浦里
和食をテーマに書こうとしたら、なんか全く別のものが出てきました。
ちなみに、作中のテーマと現代をつなげてどうこうという気持ちは全くありません。
といっても、大した文章は書けていないのですが……
1.
「例いィ、この身がぁ、淡雪のぉ」
窓の外を、掠れるような声が通り過ぎていく。
大川に面した障子に掛かった月光の下を、新内流しが船で下っていくのだ。
それを聞くでもなく耳に流しながら、男は寝転がっていた布団からゆっくりと身を起こした。
目覚めた直後だからか、その目は暗い穴のようだ。
周囲を見ているようで、その瞳には何も映ってはいない。
やがて、かさかさの唇が動き、這いずるような声が漏れ出でた。
「……もう夜、か」
「そうね、今日も丸一日寝ていたからね」
男に答えたのは、隣で箒を使っていた女だ。
地味な着流しに羽織をつけ、無感動な目を座り込む男に向けている。
「フン」
女に返ったのは、鼻を鳴らした男の吐息だけ。
そんな失礼な対応にもかかわらず、女はいささかも乱れない冷たい口調で、火鉢の灰をかき回す。
「妓楼に揚がっても女に手も触れず、朝から晩まで眠るだけ。
……変わった客ね。 まあ、女郎としちゃ疲れなくていいけど」
「……なら黙っていろよ」
今度は女が鼻を鳴らす番だった。
そのまま、俺を見もせずに膳の用意をしていく。
事前に茶屋から取り寄せたのだろう。
椀物に鯛の刺身、葱の酢味噌和え、白米。 昨今のブームを受けてか、分厚い豚肉を揚げたカツレツからは、ラードのよい匂いが漂っていた。
「はい、寝てばかりだとおなかが空くでしょう。 これでも飲んで、腹の虫を抑えなよ」
最後に、燗のついた酒をとくとくと銚子に注ぐ。
差し出された杯を手に取り、男は表情をいささかも変えないままに口に運んだ。
「……いい酒だ」
「ちょっとは食べてからにしたほうがいいよ」
「うるさい」
男の手が早まる。
カチカチと熾火の立つ音が聞こえ始めると、男はためらいもなくその火に手を伸ばした。
まだ若い彼には不似合いな、舶来の紙巻煙草に火が移り、
部屋の中を甘い煙が漂い流れた。
男も女も、何も喋らない。
ただ、煙草と酒の香りだけが、言葉にならない何かを語り続けている。
「……俺は学生だったんだ」
やがて。
男が口を開いたのは、銚子の酒がなくなってしばらく経ってからのことだった。
2.
「俺の村から大学に行ったのは俺が初めてで。
庄屋の徳次郎さんや、五郎叔父、村中から期待されて。 将来は村に戻って、収穫を少しでも上げようと思っていたんだ」
憎しみを限りなく込めたような、男の声が響く。
窓の外を、別の新内流しであろうか、朗々とした声で遊女の悲哀を歌っていた。
「初めての帝都は楽しかった。 田舎者だと馬鹿にされもしたけど、将来のことを思えば苦労にもならなかった。
吉原にも行ったし、浅草の新十二階の跡地にも行ってみた。
目白の学習院には、見たこともないほどにハイカラな美人がいたけど、どこかのお殿様の姫様だったんだろう。
俺の田舎は野暮ったい、封建の昔から変わらないような場所だ。
戻ったら、少しでも帝都のような文化を伝えたいと思っていた」
男は、女が相槌を打たないにもかかわらず一人で話し続けた。
「……召集令状が、来たんだ」
「……あんた、学生さんじゃなかったの?」
「勅令第775号。 文科系の高等諸学校に在学する学生は、これの徴兵猶予を臨時に解く、とさ。
この国は終わりか、その一歩手前だ。 将来の帝国を支えるべきインテリゲンチアを、戦場に送って使いつぶすつもりなんだから」
男は一気にいうと、手にした空の盃を勢いよく呷る。
その口に流れたのは、冷えた酒がほんの一滴。
「……酒」
突き出された杯に酒を満たし、女――遊女はしんみりと答えた。
「出陣はいつになるんだい」
「明日」
切り捨てるようなその一言は、まるで自分への断罪のようであり。
耐え忍ぶべき痛みに耐える、異国の修道僧の声のようでもあった。
「明日、俺は一兵卒として外地に行く。
学んだことを生かすこともなく、親に先立つ悲しみだけを残して、俺は外地の土になる。
あるいは宿営の便所で首に縄をかけるか。
国を愛するならば当然だと人は言う。
昨今の軟弱な若者に、武道精神を叩き込むべきだ、とジジイどもは言う。
戦場で鬼畜米英どもを討ち果たし、古の武将のように武功を上げるんだと同輩は言う。
……だがな、俺は生きて帰りたい。
生きて帰って、苦しんで学んだことを祖国のために生かしたい。
うまい飯を食って、女を抱いて、嫁をもらって子供を作って、家を栄えさせてから死にたい。
俺は百姓の子だ。
人の飯を作るのが先祖代々の天職だ。
百姓の子に、武士になって人を殺した手で飯を食えとは……これは辛いぜ」
最後は吐き捨てるように言うと、男はいま気が付いたように、冷えた膳に手を伸ばした。
「……すまんな。 激した。
せっかくの飯だ。 昨今、段々景気も悪くなっている中、飯を残せば失礼にあたる。
いただくよ」
「ちょいと、待ちな」
その手を抑え、女はすっと立ち上がった。
「夜にはちょいと不似合いだけど、せっかくだから煙草を吸って待っていておくれでないか」
「なんだ?」
女はそれに答えず、部屋を出ていく。
四半刻ほど経っただろうか。
女が戻ってきたとき、その手には小さな小皿があった。
「……それは?」
「あたしたちよりずっと昔、江戸のころの女郎はね、馴染みの客が朝に帰るとき、これを作って出したんだってさ。
簡単なものだよ。 ほら、これ」
そう言って出した女の手には、丹念にすりつぶされた赤い果肉が載せてある。
「梅干しか」
「そう。 これと大根おろしを合えてね。 そこに大葉をちぎって混ぜる」
小皿の中で、さらさらと赤と白の菜がまじりあい、それに緑がおずおずと寄っていく。
女はそれに、少しの鰹節をふりかけ、最後に醤油をちらりと垂らした。
小さな皿に載せられた、本当に質素な料理とも呼べないような料理。
不思議そうに眺める男に、女は苦笑して皿を手渡す。
「女郎に、堅気の女房の真似はできやしない。 昔の岡場所(非公認の遊郭)じゃ、客にいちいち炊き立ての飯を作ってやれるわけでもない。
だから、ちょっとしたこんなもので小腹を満たしてあげたのさ。
まあ食べなよ」
おずおずと伸ばされた箸、その先が男の口に入る。
やがて、ゆっくりと息を吐くように、男は一言呟いた。
「……うまい」
一口、二口。
男の食べる速さは変わらない。
ほんのわずかなそれを、全身で味わうかのように。
やがて食べ終えた男は、静かに両手を合わせると、空の小皿に深々と一礼した。
そのまま見上げて、問いかける。
「……この料理に、名前はあるのか?」
「あるよ」
女は照れたようにそっぽを向いて言った。
「浦里、って言うんだ」
「『河竹の流るる身をもせきとめて 二世の契りを結ぶうれしさ』……か。 江戸の遊女は風流だな」
男がつぶやいたのは、江戸時代に男と心中したことで有名になった、浦里の名を持つ太夫の歌だった。
その名を冠したこの料理に、死せる浦里と同じ気持ちを込めた遊女もまた、いたのだろう。
遊女とは、言ってしまえば売春婦である。
男に金で買われ、春を鬻ぐ、それだけの存在だ。
だが、そうであればこそ、仮初であっても恋人と一緒にいると思いたい、
そんな気持ちが、多くの遊女に浦里を作らせたのだろうか。
「二世の契り……か」
男がぽつりと呟いた。
おそらくは遠からず死ぬであろう目の前の男に、女が小さく笑う。
「……本当はね。 夜にやることをやってから、後朝の別れの前に出すものなんだ。
今日はもう兄さんも寝るんだろう?
……明日の朝には出さないから、今度帰ったらまたおいでな。
その時はきちんと朝に出してあげるからね」
男の顔がはっと上がる。
その、幼いといってもいい表情が、小さく歪み、目の端に涙が浮かんで―ー
――だが、男はじっとこらえて、顔を俯かせた。
ああ、そうする。
本当に小さな声がそう漏れるのを、女もまたじっと見つめていた。
結局、朝になるまで、二人は一言も言葉を交わさなかった。
昭和十八年、十月も暮れる頃のことだった。
3.
一年余りが過ぎた。
去ること七十年前、近代国家として産声を上げた小さな帝国は、今、苦悶に満ちた断末魔を叫びながら、のたうち回っている。
その死への旅路がそう長くないことを、この国の誰もが悟り、そして諦めつつあった。
極東の帝国は世論に押されて道を誤ったのだ。
いや、災害や戦争による借金を考えると、誤るべくして誤ったのかもしれない。
一年半前、出征するある学生を見送ったその女は、なんともやるせない気持ちで頭上遥かに輝く『敵』を見上げていた。
足元には、かつては彼女の楼主だった炭素と生肉の塊が転がり、周囲に香ばしい匂いを立ち込めさせている。
自分も遠からずそうなることを、崩れた木材に挟まれた足がもたらす激痛の中で、女はしっかりと理解していた。
「いたた……脛の骨が折れてるね」
「姐さん! 私が抱えていくから!」
「やめなよ。 共倒れがオチさね」
自分を引っ張り出そうとする禿(遊女見習い)の少女に手を振って、
女は脂汗を悟られないよう、つとめて平静な口調で告げた。
「ここにいつまでもいるんじゃないよ。 火の規模が段違いなんだ。 それにこれは油の火だね。
川に行くんじゃない。 コンクリートの建物に近い、火の気のない天水桶に隠れるんだ。
運が良ければ、あんたは生き残る」
「でも、姐さんは!」
「……! ……もし、生き残って」
折れた足に火が付いた。
先ほどまでに層倍する激痛の中で、女はゆっくりと言った。
「あたしを二十歳がらみの学生さんが訪ねてきたら、あたしの代わりに浦里を出してあげておくれ。
そして、伝えるんだよ。 もしその気があるなら、百年後に浦里の歌を歌って待っています、ってね」
じゃあね。
それだけを言って禿の少女を去らせて後、女はゆっくりと全身に火を回らせながら、最後に口を開く。
「八百屋お七じゃないけれど、思えば仕方もないことさ」
揚巻に結い上げていた髪はほどけて燃え落ち、かつて多くの男を魅了した体も今は火ぶくれと焦げ付きで見る影もない。
眼球が熱に耐えられなかったのか、痛みとともに視界がぼやける。
轟轟と燃え盛る炎の中で、それでも女はかすかに微笑んだ。
「河竹の、流るる身をもせきとめて……かあ。
そういえばあの学生さんの名前を聞きそびれたね。 あたしも名前を言ってなかったし。
これじゃ、二世の契りなんてのは無理かもねえ……」
最期の呟きを崩れた木材が吹き消し、女の意識はゆっくりと沈んでいった。
昭和三十年。
その男が過酷なシベリアでの抑留を終え、共産主義者とロシア人へのすさまじい憎しみと共に戻ったとき、かつて彼が出征する前に行った遊郭があった場所は、バラックの群れで場所さえ分からなくなっていた。
彼は伝手を辿って、名も知らぬ女郎の行方を捜したが、ついに見つけることはできなかったという。
ただ、男は後に結婚してからは妻に、老いてからは娘や孫たちに、たまさかに大根おろしと梅干の和え物を作らせては、晩年までしみじみと食べていたという。
作中に出てくる『浦里』は、池波正太郎氏のエッセイにも出てくる、廓料理です。
名前は風流ですが作り方は簡単で、極端な話練梅と削り節のパックと、大根少々と醤油があれば出来ます。
酒のつまみとしても乙なものですが、二日酔いの休日の朝などに食べるとなおさらさっぱりしますねえ。