星空の下、時を繋いで 5
離宮滞在五日目の昼過ぎ――ヴィランド公爵ギルトラントがその姿を見たのは、単なる偶然だった。
「皇女、どちらへ?」
振り返った皇女シェランティエーラは、すっかり馴染んだ身軽な格好だった。素材や仕立てにさえ目を瞑れば、田舎によくいる少年に見える服装だ。ただし、幼しとはいえ人外の美貌がその全てを台無しにして只者ではないと語っているが、それは今はあまり問題ではない。
「あれ、団長? お父様達と釣りじゃなかったの?」
「糸が途中で切れたので、替えを取りに来ただけです。皇女はお一人ですかな」
「うん、お散歩。お城も広いけど、ちょっとここと比べるとね」
「竪琴を抱えて?」
「……う、だって、練習中の音を聞かれるのは恥ずかしいから」
シェランは小脇に抱えていた小さめの竪琴を隠すように抱きしめた。
異界へ渡る以前にも習っていたが、何しろ九年間の空白があるので指はまともに動いてくれない。それでも国内屈指の竪琴の名手と言われている(らしい)祖母皇妃の厳しい指導に耐えたためか、それなりに弾けるようになってきたところだ。もともと音感は悪くないし、地球にいる間も童謡を歌ったり、学校で合唱や合奏に取り組んだり、様々な情報媒体から音楽を聞いたりしていたから、音楽に対する馴染みはある。
今や王侯貴族の教養として音楽は欠かせない。別に世継ぎの皇女である彼女が演奏を求められることなどまずないが、それでも親しい者達が一堂に会した場で合奏でもしようという話になったとき、一人蚊帳の外では寂しいだろう。
ギルトラントとてその気持ちがわからないわけではなかったので、漠然とした不安はあったものの、注意するだけに留めておいた。
「道からあまり外れませぬよう。練習に夢中になって夕食を逃しても、文句は仰いますなよ」
「そんなことにはなりませんー。ちゃんと戻ってきて、準備から手伝うもん」
「ほお。して、今日の献立は」
「今日は丸ごとの蒸し鶏にするって。中に野菜とか詰めるやつ。今血抜きしてるところ。あと添え物も作るんじゃないかな。……何、その歳でご飯が待ち切れないとかなの」
「まさか。ただ、今のところ上々の釣果でしてな。ぜひとも夕食の足しにしたいと従兄上方とも話しているところなのですが」
「あー……お祖母様に言ってよ。殺さずに水の中で生かしておいてくれれば、明日の朝に回せるかもしれないし」
「そういたしましょう。この暑さですから、腐ったとてどこへも文句は言えません」
会話している二人は片や一国の世継ぎの皇女、片や若くして国政の一翼を担う公爵なのだが、内容は完全に主婦のものである。
「ですができれば今夜食べたいのですが。一緒にどうでしょう」
鶏もいいが魚も捨て難い、と舌なめずりしそうな勢いに、シェランは釘を刺す。
「それ決めるのは私じゃなくてお祖母様。じゃあ、また後でね」
一体どれだけ蛋白質に飢えているのだろうか。この四日間、あれだけ食べておいてまだ足りないのかと半ば呆れながら、シェランは手を振ってギルトラントと別れた。
昼食を取って休み、水遊びもした後だから、それほど暑さが鬱陶しいわけではない。だがさすがに直射日光は肌を焼くように照り付けてくるので、茂った枝葉が道に木陰を作ってくれているのはありがたかった。
目的地まで来ると、目当ての人影を見つけて、シェランは駆け寄った。
「お待たせ」
くるりと振り向いたのは、あの童女姿の小さな水霊である。シェランは竪琴を見せながら話しかけた。
「今日もね、これを持って来たの。やっぱり歌を歌うのに、伴奏がないと歌いにくいから。まだあんまりうまくないんだけど、主旋律くらいは弾けるし」
言いながら弦を幾つか爪弾いてみせる。途端に広がる豊かでありながら凛と麗しい音に、水霊は興味を惹かれたようだった。
出会ってから四日。歌によって力の回復を図っているらしいこの水霊の元へ、短い時間だが通うのがシェランの日課になりつつあった。とはいっても休暇中限定なので、残り一日しかないのだが。
「今日は何を歌おうか。昨日はこの歌だったよね……」
竪琴で昨日歌った歌の旋律を奏でると、水霊は目を細くして頷く。表情がわかりにくいが、喜んでいるようだ。
実のところ、このささやかな時間をシェラン自身も楽しんでいた。
こちらに帰ってきてから、あまり地球のことには触れないようにしていた。それは事情を知る者達の間での暗黙の了解のようなものだった。別離の時間を他のもので埋めようと――書き換えるかのように。
シェランも同胞達の反応を見て、最初から気を使っていた部分がある。自分が積極的に、あちらではああだった、こうだった、こんな楽しいことがあった――そのように語ってしまっては、あちらを惜しんでいるように取られる気がした。こちらに戻ってきたことを後悔していると、そう勘違いさせてしまいそうで怖かった。それでなくとも気が狂うほどの不安を与え続けた後だ。
懐かしくないわけではない。養女として迎えてくれた古賀家の人々には、何の挨拶もせずに来てしまったことが本当に申し訳ない。三学期の始業式の帰りでいきなり行方不明になって、どれほど心配をかけているだろうか。それでももう、自分達の手の内にあちらへ再び渡る術すべは残されていないから、想うしかない。
その想いを共有できる相手がいないのも、堪えていた。だがようやく戻ってきてくれたと喜ぶ同胞達の笑顔を曇らせるのは忍びないこともまた、シェランにとっては厳然たる事実だった。
それが思わぬ形で、あちらを偲ぶことができている。大きな声で歌っては誰かに聞かれるかもしれないから、そこまでは思い切れないが、それでも思い出を辿れるのは単純に嬉しかった。
「……きれい」
「うん、綺麗な音でしょう?」
精霊が童女の姿をしていることもあり、シェランは年下の子供と遊んであげているという久しぶりの感覚も味わっていた。精霊の方にそんな気はないだろうが、傍から見ればそう見えるという事実は変わらない。
――そんな一人と一体を、木立の隙間から見守る影が複数あった。
「いいんですかね、あれ。皇太子殿下に報告しておかなくて」
完全とはいかないが、気配を殺して皇女の後をつけて来た近衛騎士セイルードは、小道を挟んで向かい側の木に背を預けている同輩のジスカールに問いかけた。ジスカールは眉間に皺を寄せつつ、頷く。
「……今のところ、あの精霊が姫様に害を及ぼす様子はない。このまま様子見だな」
くっくと笑いを押し殺すのはミルワード卿アストリッドだ。
「それにしてもシェラン様も甘いな……完全に他には誰もいないと思い込んでるだろ」
一国の皇女、それも虎の子の総領娘が、真の意味で一人になることなど普通はありえない。陰から気付かれないよう護衛するという点では、皇女シェランティエーラは非常に警護がしやすい相手であった。何しろこちらの気配に全く気付かないのだから、撒こうとして変なことをやらかすこともない。
「何してるんでしょうね……」
「話しているみたいだが、風向きが悪いな。よく聞こえん」
しかしそれは別段重要なことではないので、彼らはあまり気にしなかった。
「ああして話してるだけだよな、この四日。昨日付いてたのは誰だって?」
「ユリスディート様とライです。その前はルヴァがマルヴィリア様を誘って、マルヴィリア様がオルトリーエ様を誘って、一緒にという話でした」
「そのときも変わりなく?」
「何か小さい声でぼそぼそ喋ってるだけで、特に何かあるというわけではなかったようです」
「何事もないならそれでいいが。……あれ、そういえばソールは? あいつがいないわけないだろう」
アストリッドがわざとらしく周囲を見回す。セイルードは苦笑しながら皇女を挟んで向かい側の木立を指した。
「ソールは向こうで個別に張り付いてるみたいですよ。ほら、あそこ」
「…………近くないか? 何であれだけ近くて姫君は気付かないんだ?」
「それだけ夢中なんじゃないですかね。あの小さい友達とのおしゃべりに」
「……そうか……不憫な奴……」
アストリッドは、今度は演技ではなく本当に、そっと目頭を押さえた。
日が落ち始めたのを肌で感じて、シェランは竪琴を奏でる手を止めた。水霊が不思議そうに見上げてくる。
「ごめんね。もう帰らなくちゃ。力の方はどう? 戻ってきた?」
水霊はこてんと首を傾げる。
「……ちから、ある。もらった」
「もう大丈夫?」
「もらった、ある」
……今一、会話が成り立っているのかいないのか判別しかねるが、差し当たり問題はないところまで落ち着いたのだろうとシェランは判断した。
「じゃ、今日はもう帰るね。明日の昼にはここを出るから、もう会えないと思うけど、でも元気になったなら良かった」
ばいばい、と手を振ると、精霊は手を振り返した。しかし恐らく意味はわかっていない。まあ精霊というのはそんなものだ。
竪琴を抱えて立ち上がると、ずっと座っていたためかくらりと眩暈がした。再び座り込むほどではなかったが、しばしその場に留まって視界の明滅が落ち着くのを待つ。
(おかしいなー……私、起立性低血圧なんて今までなかったけど)
視界が明瞭になっても若干足元が怪しかったが、まあいいかとシェランは歩き出した。
皇王が取った六日間の休暇の内、初日と最終日は移動や片付けに費やされるため、その夜が実質休暇の最後だった。
「どうだ、ルーク。やはり休暇は良かっただろう」
蒸し鶏の詰め物、新鮮な川魚を使った塩焼きやらサラダやらなど、食材だけは山の幸の限りを尽くしたと思われる夕食後、皇王は葡萄酒を片手に上機嫌であった。
対するヴィライオルド公爵ルークセイドも、満更ではなさそうだ。
「そうですね。間違いなくロイセイル殿が用意している未処理書類の山がどのくらいあるのか少々不安ではありますが、こうして人目を憚らずゆっくりと休息を取れるのはやはり良いものですね」
便乗したのは皇太子である。
「秋の祭事に向けて色々と決裁を下さなければならない時期ではありますが、父上が御自ら望まれたことですから仕方がありません。わざわざ困難な状況にご自分を追い込む姿勢は尊敬します。真似をしようとは毛頭思えませんが」
「…………」
皇王は一言も言い返さず、黙って葡萄酒を呷った。嫌味の的にされている祖父の隣に座っていたシェランは、何とかこの微妙な空気を打破しようと違う話題を提供してみる。
「それにしてもアルは結局来れなくって、残念でしたよね」
微苦笑して答えたのはライシュタット卿ジェレストールだ。
「話が纏まらなかったのですから仕方がありません。新しい関税率の適用はまだ先とのことですが、それを踏まえて商人達は売値を決めますからね。早いに越したことはありません」
「アルモリック卿がいないことで、かえって羽目を外し過ぎている者もいるようですがな」
ヴィランド公爵が見遣った先では、二十歳前後の青年達がありったけの硝子の杯を綺麗な正三角錐に積み上げ、天辺の杯から酒を流して綺麗に全ての杯が満たせるかという遊びをやっていた。途中で赤葡萄酒が足りなくなったので白葡萄酒、麦酒、蒸留麦酒、林檎酒と注ぎ足され、もはや最後に飲んで処理する気はないことが明白である。
漂ってくる酒精の匂いが鼻腔を刺激し、シェランは眉を顰めて窓の方へと身を寄せた。
「勿体無い……作った人に失礼ですね」
「そう言っておやんなさい」
「私が言うより団長が雷落とした方が早いと思う。ていうか、一滴も飲んでないのにあんなにお酒臭い集団に近寄りたくない。……あ、キティ」
さすがに見るに耐えなかったのだろう。ヴィルフォール公爵エデルガルトが空になって床に転がっていた酒瓶を一つ掴むと、容赦なく手近にいたディートハルトの頭を殴った。それで何かが吹っ切れたかのように、オルトリーエ、マルヴィリア、エアルローズも続く。非常に楽しそうに術で瓶を操ってぺしぺしとやっているのは、ギルトラントの母である先代ヴィランド公爵夫人リィスティーアだ。
「……陛下、よろしいので?」
一応、近衛騎士団長であるサリアネス侯爵が、職務上どうすべきか判断しかねたのだろう。皇王に問うた。皇王はひらりと手を振った。
「放っておけ。いつものことだ」
皇太子が頷いて続ける。
「アルトレイスがいないと大体ああなるから。構わない、落ち着くまで放っておけ」
一方のシェランはというと、母方の伯父と祖父に愚痴を零していた。
「将来あれの上司をやらなきゃいけない私って、何かすごーく運が悪い気がしてきました……」
「大丈夫ですよ。人生とは、振り返ってみればそう悪いものではありません」
「終わりよければ何とやら、ですから」
「それ慰めになってませんから」
半ば自棄になった気分で、シェランが持っていた果実水を一口飲んだときだった。
湖を挟んだ対岸から、巨大な火柱が上がった。