殺意の音
北隣の203号室に人が住んでいることに気づいたのは、昨夜のことだった。
がたがたと小さな音が聞こえてきたと思ったら、次にはテレビの音。
そして聞いたことのない音楽が小一時間ほど流れてきて、再びテレビの音。
一度、携帯で話している声がかすかに聞こえてきた。
何を言っているのかはわからなかったが、男の声だった。
その後、夜中の十二時ごろに、ようやく静かになった。
音はわずかに流れてくる感じで、それほど大きな音ではない。
築三十年の木造ハイツなら、その程度の生活音が聞こえてきても、なんら不思議ではなかった。
文句の言えるレベルとは、とても言えないだろう。
最大の問題は、私の部屋に音を発生させるものが、何もないことだ。
テレビ、ラジオ、CDプレイヤー、その他もろもろ。そういったものが、一つもない。
だから嫌がうえでも、隣の音がずっと聞こえてくるのだ。
南隣の201号室の女性は読書が趣味らしく、テレビや音楽などが流れてきたことは、ほとんどなかった。
まれに携帯で話していると思われる一人声が聞こえるくらいだ。
人一倍、音に敏感な私は、その静かな環境に慣れ、気に入っていたのだが、ここにきて一気に情勢が変わった。
――我慢するしかないのかな。
音が抗議できるほどの音量ではない以上、おとなしくやりすごすしかないと思われた。
おとなしくなど、したくはないのだが。
次の日も、男が帰宅した夕方より、音が聞こえてきた。
昨日と同じ、テレビと音楽だ。
何か聞いていないと落ち着かないタイプの人間なのかもしれない。
私は何か聞いていると、落ち着かなくなるのだが。
やはり零時ごろまで音は止むことなく続き、そしていつもの時間に止まった。
その次の日も、当然のように雑音が耳に届いた。
耳がなんだかむずむずする、軽い頭痛を覚えはじめた。
――くそっ、どうしよう。
どうすることも出来ない。
いっそのこと、誰が聞いても迷惑なほどの大音量を上げてくれれば、文句の一つも言えようが、残念なことにそうではないのだ。
普通の人なら、なんなくやり過ごすことができる程度の少音。
それほど気にしているのは、それは私であるからに他ならない。
また聞こえてきた。
当たり前と言えば当たり前なのだが。
――くっそ、どうしてやろうか。
殺意を覚えた。
もちろん、すぐさま隣の部屋に踏み込んで、男を殺したりはしないが。
――だいたい、あいつ。
越してきたというのに、隣に住んでいるこの私に、いまだに何のあいさつもない。
非常識もはなはだしい。
これほど私を悩ましているにもかかわらず、私はまだ一度もあの男の顔を見たことがないのだから。
また聞こえてきた。
決まって夕方六時からだ。
まるで計ったかのように。
最初はただの偶然かと思ったが、もはやそうではない。
仕事から帰ってきたのだろうか。
仕事が終わる時間、通勤時間などがあるが、それが変化することはないのだろうか。
考えられることは、まずこのハイツは最寄りの駅が近い。
徒歩で四、五分といったところか。
同じ時間に仕事が終わり、同じ電車で帰宅し、そしてまっすぐここに帰ってくるのならば、それも有りえるかもしれない。
また聞こえてきた。
今日は音楽からだ。
よほど騒音が好きらしい。
私は大嫌いだ。
それは死ぬほどに、と言っていいくらいに。
今日は朝から聞こえてきた。
仕事が休みなのだろうか。
窓から時計を見ると、七時半だった。
私は時計を持たないが、ハイツの向かいにある大学の講堂に、いわゆる時計台と言うものがあり、建物に不釣合いなほど大きな時計があるのだ。
筋金入りのアナログ時計だが、昔からの習慣で学生のためにこまめに時間を合わせている、と聞いたことがある。
だから時計の示す時間は正確なのだろう。
――それにしても。
このいまいましい音を、今日は一日中聞いていなければならないのだろうか。
冗談じゃない。
そんなことになれば、ずっとおとなしくしている自信が、私にはない。
考えていると、不意に音が止んだ。
――どうしたんだろう?
しばらく聞き耳をたてていたが、それからは咳払い一つ聞こえてこなかった。
たしか今日は土曜日だ。
どうやらどこかに遊びに行ったらしい。
――ふう、助かったぜ。
心の底からそう思った。
男は二十時ごろ帰ってきた。
そして、いつものように騒音を垂れ流し、いつもの時間に静かになった。
今日は日曜日だ。
朝から、いや昨夜から不安があったが、その不安がものの見事に適中した。
永遠に終わることがないのでは、と思うほどの音の洪水。
他人が聞いたら洪水なんてものではなく、かすかに漏れてくる微音ぐらいにしか思わないだろうが、私にとっては心底神経を逆なでする奇音だ。
まったくもって腹立たしい。
耳鳴りや頭痛を覚えた。
それがだんだん激しくなっていくのだ。
もちろん我慢した。
そうする以外に方法がないのだから。
しかし人間、我慢にも限界というものがある。
我慢しなければいけないのだから我慢しなさい、と言われて、はいそうですか、というわけにはいかないのだ。
幾度、隣のあいつのところに怒鳴り込んでやろうと思ったことか。
いや正確には、怒鳴り込むのではなく、殺してやろうと思っていたのだ、私は。
その度に踏みとどまり、一分が何十分にも思える中、一日中自分の部屋から出なかった。
そして零時ごろ、ようやく静かになった。
よかった。
あと数分あれが続いていたら、わたしはどうなっていたかわからない。
次の日、私は考えに考えて、ハイツの管理会社に行くことにした。
幸いなことに、管理会社まで歩いても、そう遠くはない。
管理会社に行く理由はただ一つ。
抗議だ。
「隣の部屋の音がうるさすぎて、自分の部屋でゆっくり過ごすことができません」とかなんとか。
もちろん、あの音がそれほど大きくないことは、わかっている。
テレビの音は壁際まで行って耳に全神経を集中させたとしても、なにかしゃべっていることはわかるが、その内容までは聞き取れない。
音楽も同じだ。
歌のない曲もあるが、たとえ歌のある曲だったとしても、その詞の内容まではわからない。
ひょっとしたら日本語の歌ではないのかもしれないが、それすら判別がつかないのだ。
ようするに、その程度だということだ。
それでも「隣の人があなたの出す音で迷惑をしています」と管理会社に言わせれば、あいつも少しは音量などを下げてくれるかもしれない。
そうなれば、私の苦痛や苦悩、耳鳴りや頭痛が軽減することだろう。
管理会社に着き、受付で話をすると、奥から担当者という者が出てきた。
「どういったご用件でしょうか」
「実は、お宅が管理している裏野ハイツの二階に住んでいる者ですが、最近、隣に越してきた男が、いつも騒音をたてているんです。おかげでこっちは、自分の部屋でくつろぐことが出来ず、おまけに耳鳴りや頭痛までするしまつなんです。どうかもう少し静かにするように、おたくの方から言ってもらえませんかね」
私の言葉にたいして、担当者はなんの返答もよこさなかった。
ただじっと私の顔を凝視している。
――なんだあ?
しばらく待ったが、なんの進展もない。
よく聞き取れなかったのかと思い、もう一度話そうとした時に、男がようやく口を開いた。
「えっと、裏野ハイツの二階でしたね、確か」
「はい、そうですが」
「あなたお一人で、住まわれているんですね」
「そうですけど」
「で、隣の男ですか。……ですが、裏野ハイツの二階の住人は、男性が一人と女性が一人の、二人しかいませんが」
「ええっ!?」
「ですから二階に三部屋ありますけど、一部屋には男性。つまりあなたですね。もう一部屋には女性が住んでいて、残りの一部屋は空き部屋になっています」
「ええっ!?」
男はとても嘘をついているようには見えなかった。
帰り道、歩きながら考えた。
裏野ハイツの二階には、二人しか住人がいないと言う。
が、現に私を含めて三人いるのだ。
空き部屋など、ない。
――ひょっとしたら。
誰かが大家や管理会社の許可なく、勝手に住みついているのだろうか?
いやいや、いくらなんでもそれはありえない。
あの男が来て数日経つ。
普通に生活し、テレビ見て音楽を聴いている。
それで誰も気づかないわけがない。
どういうことだ。
――だとすると。
思い悩む私に、ある考えが浮かんできた。
それは突拍子もないものだったが、わたしにはなぜかそれが真実のように思えてきた。
人が住んでいるはずの部屋から聞こえてくる音。
しかもまわりの反応からして、その音は私にしか聞こえていない。
そして一度も顔を見せることのない男。
つまりはそういうことか。
――生きた人間ではない。
幽霊。
生前の生活音を出す亡霊がいるという話を、どこかで聞いたことがある。
その昔の記憶が、私の脳裏に浮かんできた。
――いや、まさかね。
と否定してみても、理屈では否定しているが、感情が完全に肯定している。
人間、理屈よりも感情の方が強い。
私の頭の中では「隣の住人は幽霊」ということが、確定事項となりつつあった。
今日も夕方六時、音が聞こえてきた。
最初は男がなにかを一人でしゃべっている声。
昨日までは携帯で誰かと話をしているのだと思っていたが、あれがもし生きている人間の声ではないとしたら、いわゆる独り言か。
怖くないことはないのだが、耐え切れないほどの恐怖ではなかった。
そしてその少しの恐怖が、男の出す音にたいする憎しみや怒りを、若干薄めていた。
自分でも想像していなかった心境だ。
不思議ですらある。
その日は昨日までと同様にテレビ、音楽、と流れてきた後、零時ごろに消えた。
今日も隣から聞こえてくるさまざまな騒音。
たまに声。
いつもの時間に始まり、いつもの時間に終わる。
音が聞こえなくなった時、私は気づいた。
昨日に比べて隣の幽霊にたいする恐怖心がわずかばかりだが少なくなっていることに。
そしてそれに伴って、男にたいする怒りがその分増していることに。
数日間、同じ状態が続いた。
つまり毎日恐怖心が減ってゆき、それに比例して男に対する怒りや憎しみが増えていく。
もう男が生きた人間だと思っていた時の心境に、かなり近づいてきた。
「隣の住人は幽霊」という確定事項に変化はないにもかかわらず。
そして、考えたくもないことだが、明日は土曜日なのだ。
土曜日。
予想通り朝から雑音が耳に響く。
それはお昼を過ぎても、夕方近くになっても、一向にかわらない。
あいつは、土日はどこかに外出しないかぎりは、あの部屋で一日中騒音をまき散らしているのだ。
幽霊であるにもかかわらず、まるで生きた人間のようにふるまっている。
よほど生きていた時の習慣にしがみついているようだ。
いや習慣のほうに、しがみつかれていると言うべきか。
やがて夜がやってきた。
私は自分を抑える自身を、完全に失っていた。
今すぐというわけではないが、我慢も限界を超えることだろう。
それもごく近いうちに。
音が止み、日付が変わっても、私は考え続けていた。
明日は日曜日だ。
私は明日がとてつもなく不安であり、同時に猛烈に楽しみだった。
朝から続く、音、音、音、音、音。
今日は外出しないのか。
一日中部屋にいるのか。
そして、ずっとまとわりつき、私の神経を逆なでする騒音をまき散らし続けるのか。
午前九時十七分。我慢した。
午前九時四十一分。とにかく、こらえた。
午前十時六分。必死で抑えた。
午前十時三十二分。気も狂わんばかりの中、耐えた。
午前十時五十五分。あいつ、まだ外出しないのか。
午前十一時二分。もう……もう限界が近い。
午前十一時三分。切れた。
ぷつりと。
私の中のなにかが、完全に。
同時に、ある考えが浮かんできた。
それも強烈に。
――あいつは幽霊なんかじゃない。
幽霊が、土日以外は夕方まで不在。
そして土日は朝から晩まで、絶え間なく騒音を垂れ流し続けるとは。
いくらなんでも考えにくい。
そしてその音も、幽霊らしい何かをたたく音、もしくは足音、あるいは泣き声や呻き声などではない。
テレビの音、音楽、そして携帯で話しているのであろう一方だけ聞こえる会話らしきもの。
なにからなにまで幽霊らしくない。
まるで、と言うよりまるきし生きた人間だ。
――許さん!
もう押さえはきかない。
抑える気などまったくないが。
私は部屋を飛び出した。
203号室に入ると、男はテレビを見ている最中だった。
その後姿は、二十代に見えるごく普通の男。
その他大勢の一人。
見ているのは情報番組のようだ。
男が私に気づき、振り返った。
「えっ! おまえ誰だ?」
私は迷わず言った。
「殺す」
「えっ?」
その時、私の視界が真っ暗になった。
――?
しばらくすると、再び目が見えるようになった。
目の前に、男が浮いていた。
比喩ではない。
床に寝転がっているような姿勢のまま、空中で停止していたのである。
――なんだ、これは?
が、次の瞬間、男はその体勢のまま頭を先にして、入り口のドアに向けてとてつもないスピードで飛んでいった。
ガン!
予想以上の大きな音がした。
おそるおそる近づいてみると、ドアは廊下に吹っ飛び、男がその傍らに倒れていた。
首がありえない角度に曲がり、頭から大量の血を流し続けている。
どう見ても完全に死んでいた。
その時、201号室のドアが開き、なかから女性が出てきた。
知っている。
そこの住人だ。
女は倒れた男を見て、最初に大きなしゃっくりのような変な声を上げたが、次にはそれこそ絹を余裕で裂くような悲鳴を上げた。
ハイツどころか、近所じゅうに響き渡る大音量で。
――やばい。
逃げなくては。
私は逃げようとした。
ところが私の目の前が、また真っ暗になった。
気がつくとハイツの前にいた。
パトカーが二台ほど停まっている。
警察関係者と思われる男たちがその場にいた。
立ち入り禁止のテープが、ハイツの前を横断していた。
まわりはご近所のご婦人たちを中心に、野次馬の山。
夏休みのせいか、子供の姿も多い。
そんな中、私のすぐ後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「またですか」
振り返ると、大家とつい先日会ったばかりの管理会社の男がいた。
大家が言った。
「そう、またですよ。ほんと困ったもんです」
それに管理会社の男が答える。
二人とも、私なぞ存在していないかのような態度だ。
「ちょっと前にあったばかりですものね。それも今回は殺人。前回よりもひどい。で、前回は確か自殺でしたよね。202号室で。ほら……なんて人でしたっけ」
「あなた担当者なのに、そんなことも知らないんですか」
「いや、知っているでしょう。私はつい数日前にこの地区の担当になったばかりですので」
「まったくもう。水谷真一という人ですよ」
私は驚いた。
水谷真一というのは、私の名前なのだから。
終