ばかりの役立たず。
邑の皆にそう揶揄されていることも知っている。
そして何より、千沙帆自身がそれを一番わかっていた。
歴代の巫女より遥かに力も弱く、占も読み違えることがある。そればかりか、ここ数日の海は癇癪を起こした子供のように我儘で、激しく荒ぶったかと思えば、数刻と経たずに凪いでしまう。そんな予測の出来ない波模様が、もうずっと続いているのだ。
(占も読めず、祈祷も効かず。一体何のための巫女だと言うの)
海神を呼んだとされる一番初めの巫女に比べたら、自らの力など赤子にも及ばない。
それでも巫女を名乗りそれとして振舞わねばならぬ虚しさは、じわじわと燻る炎の様に千沙帆を苛んでいた。
(私を必要としている人なんて誰もいないわ。──私自身でさえも)
賑やかな宴の宵、千沙帆はどこまでも一人ぼっちだった。