星空の下、時を繋いで 1
第二章終了後。
「休暇を取ろうと思う」
皇王がいきなり宣言したのは、皇紀4012年八の月の最初の頃である。これに即座に応じたのは皇王の父方の従弟、ヴィライオルド公爵ルークセイドであった。
「寝言は寝てから仰って下さい」
外はじりじりと焼けるように暑いというのに、その言葉も添えられた視線も、まさしく氷刃の如くであった。
「聖エディリーン祭を終えてようやく一息ついたこの時期に、一体何を言い出すかと思えば……」
「取り合えず陛下の机の上の紙をどうにかせねば、休みなど夢のまた夢ですね」
公爵が首を振る横で、宰相ロイセイルが書類から目を上げずに言う。
ちなみに公爵が皇王執務室にいるのは単純に書類を溜める皇王を手伝うためだが、宰相は皇王の傍にいた方が便利という理由で自分の文具一式を持ち込み、常日頃からここで書類の決裁をしている。当初は前例がないと文官達から猛反発を食らったが、当人は涼しい顔で「ないなら作れば良いでしょう。その程度の便宜も図って頂けぬような職場なら、本日只今をもって辞職致します」(※任官三日後の発言)とのたまった。以来二十年、宰相の机は皇王執務室の隅に鎮座したままである。
「別に今すぐとは誰も言っておらん。今月の半ばにでもどうだ?」
「陛下が一瞬たりとも就業時間内は逃げず、手を抜かずを実行された場合は一考に値するかと」
要するに、今後の頑張り次第ということだ。悪くない宰相の回答に気を良くした皇王は、調子に乗った。
「では二週間後だ。エクレール領のカトワル湖の畔の離宮を使おう。一度シェランを連れて行ってやりたいと思っていてな。予定に空きがある者は随行可と――」
「恐れながら陛下、手が止まっておられます。作業効率を上げるためにも、休暇の計画立案は手を動かしながら、口には出さず頭の中でお願い申し上げます」
要約すると、黙れと言われている。皇王はちらりと従弟に目をやったが、その従弟も知らぬ顔で書類を読んでは、決裁印を捺して良いものと担当部署に差し戻すものに仕分けしていく。
この場に味方はいないと悟った皇王は、大人しく黙々と執務に向き合わざるを得なかった。
一方の皇女シェランティエーラはというと、乗馬の訓練の最中であった。教師は母方の伯父ウォルセイドと従兄ライゼルトだ。伯父だけのときもあれば従兄だけのときもあるが、この日は偶然二人揃っていた。
並足から徐々に加速し駆け足へ。一人で手綱を取ってはいるものの、何があっても対応できるようライゼルトが併走している。いざとなれば彼は疾駆する馬から馬へ飛び移ることも可能だ。それはもはや馬術ではなく曲芸の域ではないかという話もあるが、本人達の前では言ってはいけないことである。
練習場に設えられた急な角を曲がり、少しずつ手綱を引いて速度を落とす。待っていたウォルセイドの前でぴたりと止まると、彼は一つ頷いた。
「上達されましたね。これならもういつでもお一人で乗っても大丈夫ですよ」
「本当に?」
「はい。ですがお分かりとは思いますが、城外へ出るときは必ず護衛をお付けになりますよう」
ことこれに関しては滅多に褒め言葉など出ない伯父から、一人乗りの許可が出た。それが嬉しくて仕方なくて、シェランは傍らの従兄を振り返った。が、すかさず釘を刺される。
「一人で城の外へ出ても良いというわけではないですからね」
「……わかってるもん」
一人でといえば聞こえは良いが、つまりは見ている者がいなくても自主練習ができるようになったというだけである。
ふて腐れた皇女に、セライネ親子は苦笑する。
「もうすぐ昼餉の時間ですから、馬を厩舎に戻しましょう。……姫様、そのように拗ねなくとも。これで念願でいらした殿下達との遠乗りもできますよ」
現金なもので、皇女はぱっと表情を明るくした。
「馬車を使わなくても皆とお出かけできるの!?」
「はい」
滅多にないだろうが、とはウォルセイドの内心にのみ留められた一言である。
しかしその考えがすぐに覆されることになるとは、物心ついたときから皇族の傍近くに仕え、振り回されてきた彼でも予想できなかった。
その日の昼餉の主菜は良く冷やした蒸し鶏、蒸し豚、蒸し野菜に数種類のソースが添えられた皿と、冷製ポタージュのようなスープだった。「ような」というのは、使われているのがどうも芋や南瓜の類ではないヴィーフィルド特産のとある野菜だからで、シェランはポタージュっぽいもの、と位置づけている。
スープの塩味と素材の甘味が織り成す絶妙な旨みがたまらない。最近は暑いからか、こってりとしたものはなくさっぱりと爽やかな品が多かった。
今日の昼餐には皇王、皇妃、皇太子、宰相、ヴィライオルド公爵の他、教育係としてウォルセイドとライゼルトも招待されていたので、同じ席に着いている。ライゼルトは従妹姫の食欲に少々引き気味だ。
「さっきまで暑い中運動していたのに、よくまあそんなに入りますね……」
「ふぁれ、食べらいの?」
「口に物が入っているときに喋るのはおやめ下さい。皇女としての威厳を保つ努力をなさって下さい」
遠慮も何もあったものではない息子の言葉に、ウォルセイドは呆れながらも咎める。
「ライゼルト」
「構わぬ。シェラン、ライゼルトの言う通りだ。飲み込んでから話しなさい」
言われた通り口の中の物を飲み込んでから、シェランは反論した。
「だって、あっちが話しかけるから」
「人のせいにするものではない。応じたのはお前だろう」
結果は呆気ない敗北であった。
むう、と頬を膨らませる皇女に、皆苦笑を禁じえない。さすがにここで声を大にして笑うと本格的に機嫌を損ねてしまうので、誰もそこまで大きな笑い声は立てなかったが。
笑いの波が収まった後、咳払いをして注目を集めたのは皇王だった。
「皆に提案がある」
「碌なものではない気配が致しますので、皇太子として却下させて頂きたいのですが」
「……まあ、そう言わずに聞け」
ヴィーフィルド皇国の最高権力者が誰なのかわからなくなる瞬間であった。
「お父様、そう仰らずに聞きましょうよ。聞くだけですから」
愛娘に袖を引かれ、渋々であったが皇太子は頷いた。それを確認した皇王は、今度は息子に何か言わせる隙を与えるまいと口を開いた。
「休暇を取る。日程は――」
「シェラン、午後からはシルヴァーナ殿の講義だろう。戻って準備をしていなさい。ウォルセイド、後で少し話が――」
「ファース。リダーにも考えあってのことなのでしょうから、最後まできちんとお聞きなさいな」
皇妃に窘められ、今度こそ皇太子は憮然と黙り込んだ。反対に皇女は顔を輝かせる。
「――お休み!? 夏休みですか?」
「おお、そのようなものだ。直轄領の中にカトワル湖という湖があってな。その湖畔に離宮があるのだ。そこに四、五日ほど休暇を兼ねて泊まりに行こうと思う」
「湖……! 泳いでも良いところですか?」
「泳ぐも良し、釣った魚を食べるのも良しだ。偶々近くを別に水源のある川が流れていて、付近の住民は余程のことがない限りそちらを使っているゆえ、湖は完全に皇室の所有だからな」
茹だるような暑さの最中に水遊びができると聞いて、シェランは完全に祖父側へ引き込まれていた。期待の籠もった眼差しを最愛の娘から向けられた皇太子は、別に拒否する要素もないだけにたじろいだ。
「……まあ、四、五日なら……」
「決まりだな。皆にも声をかけて、予定が合う者は来いと言っておこう」
ここでいう「皆」とは、末端に至るまでの皇族のことである。一人悦に入って頷く皇王は、おもむろに手を打った。
「おお、そうだ。ウォルセイド、ライゼルト、お前達もどうだ?」
唐突に名指しされた二人は固まった。
「――……はっ!?」
「常日頃からよく働いてくれている上、ライゼルトはミルフェンの件であの小僧を黙らせるのに一役買ってくれたからな。半年前のトスタルでの一件もある。ジークベルトとローレンツにも声をかけてみるか」
間違いなく皇族がほぼ一堂に会する場である。御免被りたいというのが彼らの正直な本音だったが、何だかんだでウォルセイドは姪っ子に、ライゼルトは従妹に弱かった。彼女は未だ外見が幼いため、しょげると小動物を虐めたように気が咎めてしまうのだ。こちらが悪くなくても。
この半年、後継者教育にどっぷりと浸からされ、発散の場もあまり無かった皇女殿下の、一緒に来てくれるの、遊んでくれるの、という期待に満ち満ちた眼差しに彼らが逆らえるはずも無かった。それでなくても皇王直々の誘いである。
「……謹んで、お受け致します」
それ以外に、どのような答えが返せたか。知っている人がいたら、教えて欲しいものである。
――そして、約二週間後。ライゼルトは幼馴染達と共に、非常に居心地悪い気分で、馬上の人となっていた。
「どうしてこんなことに……」
傍らでぼやくのはセイルード、応じて頷くのはジスカールである。皇室所有の離宮で、私的とはいえ客人扱いで招かれるのだから、対外的には非常に名誉なことである。字面だけ見れば、本当に何かの歴史書に残るくらいの栄誉なのである。しかし。
「あ、見て見て! 今、魚がいた! 跳ねた!」
「ねえねえ、今向こうで鳴いてる鳥! あれはなんていう種類の鳥?」
彼らに課せられた実態は、事実上生まれて初めて皇城から公務以外で外出してはしゃぎまくっている皇女のお守りであった。馬を休ませるための休憩中は特に酷い。
「落ち着いて下さい。川なんですから魚くらい居ますよ」
「あれは双睛という鳥です。鳴き声はあの通り美しいですが、猛獣と互角に渡り合える爪を持っていますから、あまり近寄らないで下さい」
「ちょっ、姫様! 勝手に野苺摘んで食べるのはやめて下さい!」
「だめです、その草は食べられません!」
「どこでそんな見るからに怪しい色のキノコ採ってきたんですか!? 捨てて下さい!」
いっそ清々しいほどに鮮やかな紫の地に緑と青の斑点があるキノコを焼却処分したところで、臣下組三人は疲労困憊だった。目的の離宮まではまだ距離があるのに。
転移神術で飛べばすぐなのだが、皇女の乗馬訓練も兼ねて『離宮まで馬で行く組』が編成されていた。皇王直轄エクレール一等侯爵領は皇都リーヴェルレーヴからそれほど距離はなく、のんびり行ったとしても朝に出て昼過ぎには着くからだ。その面々は皇王、皇太子、ヴィライオルド公爵、ヴィランド公爵、ヴィルフォール公爵に始まる皇族の重鎮が勢揃いしている。このまま会議とか始まっても全く問題ない。
「皇女、先程のキノコは毒キノコですぞ。ま、貴女なら食べても少々腹を壊す程度で済みますが、一般の民が食べたら一欠けらで死に至る猛毒です」
「ああ、だからあのキノコが生えてた周り、虫の死骸がいっぱいあったんだ」
「……お尋ねしますが、どうしてそんな場所に生えていたものを採ってこようという気になったんです」
「何か面白そうだったから」
万事が万事この調子である。同道する、特に若い皇族達は虫の息だ――笑いの発作が絶え間なく彼らを襲うがゆえに。
「おいルヴァ。ソールも。お前らの役目だろ、これは!」
「いや、ごめん、姫の行動が一々おもしろ……予想外過ぎて腹が痛いんだ」
「ミルワード卿、ローヴァイン卿、笑っていないで姫様を止めて下さい!」
「いいじゃないか。命に別状があるわけじゃないし、見てて面白いし」
「こっちの心臓が持ちませんよ!」
「そうか、いい機会じゃないか」
「何の!!」
「心臓の修行の。お前らちょっと神経尖らせ過ぎだ。視察じゃないんだし、姫君がああやって外を知ることは大事だよ。ほら見ろ、お前らの父上は平然としてるだろ」
示された先に、皇王、皇太子と同席しつつのんびり茶なぞ飲みながら休憩を取っている祖父や父親達の姿を認め、ジスカールもライゼルトも肩を落とした。何をやっているのだ。
オルソール子爵は直接国政に参与する職務についていないからまだわかるが、近衛騎士団長と外務省長官が揃っている。仕事はどうした。これでは単なる慰安旅行ではないか。
再び茂みに入って行こうとする皇女を必死に止めるセイルードを横目に見ながら、ライゼルトは思わず呟いた。
「…………まさかアルのことをこんなに恋しく思う日が来るとは思わなかった……」
聞いていたイルヴァースは一瞬目を丸くした後、社交界で貴族令嬢達に囁かれる『優雅で優しい理想の王子様』の渾名に相応しからぬ勢いで吹き出した。
「あははははっ……重症だろ、重症すぎるぞ、はははっ」
「笑い過ぎだ、自分でも思ったが!」
「思ったのかよ!」
更にイルヴァースの笑いは加速する。そして他の皇族達にも伝染し、離れた位置に居た皇王達が、孫達は笑い茸でも食ったかと腰を浮かせるほどの騒ぎとなった。茂みに首を突っ込もうとしていた皇女も振り返った。
「どうかした? セイ」
「いえ、ライが今、アルがここに居てくれたらとぼやいたので」
さすがに笑顔が引き攣ったシェランである。
「ああー……残念だったよね、アル従兄様」
そう、アルトレイスは今回同行していない。本人は参加する気だったし、その予定だったのだが。
「でも貿易関連の重要な会合なんでしょ。新しく輸出入品目に入った物の関税比率がほぼ決まるっていう」
「本人は母君を呪っていそうですがね……」
知らせが入った当時、偶々現場に居合わせた二人は揃って遠い目になる。あの魂の籠もった絶叫は、忘れたくても忘れられない。
『どうしてこんなときに限って!!』
生憎と父であるヴィシュアール公爵ルーネイスはこの日、別の外せない用事が入っており、母フィオルシェーナはというと「新規開発した発酵中の薬の精製の時期がちょうどその日」らしいため、手が離せないという。
その会談の席には責任の所在や利権関係の問題で、公爵家の人間が一人はいなければいけない重要なものであったため、アルトレイスは今回は同行できなかった。本人が尋常でなく悔しがったのはここで述べるまでもない。最後まで日程をずらせだの、いっそ品目の新規追加を無しにしろだのと散々喚いていたが、決定が覆ることは無かった。
「でもまあ、終わり次第来るんだし」
皇女の気楽な一言に、セイルードは内心、遠い南の空の下、訳もわからず八つ当たりされつつ死ぬほど扱き使われているであろうヴィシュアール公爵領及び駐在中の担当官吏達に同情の涙を禁じえなかった。