星空の下、時を繋いで 4
結局、青年達のお遊びは拍子抜けするほど何事もなく終わった。
「珍しいな、お前達が何も仕掛けないとは」
一周歩いて戻ってきたギルトラントなど、開口一番こう言ったくらいである。そんなに日頃から悪戯ばかりしているのかと呆れたシェランだったが、次の台詞に少しだけ企画者の二人を見直した。
「姫君があれだけ怖がってましたからね。十分かなあと」
「この上何か仕掛けたら本当に鬼でしょう。公じゃあるまいし」
「どういう意味だ」
「言葉通りの意味ですけど? 姫、聞いて下さいよ。ギルってねえ、昔やらかしてファナルシーズ様に――」
「お前……それを言ったらそれこそ従兄上に吊るされるぞ」
「ギル、襲爵してから頭固くなったよな。姫も婚約したんだし、これくらい知ってても問題ないだろ」
いきなり始まりかけた暴露話に身を乗り出しかけていたシェランだが、折良くというべきか悪しくというべきか、皇妃が呼びに来た。
「シェラン、いつまで遊んでいるの? もう寝る時間よ」
「……ええー」
盛大に不満を唱えたシェランである。
「夜更かしは、お肌にも大きくなるのにも悪くてよ」
「知ってますけど、せっかくの旅行なのに……」
修学旅行や野外活動を体験済み、そこで夜更かしも経験済みの彼女としては、物足りないの一言に尽きる。そんな彼女の心情を知ってか知らずか、皇妃はにやりとしか形容の仕様のない笑みを浮かべた。
「あら、ではわたくしはちゃんと警告しましたからね。帰ってから、女官達に荒れた肌を見られて怒られるのも、きっといい経験になるわよねぇ」
「……。……おやすみなさい、また明日ね」
背後で苦笑する同胞達に手を振って、シェランは大人しく祖母に従った。
そのときは、誰も気付かなかった。それはあまりに小さな変化で、だからこそ複数の強大過ぎる力の影に隠れて気付けなかったのだ。
離宮の対岸にある祠の中で、ぞろりと蠢くモノがあったことを。
比較的早めに寝たためか、翌朝、シェランはすっきりと目覚めた。寒い冬の朝はともかく、夏に寝台の中でじっとしていることなどできはしない。手早く膝丈の簡素なドレスに着替える。靴はもちろん皇城で使うような華奢なものではなく、靴底に丁寧になめした皮を使い、甲や踵部分は幅広の布で編み上げるようにする、見た目にも機能的にも涼しく、また歩き回ることに耐久性を持つものだ。
割り当てられた部屋を出ると、香ばしい匂いが漂っていた。もしやとシェランは厨房へ走る。
「おはよう、マリア……何してるの?」
「おはようございます、シェラン様。聞いてはいましたけれど本当にお早いのですね。見ての通り、朝食の準備ですわ。今、パンが焼き上がったところです」
国内屈指の公爵令嬢であるマルヴィリアの口から、「朝食の準備です」などという言葉を聞く日が来るとは。考えてみれば彼女も騎士なので、簡単な料理はできるのか。
(でもパンって、発酵とか結構めんどくさかったような……)
首を捻るシェランの思考を読んだのか、マルヴィリアはくすりと笑った。
「生地はそれぞれが持ち寄って来るのですわ。わたくし達で捏ねることもありますけれど、そういうときは大体失敗するのです」
「……何だ、そういうこと。私も何か手伝うよ、できることはある? 食材によっては一品増やせるかもよ」
「そうですわね……」
答えながら厨房を見渡すマルヴィリアである。腸詰めは既に火に掛けられているし、スープはほぼ完成間近。余談だが、すらりとした指を顎に当てて悩む姿はそれだけで彫刻や絵画の題材になりそうだ。
「卵とか焼こうか。目玉焼きじゃないやつ。結構得意よ?」
「あら。ではお願い致します」
至極あっさりと卵を渡され、鉄製の平たい鍋の前へ連れて行かれ、簡単に火力の調節の仕方を説明される。結構な人数がいるので、個別に焼くのではなく大きなものを数個でいいと言われた。
シェランとしてもその方が楽なので、日本で暮らしていた頃にやっていた要領で卵を溶き、塩と胡椒で簡単に味付けし、鍋に牛酪を落とす。手早く鍋を回して脂を行き渡らせ、溶いた卵を流した。特有の音と、食欲をそそる香りが広がる。
「慣れておいでですのね」
「三日に一度は作ってたからね。……オリエ、ごめん、ここちょっと集中したいから離れて」
言われた通りオルトリーエが数歩下がるのを確認し、シェランはえいっと鍋を振った。火が通り固まりつつあった卵の形が整っていく。
完全に形を整えたところで、シェランは背後に声をかけた。
「お皿、ある? ごめんね、先に確認して出しておけば良かった」
マルヴィリアが戸棚から白地に青い縁取りの皿を取り出した。
「お気になさらず。こちらですわ。……まあ、綺麗に焼けましたのね」
「ちょっと焦げたかな。中までしっかり焼いたから」
「普通の焼き色ではありませんこと? わたくしはこのくらいの方が好きです」
「そう? 半熟もできるよ。同じ数焼いて、好きな方を食べるようにしようか」
これにオルトリーエが手を叩いて反応する。
「良いですわね。わたくしは半熟の方が好きですわ」
まさかこちらに戻ってきて料理の、それも作るほうの話で盛り上がれるとは思わず、シェランは調子に乗って卵を焼き続けた。我に返ったときには八個も焼けていた。
「作りすぎたかしら……」
眉を寄せて思案するシェランを、エアルローズが笑い飛ばした。
「あら、わたくしは逆に男の子達が足りないと騒がないか心配でしてよ。まだまだ食べる年頃ですもの」
そうかしらと首を捻ったシェランだが、蓋を開けてみるとエアルローズが正解だった。
何しろ総勢三十名近い大所帯である。内、十代はシェランを含め七人、二十代は八人。シェランも良く食べる方だと自負していたが、その年代が食べる量を舐めていたと思い知らされた。
かなりの量があったはずの朝食は、一欠片も残さず平らげられた。
朝食の片付けが終わると、今日は何をしようかという話になる。特に予定を立てていたわけでもないので、その日のことはその日に決めるのだ。
「ディー。昨日言ってた、幻獣を見に行くのはだめ?」
「……ああ、そういえば。良いですよ、行きましょうか。残る人は手を挙げて――」
「貴方が残れば良いのではなくて?」
「――冗談だよ」
水辺の朝、離宮の周辺は涼しかった。昨日の夜も歩いた橋へと向かう。
湖から流れ出した水は、もう少し下流で近くのもう一本の川と合流するらしい。
「ここはそこそこ力のある水霊がいるんですよ。祠の近くの泉を見たでしょう? もし向こうの川の水量が減ったら、付近の民がまず頼るのはこの水源です」
術で空中から水を抽出するとはいっても限度がある。ヴィーフィルドではほとんど上下水道や用水路が整備されているが、それは近くの川や湖から引かれたものだ。一般の民の神力はそう高くないので、何度も術を使うとすぐに神力が枯渇してしまうという事情もある。
「その水霊、会えるかしら」
「いえ、それが我々の呼び掛けに応えたことがなくて――……姫、御手を。足元が悪いですから」
目当ての橋の手前まで来ると、橋の脇から川へ降りる。苔むして滑る岩を伝い川原へ降りると、ざわざわと風が吹いて水面が波立った。
何とはなしにその波の行方を追って下流へ目を走らせたシェランは、ぽかんと口を開けた。
「…………ビーバーのダム?」
「あれがアーヴァンクの巣ですよ」
川の流れを堰き止めるように、木の枝、時には木そのものを倒して運んだのだろう。決して狭くはない川幅を一直線に横切って茶色の線が浮かび上がっていた。
「ディートハルト様、本当にやるのですか。番がいる可能性もありますよ」
「聖騎士の称号が泣くぞ、ジスカール。あんな下等の幻獣ごときで臆してどうする」
「わたくしはジスカール殿に賛成ですわ。それでなくとも本気で怒ったアーヴァンクは厄介ですもの。気絶させるくらいしかやりようがないのだし」
遣り取りを聞いたシェランは目を瞬いた。そっと隣に立つソルディースの服の裾を引く。
「……もしかして私、すごい我が儘言っちゃった?」
「え? いや別に、アーヴァンクが見たいなんて我が儘のうちにも――」
「ほら、お前らが余計なことを言うから姫君が変に気を回す。ルヴァ、お前も来いよ。ライ達も」
ディートハルト、アストリッドに続いて、やれやれと苦笑したイルヴァースが宙に飛び上がった。ライゼルトも渋々、セイルードとジスカールは苦笑しながら。
物体浮遊の術は自身の体に作用させることで飛行に近い効果を得られるのだが、移動には適さないため、シェランは実際に使うところを見るのは初めてだった。
「こういうときに使うのね……」
「それはちょっと違うぞ、シェラン……。近くで見るか?」
「いいの?」
返事の代わりにソルディースは両腕を広げた。まだ安定して術を使うことに慣れない彼女を抱きかかえて飛ぶつもりらしい。遠慮なく甘えることにした。
ソルディースは先に宙に飛び出した六人から少し離れた後方で停止し、横抱きにした少女に水面を見るよう促す。
「出てくるぞ。あまり身を乗り出すな」
悪戯小僧そのものの顔で、ディートハルトが水面に近付く。本当に二十歳を超えているのかと問い質したくなる。
「アーヴァンクは縄張り意識が強いから、異種族でも、特に雄の気配を察知すると攻撃して――」
ソルディースが言い終わらないうちに、何か茶色い塊が水面を打って飛び出してきた。ディートハルトは声を上げて笑いながら軽やかに身をかわす。茶色の物体は再び水中に潜る。
「行ったぞ、アスト!」
「ルヴァ、そっちだ!」
シェランは神気を研ぎ澄ませて水の下を探った。高速で動き回る何かがいることは分かるが、姿を捉え切れない。もう一度水面に出てきてくれれば、神の末裔ゆえに異常に良い視力をもってして、肉眼ではっきりと捕捉できるのだが。
「もう一回だけ出てきてくれないかな……」
そう呟いた、そのときだった。
「ソール、下だ! 避けろ!」
ソルディースは既に避けていた。あまりに速かったので、シェランは何が起こったのか全く把握できなかった。ただ、放物線上に飛ぶそれの姿を見た時、子供の腕ほどもある長い爪が剥き出しにされているのを見た。
咄嗟にシェランは叫んでいた。
「殺しちゃだめ!」
「ですが」
「いいから! ――マリアとエアは!?」
「あの二人なら大丈夫だ。シェランこそ」
シェランは首を振って大丈夫、と告げた。
「ねえ、今何があったの? 野生動物だもの、外敵の侵入があったら攻撃してくるのは普通じゃない?」
「あれは雄だった。雄のアーヴァンクが、異種族とはいえ雌を攻撃することはまずない。それに今の攻撃は威嚇ではなく、明らかに殺す目的だったからな……」
「雌なら攻撃しないって……そんなに女の子が好きなの?」
「……重要なのはそこじゃないぞ」
説明をきちんと聞いていたのかと睨まれる。この至近距離で聞こえていないはずがないと胸を張ったが、返ってきたのは軽い溜め息だった。
気がつくとイルヴァースが傍に浮いていた。
「姫」
「怪我なんかしてないから、そんな顔しない。取り合えず離宮に戻ろう。アストもディーも執念深く水を掻き回してないで! 帰るよ! 見れたからもういいって!」
不承不承といった様子で陸へ戻った二人である。その近くに降り立ったセイルードが首を捻る。
「おかしいですね。子育ての季節でもないし、アーヴァンクは本来もっと大人しい性格なのですが……」
「さっきカールが言ってた、番がどうこうって話は?」
「いえ、それだともっと何と言うか、保守的な行動になるんですよ。番がいるってことは子孫を残す機会に恵まれたってことでしょう。交尾のために自分も生き残るようそこそこ考えた攻撃なんですが、あれはちょっと捨て身っぽかったですから」
何か気が立つようなことが先にあったのかもしれませんね、と彼は締め括った。シェランは腰に手を当てて心の底から真剣に言った。
「何にせよ、アル従兄様がいなくて良かったわ。下手したら湖ごと消滅させてた可能性もあるもの」
聞いていた誰もが、否定できなかった。
昼に軽食を取った後、シェランは一人で湖の散策に出た。この周辺なら一人でもよしとお許しが出たので、一人だ。
昨夜はどこから何が飛び出してくるかとびくびくしながら歩いた道も、光の量が違うだけでこれほど雰囲気が変わるのかと感嘆しながらのんびり歩いていくと、例の祠が見えてきた。
「異常なし、と」
付いてくると言い張った同胞達を振り払って一人で出てきた理由がこれだ。さすがに罪悪感があったので、もう一度様子を見に来たのである。
「お願いだから、あと四日持ち堪えてね……」
何に対してかは本人にも不明だが、取り合えず祈る。しばらく目を閉じて祈る。
目を開けてさあ帰ろうとしたとき、祠の傍の泉の縁に、ちょこんと座っている何かの姿が見えた。人にはありえない銀青の髪、虹彩などはなく均一な青に満たされた両の眼。その姿は童女。
「あなた……ここの水霊?」
こく、と童女は頷いた。
「一人だけ?」
再び童女は頷きで返す。
「初めまして、こんにちは。今、皆で遊びに来てるの。向かいの建物に皆いるんだけど、来る?」
これがディートハルト達が言っていた呼び掛けに応えないという精霊なら、連れて行った方がいいのかと思い提案するが、童女はふるふると首を左右に振った。
「怖いの? 大丈夫よ。私がいるから」
嘘ではない。自分の背後にいれば、これまでの非礼をいきなり吊るし上げられることはないだろう。
「…………歌」
「歌?」
ようやく言葉を発した水の精霊だが、要領を得ない。
「……歌。ちから。……元に戻れる。歌、ほしい」
「何、あなた弱ってるの? 力を取り戻して、綺麗な姿で挨拶したいってこと?」
「……ちから、戻る。ほしい」
だいぶ言葉の繋ぎ方がおかしいが、何となく意図を察したシェランは確認を取る。
「歌……歌ねえ」
シェランは腕組みをした。
実を言うと、彼女はこちらの世界の音楽には詳しくない。童謡や民謡の類は、皇女の耳に入れる云々以前にまず周囲の人間が知らないし、歌劇場などにも行ったことがない。唯一、祖母皇妃やヴィライオルド公爵夫人、先代ヴィランド公爵夫人による音楽の講義があるが、それも楽器を奏でることが主流で、こちらの歌はほとんど知らない。
例外が地球のものだ。向こうでは様々な媒体によって音楽が溢れていたから、結構な数を知っている。
「私が知ってる歌でいいなら……でも歌で力が戻るの? そんな話聞いたことないけど」
「……歌、ちから、もらう」
……よくわからないが、歌はこの精霊にとって特別な位置付けにあるようだ。
周囲に人もいないし、とシェランは少し長めに息を吸い込んだ。