前夜 珠流可(するが)
──そのむかし。
珠流可の海は酷く荒れておりました。
荒波は繰り返しその腹を海に叩きつけ、白く濁った海面はかき回された鍋の様にぐるぐると渦を巻いていたのです。潮のうねりは休むことを知らず、ひとたび水面に舟を浮かべようものなら、たちまち細かい木屑となって暗い暗い水の底に吸い込まれてしまうのでした。
さて、どうして珠流可の海がそれほどまでに荒れていたのかと言いますと。
珠流可の海にはずいぶんと長い間、海神がおられなかったのです。
なぜなら珠流可は大変入り組んだ場所にあり、多くの潮と灘に囲まれて居た為に、綿津見尊やその御子達の視界から、すっかり隔たれてしまっていたのです。
治める者のない海というのは、秋の終わりの獣と同じです。高波は牙や爪や舌となって村を襲い、地を駆け上がる波は理も周期も知らぬとばかりに荒ぶり、触れるもの全てを喰い尽くしていきました。
獣でしたら飢えが満ちれば森へ帰るのですが、海の腹はいつまで経っても満ちる事はありません。高波は幾度と無く村に押し寄せては、人々の生活を、命を根こそぎさらっていったのです。
村人達は嘆きと悲しみに打ちひしがれ、日々途方に暮れておりました。壊れた家は直されることなく捨て置かれ、中には村そのものを捨て行く人もおりました。村も人も、活気を失えば後は廃れるばかりなのです。
人々が嘆きに暮れる中で、一人の少女だけは違いました。
その少女は同じ年頃の娘たちと何も変わらない、ごく普通の乙女でした。取立て美しい訳でもなく、賢いわけでもありません。けれども、その体の内に誰よりも強い心を秘めていたのです。
何度目かの高波の後。少女は激しい波の打ちつける岬の縁に跪き祈り始めました。鞭打つ様な鋭い波に当てられても、ごつごつとした岩に肌が磨り減り膝から血が流れても、少女は諦める事無く祈りを捧げました。来る日も来る日も辛抱強く、眠ることも食べることも忘れてただひたすら祈り続けたのです。
そうして何日かたったある日。少女の祈りは遂に、綿津見尊の元へ届きました。
健気な少女の行いと、村の惨状に酷く心を痛めた綿津見尊は、村にその御子を御遣わせになりました。
御子は豊かな白い髭を蓄えた翁の姿で少女の前に現れると、跪く少女の胸元に静かに口付けを落としました。
するとどうでしょう。翁の体から目映いばかりの光が溢れ、枯れ木のようだった体が、白銀の鱗を持つ大蛇に変わったのです。蛇神は逞しい体を優雅にくねらせると、空を貫くほどの光を放ちながら、荒れ狂う波間へ飛び込みました。
海は途端に大きく波打ち、まるで桶に小石を落としたように銀の波紋が幾重にも広がっていきました。やがてそれが海と空の境に吸い込まれたかと思うと、大きく白波を立てながら、色とりどりの魚をつれて戻ってきたのです。
こうして珠流可の海は、今の姿に──多くの魚が穫れる、豊かな海になったのです。
『珠流可話譚』より