星空の下、時を繋いで 6
まず反応したのは窓辺にいた皇王や皇太子達だった。
「何事だ!?」
「姫様、こちらへ。離れていると油断なさいますな」
開け放されていた窓辺に最も近い位置にいたシェランは、有無を言う隙を与えられず父皇太子の背後に回された。
その間に、今度は水柱が上がる。ここで室内で騒いでいた青年達や女性達も対岸の変化に気付いた。
「リダー、何事なの」
「ユーリ」
緊張と恐怖ではなく、楽しい時間を邪魔されたという不快感の方が強いらしい。皇妃は怯えよりも非難が篭もった表情だった。
「シェラン、こちらへいらっしゃい。……ねえリダー、貴方、結局あの祠の封印とやら、補強なり修復なりしたの? 位置的に例の祠の辺りだと思うのだけれど」
「え? あ、いや、それはだな――」
「休みにかまけてすっかり忘れていました。申し訳ありません、母上」
途端に言動が怪しくなった皇王を尻目に、皇太子は潔く非を認めた。全くもう、と皇妃は呆れを含んで呟く。
「しかし妙ですね。封じの結界を破って出てきたしては、水霊の方に勢いがあり過ぎませんか」
ジェレストールが顎に手を添えて誰にともなく聞く。言われてみれば、と大人達は顔を見合わせた。
「封印を破って出てきたことでかなり消耗しているはず……」
「火霊と一戦交えられる霊力など残っているものでしょうか」
年長者達は何やら悠長に議論し始めたが、歳若い者達は今一つ事情が飲み込めていない。イルヴァースが代表して尋ねる。
「妃陛下、差し支えなければご説明願えますか」
「あら、貴方達はまだ知らないのね。元々ここの水霊は人を見ると湖に引き込んで溺死させたり、死なせはしないけれど水を使った幻術で惑わせたりする問題児だったらしいわ。それで周辺の土地ごと献上されたのが……いつだったかしら、七百年くらい前?」
皇妃のすぐ傍で聞いていたシェランは、それは献上ではなく厄介事の押し付けではないかと思ったが、黙っておいた。
「最初は当時の皇王陛下も精霊を宥めようとなさったのだけれど、きっと反抗期だったのねぇ。どうしても言うことを聞かない子だったらしくて、結局祠を建てて、また少し離れていたところで暴れていた火霊と一緒に封じ込めることで力を相殺させて眠らせていたのよ」
反発するモノ同士を同じ空間に置けば、生存するだけで消耗する。それを狙ったらしい。
「でも永遠に続く結界なんていくらわたくし達でも張れないでしょう? 執政官から連絡を受けて、どうせならついでに結界の修復をしようという話になって、ここに来ることになったのよ。全く、最初に来た日にさっさとやっておかないからこんなことになるのよ、リダー」
最後の一言を夫に向けて冷たく言い放った皇妃である。だが皇王はそれより気にかかることがあるようだった。
「……おい、ファース。ルークも。これは……」
「何ですか、父上。自分が悪いんでしょうが――……ん?」
「どうされました、従兄上」
「いや、ギル。ちょっと」
「ファース? どうしたんですか」
皇王、皇太子、ヴィライオルド公爵、ライシュタット卿、ヴィランド公爵が集まって何やら相談し始めた――かと思うと。
「……シェラン。ちょっと来なさい」
父に手招きされたシェランはびくっと肩を震わせた。こんな大事に繋がるような疚しいことなど身に覚えがない。しかし逆らえない気配を感じて、足早に父へ近付いた。
皇太子は単刀直入に娘に問うた。
「お前、結界に触っただろう」
その響きは、問いというより確認とする方が正しい。ほとんど断定であった。
「何かの拍子に小さな穴でも開けませんでしたかな、皇女」
重ねてギルトラントに問われ、シェランは観念してこくりと小さく頷いた。それを見て、大人五人は盛大に嘆息した。
「どうします? 従兄上」
「まあ元々張り直す予定だったからな……」
「結界自体も何百年も前から張りっ放しでしたしねぇ」
「皇女殿下を責めるのは筋違いというものでしょう」
笑い混じりに話す横では、ついに空に雲が沸き立ち雨が降り始めていた。それに対抗するように時折巨大な火柱が上がり、雲を一瞬貫く。森が火事になるのではないかと思われる勢いだったが、それを掻き消して余りある勢いの雨だった。
「シェランティエーラ、お前、他にも何か余計なことをしなかったか」
その様子を眺めていた皇王が、ふと思いついたように質問を重ねた。が、シェランとしては思いつかない。
「あんまり結界がぼろぼろだったからちょっと触って、その時にびりって指が貫通しましたけど。それ以外は特に思い当たらないです」
「……何故すぐに言わない」
「ファース、怒るなって。まあ、あれだけ古ければ好奇心で触ってみたくもなりますよ。ね」
眉間に皺を寄せた父に、勘気を買ってしまったのかとシェランは身を竦ませた。その背をジェレストールがさする。
「別に怒っているわけではない。だが水霊の勢いが異常だ。霊力の波動の中にシェランの神気も混じっている」
「怒ってないなら、ファース、その刺々しい顔と神気をどうにかしろ――って、姫様、泣かなくてもいいんですよ。ただあれだけ精霊の霊力に貴女の神気が混じっているものですから」
父皇太子から放たれる険しい神気に当てられて、シェランは完全に恐怖に身を竦ませていた。両の目からは彼女の意思に反し、一粒二粒と涙が零れ落ちる。何か言わなければならないと思うのに、喉は凍りついて一言も発することができなかった。
その様子を見て皇太子もぎょっとした。彼とて可愛い娘を泣かせるなど全く本意ではなかった。
「シェラン、泣き止みなさい。私は怒っては――」
「あの顔で怒ってなかったなんてどの口が言うんです。可哀想に」
その背後では若い騎士達が頭を寄せ合って何やらこそこそ話し合っていた。
「もしかして、あれ?」
「あのときに?」
「いやでも、まさかそんな」
「だってシェラン様は精霊をきちんと使役したことがないでしょう? ご存知なくても無理はないわ」
「本人に訊くのが一番早いだろ。姫君、ちょっと確認なんですが――って、え、何で泣いてるんですか!?」
輪から離れたアストリッドは、皇女を見てこれまたぎょっとした。ジェレストールが端的に状況を教える。
「ファースが泣かせた。父親の癖に」
「いや、それは」
珍しく狼狽した皇太子である。しかし貴重な機会にも関わらず、誰もそれには構わなかった。
「姫君、泣かないで……。この四日間、小さい水霊と遊んでたでしょう。あれ、何を話していたんですか?」
「……い」
「え?」
シェランはアストリッドをねめつけた。しかし潤んだ上目遣いだったので、彼女が望む効果はあまりない。
「……泣いてない。あの子は、力を取り戻すために歌が聞きたいって言うから、私が知ってる歌を歌ってあげてただけ」
沈黙が、その場を支配した。
あーとかうーとか意味を成さない声があちこちで上がる。
最初に耐え切れなくなったのはイルヴァースだった。
「くっ……ちょ――水霊に歌とか、一番やっちゃいけないことじゃないですか!」
そのまま体をくの字に折って大笑いし始めた。それは彼だけに留まらず、他の者にも伝播していく。皇王も皇妃も苦笑いだ。シェランは何故そこで笑いが入るのか全くわからず、説明を求めて辺りを見回した。
「いえ――その、そうですね。皇女殿下はご存知ありませんでしたね」
「……何を?」
取り合えず座って、と促され、手近な椅子に腰を下ろしたシェランである。ジェレストールがその前に膝をついて目線を合わせた。
「ひとまず、お体に障りはありませんか。体が怠いとか、気分が少し優れないとか」
「……ありません」
「ならば良うございました。それでですね……どこから話したものか。皇女殿下、ご自分と契約していない水霊に対して歌は禁忌とお心得下さい」
首を傾げたシェランに、ジェレストールは説明を続ける。
「自然界から霊気を得て神気に変換する方法はご存知ですね。我々がそれを行えるのと同様に、ある程度力のある精霊達は逆のことができるのです。ただその場合、何らかの媒介が必要でして。水霊は音楽との親和性が強いため、音を通してそれを行います。とり分けても歌は、力を得るための『道』を作りやすい。その者の力や性質がよく出ますから」
シェランは顔から血の気が引くのがわかった。――あのときの眩暈は、おそらくそれが原因だ。
「それって……」
「はい。つまり、あの水霊は歌を通して貴女の神気を吸い取って糧にしていたんです。その逆のことをしてやればいいんですよ。元々貴女のものですから、要領が分かれば簡単です。最初は補助します。ですからそんなに深刻にお考えにならずとも大丈夫です」
そこへギルトラントが補足を入れる。
「神気を供給しやったことはさておき、『道』がまだ開いたままならどうにかして閉じねば、あの水霊に対して行う術の効果が皇女にも波及しますからな。さっさと断ち切るなり取り戻すなりして頂ければ、我々としても後の対処が楽なのですが」
皇女の神気によって本来以上の力を得て暴れている精霊だが、そもそも吸い取る『容量』に限界がある。普通の精霊の力や『容量』など知れているし、このまま攻撃なり封印なりすること自体には、力関係に限って言えば全く問題ない。一貴族に過ぎないライゼルト達でもできる。
しかし精霊が神気を吸い取るために開いた『道』が健在ならば、その『道』を通って術の効果が皇女へ逆行する。彼女の神力から考えて、それ自体は跳ね除けるなり打ち消すなりできるだろうが、問題は『道』で繋がった精霊もその恩恵に与あずかれることだ。要するに今、水霊と皇女シェランティエーラは一心同体の状態なのである。
沸き立つ湖、荒れ狂う空を見て、シェランは早々に――この表現は大袈裟だが――決断を下した。
「取られた神気って、どうやって戻せばいいの?」
得たりとばかりにジェレストールが微笑んだ。
「簡単ですよ。もう一度歌えばよろしいのです。できれば、同じ歌を」
……シェランは唾を飲み込んだ。
「…………同じ歌?」
「はい。何か問題でも?」
「いえ、はい、あの、ええと」
「皇女。肯定するのか否定するのかどちらかになされよ」
ギルトラントが面倒くさそうに言う。実際、彼としてはどちらでもいい。少し複雑な手順を踏むが、『道』を閉じる方法は他にいくらでもある。
一方のシェランは、非常に迷っていた。あの精霊に歌って聞かせていたのは異世界の歌だ。歌詞はエリミオン語に訳してはみたものの、様式からしてまるでヴィーフィルドの音楽とは違う。それを同胞達に聞かせて良いものか。
しかし、思わぬところから決定打が打たれた。
「どうしたの、シェラン。伴奏がないと歌えないなら、わたくしとリィスとキティで一曲だけなら弾いてあげられるわよ。ここのところずっと貴女が弾いていた曲」
ねえ、と皇妃は名前を挙げた二人に声をかけた。先代ヴィランド公爵夫人リィスティーアとヴィルフォール公爵エデルガルトは笑顔で頷く。シェランは状況についていけない。
「え…………でも、あの」
「貴女が向こう岸で竪琴を練習しているとき、風霊に頼んで音が良く聞こえるようにしてもらっていたのよ。歌も歌っていたのねぇ、声が小さすぎて聞き取れなかったわ。でも素敵な曲だったから、合奏できるようにリィスに編曲してもらったのよ。異界の曲でしょう?」
荒れ狂う外の様子などどこ吹く風で、おっとりと笑う皇妃である。
「あの曲に歌詞があるなら、ぜひ教えて欲しいわ。貴女、歌うのはとても上手なのだから」
そして皇妃は、どこからともなく手にした、彼女の身長ほどもある大きな竪琴をかき鳴らした。最初の数小節を聞いて、シェランは目を見開く。記憶にあるのと同じ、美しい和音だった。
見れば、リィスティーアもエデルガルトも早々に弦楽器の、こちらはヴァイオリンに似たそれを構えて微笑んでいる。
「……でも、悲しくならない?」
思わず零れた呟きに、皇妃は首を傾げた。
「どうして?」
「だって……向こうの曲です」
「あら、そんなことを気にしていたの。いいのよ。だってあちらにいた時間も含めて、『今』のシェランなのですもの」
皇妃は一旦竪琴から離れ、孫娘へ歩み寄った。たおやかな手で小さな頬を包む。
「でもね、祖母としては可愛い孫の成長を近くで見られなかったことがとても悔しいの。だから、教えて頂戴」
――貴女が何を見てきたのか。何を聞き、何を美しいと感じ、何を経験してきたのか。『今』の貴女を形作る全てのものを。
「貴女はこの四日、必ずあの曲を奏でていたわね。きっと大好きな曲なのでしょう? 好きなものを我慢することはないわ」
「お祖母様……」
言葉もなく、シェランは祖母を見つめ返した。深い深い紫の瞳が、どこまでも優しく彼女に微笑む。
「……ほんとう、に?」
大きく頷く祖母に、シェランは抱きついた。