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いつか

本編開始の約一年前。

 ただ――君が。



****************



 繁栄を謳歌する歴史ある大国。『竜の牙』と呼ばれる峻厳な山の裾野に広がる皇都、中でも遠目からでもその壮麗さが見て取れる歴代皇王の居城は、築かれた街から一段高いところに扇形に展開している。

 昼前から降り出した通り雨は、さらさらと音を立てて虹を幾つも映し出している。それは皇王の強大な神力によって張られた結界を通過して、城内にも等しく降り注いでいた。

 その光景を、まばゆいばかりの金髪を持つ少年が緑柱石の双眸を細めて見上げている。年の頃は十五前後といったところか。少し眠そうに座った椅子の背にもたれかかるところから察するに、ちょうど昼餉を終えたらしい。

「何か珍しいものでもあるのか、ソルディース」

 かけられた声に振り向いた少年――ソルディースは、上げた視線の先にいた人物に対して立ち上がって礼を取った。

「皇太子殿下。……申し訳ありません、気付かず」

「構わぬ。何を見ていた?」

 夜を紡いだと讃えられる漆黒の髪を揺らして窓辺に立った皇太子は、ちょうどソルディースの親と同世代だ。皇太子は極上の紫水晶の瞳を、先程までの彼と同じように細めた。

「ああ、虹が出ていたのか。春が近いな」

「はい」

 それからしばしの間、皇太子は沈黙していたが、それは虹に見惚れていたからではない。

「……また、見つからなかった」

 とつりと落とされた言葉に、はっとソルディースは自分より少しだけ高い位置にある横顔を仰ぎ見た。完璧な線を描く、憂いに満ちて尚美しい横顔を。

 彼らは、数年前にとても大切な少女を見失った。死んだわけではないから、敢えて言葉にするなら見失った、とするしかない。

「そう……でしたか」

「あれから八年か。皆にも気苦労を強いているな」

 沈んだ声音に、ソルディースは勢い良く首を横に振った。

「我々の苦労など、お気になさらないでください。もちろん僕達も辛いし、悲しいですが……」

 続けるべき言葉が見つけられなくて、彼は俯いた。失われたのはこの人のたった一人の娘だ。自分よりもこの人の方が、きっと、ずっと辛い。しかしそのまま言ってしまえば、発した音が空気に溶けるのと同じように、言葉の重みさえ失われるようで、音にすることは躊躇われた。

 強く手を握り締めた。

 自分では、この人と哀しみを分け合って、共に泣くことすらできない。それが出来るのは彼ではなかった。彼に出来るのは、感情を忘れてしまったように表情を失くしたこの人の代わりに涙を流すことだけだった。

 多くの不幸が重なって、結果として世界を異にしてしまったこの上もなく大切な少女。取り戻したいと切望しても、今はただ無事でいることを願って想い続けることしかできない。

 それでも。

「まだ、生きています」

 それだけは確かに、わかるのだ。彼女の生命の鼓動は、まだ止まっていない。

 凍りついたように動かない皇太子の口元が、少しだけ緩んだように見えた。


 時を同じくして、城の中の別の部屋で。

「聞きましたか? また見つからなかったそうです」

 憤懣やるかたないと思っていることを隠そうともしないで言うのは、黒髪に青金石の双眸を持つ少年だ。応えるのは、金髪に濃い紫の瞳の青年。

「仕方があるまい。人海戦術で一つ一つ潰していくしかないのだから」

「それにしても、もう八年も……」

「異界の探索は時間がかかる。もの(・・)によっては面倒な儀式が要る」

 黒髪の少年はそっぽを向いた。そんなことは少年とて良くわかっていたが、感情が追いつかないのだ。

「……無事でいるでしょうか」

「そう祈るしかない」

 いなくなってしまった皇太子のたった一人の愛娘。黒髪の少年はその少女の従兄で皇太子の甥だし、金髪の青年は皇太子の従弟だ。どちらからしても他人事ではない。

 不意に金髪の青年が立ち上がった。

「私は従兄上(あにうえ)と陛下にご挨拶申し上げて国境に戻る。お前はどうする?」

 黒髪の少年は視線をさまよわせた。迷っているらしい。

「今日は……もう少し。お祖母様にもお会いしてから」

「おお、叔母上へのご機嫌伺いを忘れるところだった」

 大袈裟な仕草で肩を竦めた金髪の青年は、国境に戻るとは言ってももう少しゆっくりしていくつもりのようだ。呼び鈴で別室に控えていた侍従を呼び出す。

「妃陛下への面会手続きを」

「承りました」

「それと、従兄上はどちらに?」

「皇太子殿下は四半刻前に大神殿からお戻りになられた後、東側の休憩室に向かわれました」

「わかった。下がれ」

 侍従が頭を下げて下がると、青年は立ち上がった。

「お前も行くぞ」

「わかっています」

 少年は特に不満を言わずに立ち上がった。

 漆喰で塗り固められた壁が続く廊下は、こころなしか暗い。滲む影が深いように見えた。

 目当ての部屋に着くと、遠慮も何もあったものではない勢いで金髪の青年が扉を開けた。

「何だ、お前か」

 窓から空を見上げていた皇太子は振り返り、二人の姿を認めて目元を和ませた。

「どうした? 珍しいな、そんなに落ち着きのない振る舞いは」

「従兄上のご機嫌伺いです」

 ふんぞり返って胸を張る金髪の青年を、黒髪の少年が横目に半眼で見て、これ見よがしに嘆息した。

 まだ皇太子と共にいたソルディースは、その様子に思わず苦笑した。

「伯父上。お気を落とされませんよう」

 黒髪の少年が真摯な表情で皇太子に言った。金髪の青年が大きく頷いてその後を続けた。

「我々は必ず皇女を見つけ出してみせます。少しばかり時間がかかっておりますこと、お許しを」

 皇太子は首を横に振った。

「許すも何もないだろう。お前達はよくやってくれている」

 そのとき、鐘が鳴って休憩時間の終わりを告げた。

「執務に戻らねばならないな。ギルトラント、今日会えて良かった。そろそろ国境に戻るのだろう。頼むぞ」

「いいえ、私こそ従兄上に拝謁が叶い嬉しゅうございました。ではこれにて御前を失礼致します」

 最大の敬意を込めて従兄に礼をとった青年――ギルトラントは、颯爽と踵を返した。

 ……返したはいいが、彼が扉までたどり着かぬうちに、扉は向こう側から再び開いた。現れた女性は、柳眉を持ち上げてギルトラントを見たが、結局その視線も女性自身も、彼を通り越して皇太子へと向かった。もう一人、女性の影から少女といってよい年頃の娘が現れる。

「皇太子殿下、ご無沙汰しております」

「エデルガルト。……オルトリーエも一緒か」

「長の無沙汰をお許し下さい、殿下」

 良く似た二人の女性は、貴婦人にあるまじき男装をしていたが、これがまた凛とした雰囲気の彼女達には良く似合っているのだった。年長の女性――エデルガルトは振り返ると、怪訝そうに眉を持ち上げる。

「なんだ、ヴィランド公。まだここにいたのか」

 嫌味ではなく、心の底からそう思っているらしい口調だった。

「久しぶりに会った婚約者につれないものだな」

「誰が婚約者だ、馬鹿者。先ほど妃陛下とすれ違って貴殿がどこにいるか聞かれたが、謁見を奏上したのならさっさと行かぬか。実の甥とはいえ不敬な」

 扱いがひどいのは気のせいではない。

「通り雨ですか。そろそろ竜が目覚めるようですね」

 皇都には冬の終わり、春の直前に『竜の吐息』と呼ばれる温かい風が吹く。それが上空の冷気と混ざり合い、時折このように雨を降らせるのだった。これを比喩して、「竜が目覚める」という。

「殿下。今年こそ吉報をお持ちいたします。どうか今しばしの猶予をお許し下さい」

 エデルガルトの真摯で、どこかひたむきに硬質な眼差しを受け止めて、皇太子は苦笑した。

「皆、同じ事を言うのだな。急いているのは確かだが、そう思い詰めても結果は変わらぬだろう」

「気は心からとも申します」

「あまり無理はせぬように」

 いいえ、とこれに横から口を挟んだのはオルトリーエと呼ばれた少女だった。

「シェラン様は不可能に近い無理を押して時空を越えられました。お迎えに上がるわたくしたちも相応の無理を通さねば。――二度とシェラン様にお会いできないと諦めるよりは、この一命に代えましても時空の壁を破る方が遥かにましですわ」

 金緑の双眸は、何者にもその意志を翻すことは許さぬと強く語っていた。

 皇太子は紫紺の双眸をゆるりと沈めて、とつりと、宥めるように言った。

「神気が追い辛くなっている。時空を隔てては、喪失の衝撃は届かぬのやも知れぬ」

「皇太子殿下!」

「あるいは、もはや神力を失っているか」

 全員が絶句した。それは誰もが可能性として心に留めてはいたが言わずにいたことだった――他でもない、皇太子の心情を慮って。

「でなければ、あの子が帰ってこない理由が説明できない。神力は十分に備わっているのだから」

「それは……」

「それでも!」

 必死の形相で反論したのは黒髪の少年だった。

「たとえ神力を失くしていようとも、シェランが俺の従妹であること、一族の次代の長であること、伯父上の娘であることに、何ら変わりはありません! 簡単に諦めるわけにはいきません。……いいえ、諦められるはずがない。時空を超えた程度のことが何だというのです……!」

 更に少年は言い募る。

「シェランが神力を失ったのなら、俺の神力を渡します。目を失っているなら目くらい差し出しましょう。あの子を無事に連れ戻すためにこの命が必要ならいくらでもお使い下さい。ですからどうか――諦めることだけは!」

「……済まぬ。先ほどの言葉は撤回しよう。だからギル、そんな目で見てくれるな。ソルディース、キティ。オリエまで」

 背後に炎として怒りが具現するのではないかという形相のギルトラントは、ぎりぎりと唸るように言った。

「いくら従兄上といえど、言っていいことと悪いことがあります」

「済まない。――皆、執務に戻ろう。ここでいつまでも(たむろ)していると、父上がまた臍を曲げて未決済書類を溜めてしまわれる」

 滲ませていた憂いなど、欠片も感じさせない笑顔で皇太子はそう打ち切った。



 一日の仕事が終わり、自邸に戻ったソルディースは、昼の出来事を思い返して嘆息した。外では、一旦上がったはずの雨が本格的に降り出していた。

 たとえば、と彼は思う。

 たとえば、このまま彼女に永遠に逢えないなら、この胸に息づく想いは消えるだろうか。時がこの、切ないほどの渇望に似た本能が命じる希求と共に、彼女を恋う想いすら洗い流してしまうだろうか。

 この降り注ぐ雨が彼女に触れることが出来ているなら、雨にすら嫉妬してしまうのに。

(いつか――いつか。そう遠くない日に)

 またきっと、出逢えると信じたい――信じてしまう。信じずにはいられない。そうであると根拠のない確信すら抱いて、また彷徨うように彼女を求めて捜す。一体何度繰り返しただろうか。そうだ、同胞の一人が言ったように……諦められない。

 夢でもいいから逢いたいと、そう思ってしまう。夢で見る彼女が現の彼女そのままであるはずがない、意味のないものだとわかっていても。

 今、彼女はどうしているだろうか。眠っているのか、起きているのか。笑っているのか、泣いているのか、怒っているのか。願わくば、笑っていて欲しい。無理かもしれないけれど、一人で泣く姿だけは見たくない。

 固く目を閉じた。

 狂うほどに相手を想えば、幻でもその声が聞こえるという。

 僅かに雨を縫って吹く風の中に、自分を呼ぶ彼女の声が潜んではいないだろうか――……。


 どれほどの時間、物思いに囚われていたのか。気がつくと日付が変わることを告げる鐘が鳴り始めていた。

 何故だろう、今日は珍しいくらい同胞がこの城に集まった。昼に会った四人然り、彼の祖父や父、他にも何人も顔を合わせた。皆、特に理由はない風を装っていたが、何かを求めるように――引き寄せられるように。

 吐息だけの笑いが漏れる。

 ……鐘が鳴り終わったら訪れる明日が、彼女の十三回目の誕生日だからだろうか。


 重苦しい余韻が静寂(しじま)に沈んで、日付が変わる。

 吐息に混ぜて、彼は密やかにその言葉を吐き出した。

「十三歳、おめでとう――シェラン」


 その声はまだ、彼女には届かない。



****************



 この哀しい喪失が運命だというなら、甘んじて受け入れよう。今僕等を侵食する絶望に似た悲嘆の先には、きっと再会という夜明けが待っているだろうから。

 だからどうか、また出会えるそのときまで。


 君にはどうか、笑っていてほしい。

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