ケイムリー事件、あるいは騎士の仕事 2
ヴィーフィルド皇国の最東端であるトスタル島は、隣国デルフィニアとの国境線でもあるルトニ河中流の、ややヴィーフィルド側寄りにある岩でできた島だ。そのトスタル島と頻繁に船が往来する街が、ファライアスという港町だった。
「うわあぁ……すごい人!」
市場の賑わいを見て、皇女は感嘆の声を上げる。
「今日は何かのお祭りなの?」
ヴィーフィルド人に珍しくない茶に変えられた瞳を輝かせて問うてくる従妹姫に、ライゼルトは冷静に返す。
「いえ、朝の市場はこんなものです」
「いつもお祭りみたいってこと?」
「……違います」
「あ、ねえねえ、あそこ! あれ、屋台よね? なんか食べ物売ってる!」
人の話を聞いていない。
「ちょ、ひ……シエラ!」
食欲をそそる香ばしい匂いに見事に釣られた皇女は、護衛騎士の袖を引っ張って屋台に近付いた。売り子は中年の、小太りの女性だった。
「おばさん、それは何?」
「ん? 知らないのかい。サパーニャだよ。ルトニで獲れた雪飴魚をかるーく塩を振って焼いて、我が家秘伝の特製ソースをかけてパンに挟んだものさ」
「おいしそう! ライ従兄様も食べるでしょ? 二つちょうだい!」
懐から小銭を取り出して、ライゼルトの返事も聞かずに皇女は注文した。はいよ、と女性は手際よくパンに炭火で焼いてあった魚を挟み、特製だというソースをかける。
「ティツの実をたくさん使ったソースだから、服に零すんじゃないよ。染みになったらほとんど取れないからね」
「ありがとう」
はい、と受け取った二つのうち一つをライゼルトに渡す皇女を見て、女性は笑って問いかけた。
「サパーニャを知らないってことは地元の子じゃないね。どこから来たんだい? 見たところいいとこのお嬢ちゃんみたいだけど……ロスタロイド辺りかしら」
ううん、と皇女は首を振った。こういうことは微妙に真実を織り交ぜた方が良いとのことで、事前に決められた『設定』を口にする。
「リーヴェルレーヴ。ファライアスへはお父様のお仕事で付いて来たの。こっちは従兄のライト」
「皇都から! 遠かったろう。ゆっくりしておいき」
「……ええ、まあ、はい」
実は仕事の真っ最中ですなんて、言えるはずがなかった。しかし歯切れの悪い返事に何を勘違いしたのか、女性はにやにやと笑って更に質問を重ねてきた。
「もしかして、逢い引きかい?」
「まさか」
即行で否定したライゼルトは、背中に突き刺さるナニかをひしひしと感じていた。そういった気配に疎いらしい皇女は暢気に買ったばかりのサパーニャとやらに齧り付いている。
「ソースが頬についてますよ、シエラ」
「ふぇ?」
取り出した手巾で彼女の頬を拭うライゼルトを見て、売り子の女性はふう、と肘をついた。
「兄妹みたいにも見えるね」
「……従兄妹です」
再び、背中に突き刺さる絶対零度のナニかを感じながら、一応事実を伝えておいた。
そんな皇女と若き騎士の様子を少し離れた場所から見守る若干名のうち、風霊を操って盗聴……ではなく、風に流れて聞こえてきた会話に、二名ほどが少女の横に立つ少年に向かって非常に冷ややかな視線を注いでいた。言うまでもなく、今年最初に召集された皇族会議で皇女の暫定婚約者に内定したトアル少年と、皇女との実際の続柄は従兄妹だが皇女の兄役を自負しているトアル少年である。
「……納得できん」
「その点については深く同意する」
うっかりすると神気に引き摺られた精霊達が騒ぎ出しそうなほどの機嫌の悪さに、セイルードが恐る恐る声をかけた。
「……ちょっと、お前ら落ち着けよ。姫様が望まれたことだろ」
「それとこれとは話が別だ」
にべもなく切り捨てた自称兄代わりは、素早く通りに目を走らせた。と、少し目を眇める。
老婆の抱えた買い物籠から果物を掏ろうとしていた子供が、何もないところで転んだ。しかも飛び込んだ先は、魚を売っている屋台が先ほど売り切った箱の中の水をぶちまけた、生臭そうな水溜り。
「……八つ当たりはやめろよ」
「市中警邏の一環だ」
「冷たっ、くっさ!」と叫ぶ子供を振り返った老婆が、まあまあと肩かけを子供に巻き付ける。子供は少々後ろめたそうな顔をしているが、どこの町でもよくあることだ。
「この街は我々の警邏対象ではありません、アルモリック卿――って、言ってる傍からソールもやめろ!」
セイルードの制止は間に合わなかった。微妙に神気が揺らぐ。「食い逃げだー!」と指を指されているまた違う子供の頭上に、鳥の糞が降り注いだ。道行く人々は、当然のことながら避けて歩く。
「僕は何もしていない」
「しれっと嘘つくなよ、いくら街とはいえあんなに都合よく鳥の群れが一人の子供の上に集中砲火みたいなことが起こるわけないだろ!」
先ほどからジスカールが沈黙しているのは、何も言いたくないからだ。皇族のつまらない嫉妬の八つ当たり対象が、普段なら見逃されるような小さな子供。……情けなさ過ぎて、どこから突っ込んでいいのかわからない。
『アル従兄様も皆も、目立つから街中で一緒に歩くなんて、やだ』
町へ出かけるにあたって、皇女が放った一言が一体どれほど皇族達の(近年存在が疑わしいと囁かれていた)心を抉ったことだろう。そして言った当人は、自分もその目立つ一員だということを全く自覚せずに服を着替えただけで出かけようとしていたから性質が悪い。慌てて髪と瞳の色を変える必要性を説いたからよかったものの、そのまま町に繰り出していたらと思うと、背筋に冷たいものが這い上がってくる感覚を堪えきれない。
とはいえようやっと再会叶った皇女から目を離すという選択肢は皇族達にはないわけで、現在は尾行まがいのことをしているのだった。否、まがい、ではなく立派な尾行である。ちらっと通りの反対側を見れば、ラフィネール卿とローヴァイン卿がいた。……なぜか兄妹の足元には柄の悪そうな男が数人転がって踏まれているが、ジスカールは見なかったことにした。治安維持は大事だ。
「しかし姫様は食ってばっかですね」
果物の蜜がけを始め、干菓子に練り菓子、焼き魚、焼き鳥、焼き豚を制覇し、いよいよパンにまで手を出した。よくあの細い体に入るものだと感心する。
アルトレイスが腕組みをして言った。
「無意識下で、食物を摂取することで回復の促進を図ろうとしているんだろう」
「それなら直接皇太子殿下や、お前らから供給した方がいいんじゃないか」
「もちろんそちらの方が効率は断然良い。……たぶん、好みの問題だ。神気も神力もそれなりに安定し始めているからな」
率直なところを述べれば、皇女の神気も神力もまだまだ非常に斑が多く変動が激しい状態である。あれが自分なら間違いなく『酔っ』て寝込んでいるとジスカールもセイルードも胸を張って言えるが、皇族的には「それなりに安定」という基準らしい。この辺が彼等の人外たる所以である。別に知りたくなかったが。
「わりと切実な問題だろ。好みって……」
「お前達だっていくら弱っているからといって、神気吸収促進剤ばかりを毎日三食飲まされるのは嫌だろう。それと同じだ」
ジスカールもセイルードも何ともいえない表情になった。あの特有の、どろっというかねとっというか……どう形容すべきか迷う独特の食感と、腐ったナニかと苦汁と消毒液と砂糖を混ぜ合わせたような味。どちらもしつこく口腔内に残るので、できれば思い出したくない、というか一生お世話になりたくない代物である。
「……比較の対象が極端すぎやしませんか、アルモリック卿」
アルトレイスは珍しく目を泳がせた。
「……シェランの場合は身体的な回復も兼ねるから、ああして普通の食事をしたがるんだろう」
その昔、士官学校在籍時代には教師数人を禿げさせ、あるいは胃痛持ちにさせ、同時期に在籍した生徒から絶対の尊敬とそれ以上の畏怖を勝ち取ったアルモリック卿だが、少々おいたが過ぎたことがあった。そのときに事態の収拾にあたったのが皇太子ファナルシーズで、これまた仕置きをやりすぎてしまったために、アルトレイスは神気吸収促進剤を飲まされた経験がある。
思い返せば、始まりの時点で地獄絵図。まさしく阿鼻叫喚だった過去を思い出し、セイルードは遠い目になった。従騎士になってからの初任務がアレとか、嫌過ぎる。あのときほど皇女の不在を恨めしく思ったことはない。
ともかくもそういう事情でアルトレイスは神気吸収促進剤の味を知っているのだった。皇族の中でアレの味を知る者は少ない。存命中の中では一人だけだろう。
「あ、移動する」
「見つからないように追いかけるぞ」
実のところ、物陰に隠れながらこそこそ動く彼らの方こそ人目を引いている。
「お母さん、あの人達……」
「しっ、見ちゃいけません! ああいう人には関わらないのが一番よ」
今の彼等を見て、天下のヴィーフィルド皇国近衛騎士だと思う人間はいないだろう。そして子供連れの母親の言葉はある意味で的を射ていた。皇族と関わると碌なことがないという点で。
そんなことが数日続き、ついには。
「ねえねえ、あの人達……」
「また来てるわね」
「ちょっと通報した方がいいんじゃない?」
「確か今、騎士様が砦にたくさんいらしたわよね。ちょうどいいわ」
とうとうトスタル砦に、民間から数本の不審者通報が寄せられたのだが、訴状がどうなったのかは――誰も知らない。
「毎日毎日よく飽きませんね」
今日も今日とて変装して詰所に現れた皇女に、皮肉が飛び出すのは仕方がないことだろう。
「楽しいからね」
嫌味をさらりとかわされ、ライゼルトは渋面になった。自覚しているのかしていないのか――とにかく、本日も皇女殿下は元気いっぱいである。
「明後日の朝には皇都へ出発する目処がついたそうです。移動は馬車になりますから、それに備えて明日はお休みになって頂きます。お忍びも今日までですよ」
「はあい」
「買い食いは駄目です。最初に皇太子殿下に叱られたでしょう、きちんと砦で出されるお食事を召し上がって下さい」
「だって、つい……」
「駄目なものは駄目です」
ライゼルトは結構、躾には厳しい親になりそうだなとシェランは思った。
あまり堪えていなさげな皇女に軽い頭痛を覚えつつ、ライゼルトは同僚を示した。
「シェラン様、今日は私ではなく彼女達が護衛に付きます。モルディーク卿とノークレット卿です」
皇女の人見知りを考慮してだろうか、新たに紹介された騎士は二人とも女性だった。
「皇女殿下には初めて拝謁を賜ります。近衛騎士団第一軍第四中隊所属、モルディークでございます」
「同じく、ノークレットでございます。秘密裏の国内視察に同道させて頂けるとは我が身に余る栄誉。精一杯務めさせて頂きます」
何だか大事になってしまっている。国内視察と言われてしまっては安易に買い食いもできない。
「あの、あまり固くならずに、楽にしていて下さい。……あれ、でもそれじゃあライは?」
「少し他に用事ができましたので、後から参ります。正午に広場の噴水前で交代します」
事務的な態度を保ったまま無表情で淡々と説明する従兄が何となく新鮮で、シェランはじーっと見上げていた。
「……何ですか」
「……ライ従兄様って、そういえばお仕事中なのね」
ライゼルトは鋼の如き理性で怒気を抑えた。ここは人前、皇女の威信を守れ、と内心で自身に言い聞かせる。
つくづく、触れてはいけないとまではいかないが、触れないほうがいいところに触れるのが上手い少女だ。貴女といる限り俺は常に仕事中なんですよ、という言葉を飲み込んで、笑顔で詰所から主君を叩き出し……ではなく、送り出した。
我々のことはお気になさらず、と言われても、すぐにそれに対応できるものではない。
明らかに只者ではない成人女性二人に付き添われてあれこれと回るのも気が引けた。繁華街は見尽くしたし、と行き先に悩む。
「お悩みでしたら、孤児院などはいかがでしょう」
「孤児院?」
「はい。先の戦の折、親を亡くした子供を収容するために開設されまして、今はそのまま事情あって孤児になった子供の受け入れ先になっていると聞き及んでおります。最も近いのは神殿付属のものです。あそこならディスフォルク卿との交代の時間までに行って、戻ってこられます」
「私、こんな格好だけど……あ、参拝客として見学すればいいのか」
視察と言われたのでどうカッコつけようと一瞬悩んだが、そもそもお忍びである。
賑やかな大通りを抜けると、役所と神殿がそれぞれ並び立っていた。
神殿と執政府の位置はどの街や村でもその中心と相場が決まっている。これは特別な事情があるわけではなく、そうした方が何かと利用者が便利だからという身も蓋も無い現実的な理由からだった。例に挙げるなら出生届けが最たるもので、生まれたら役所で出生届出書を貰ってその場で赤子を取り上げた産婆に記入してもらう。しかし届け出先は神殿で、出生届けが受理された後に出生証明書の発行を受け、それを今度は役所に提出して戸籍の発行――というなんとも面倒くさい流れがあるのだ。他にもたくさんの例があるが、言い出すと際限が無い。信仰というのは時として非常に厄介である。
合祀された神々それぞれに礼拝した後、併設された孤児院を門の外から眺める。建物から子供のものらしき笑い声が聞こえてきたり、美味しそうな匂いが漂ってきていた。昼餉の準備をしているのだろう。
意外にも明るい雰囲気だ、というのがシェランの正直な感想だった。しかし行政管理の孤児院と神殿付属の孤児院は財源からして違うので、ここはヴィーフィルド全国の孤児院の中でもかなり良い方だろう。
「いいところみたい」
「中に入らなくてよろしいので?」
踵を返したシェランに、驚いたようにノークレット卿が尋ねた。シェランは笑って首を振る。
「理由が無いもの。お忍びの私はただの子供でしょ。貴女達のどちらかが母親役をしてくれるなら話は別だけど、それも見た目に無理があるし」
滅相も無い、と女性騎士二人が顔色を変えた時だった。
女性のものと思しき、高い悲鳴が小さく聞こえた。しかし大通りに面したこの場所では、雑踏と飛び交う会話に掻き消されたのか、シェラン以外の誰にも聞こえた様子は無い。
騎士達は唐突に動きを止めたシェランを不審に思ったらしい。
「シエラ様、どうなさいました」
「今――悲鳴が」
「悲鳴?」
「聞こえなかったの?」
きつい眼差しでシェランが彼女達を睨んだ時、再び悲鳴が上がった。次いで、怒号。何かが割れる音、人の肌を打ち打擲する音――複数の子供の、泣き声。
シェランは迷わず、さして高くなかった目の前の孤児院の門をよじ登って飛び越えた。
「殿下!」
「リディオス殿下、お待ちを!」
騎士達の制止の声を無視し、シェランは孤児院の扉を蹴破った。悲鳴はもう聞こえなかったが、代わりにすすり泣く声を微かに捉えた。
すわ虐待か、と身構える。だがそれなら勝算は十二分にあった。完全回復とは言い難いが、彼女は国内で三指に入る神力の持ち主だ。ちなみに残り二人は父皇太子と祖父皇王である。
その自信が仇となるということを、このとき彼女は初めて知ることとなったが、少しばかり遅かった。
泣き声のする方へ廊下を走り抜けると、複数の男を前に怯えて小さく固まった子供と、女性達がいた。
「ちょっと――何してるの!」
男の一人が、尋常でなく泣き叫ぶ小さな子供の腕を掴み上げたのを見て思わず叫ぶ。衝撃波を放って男を吹き飛ばすと、当然その場の注目は彼女に集まった。
「くそっ! 何しやがる、ガキが!」
「それはこっちの台詞! 小さい子供相手に何やってんの!」
子供と女性の集団を庇うように立ち、勢い良く啖呵を切ったシェランだが、顔を上げた男が浮かべた下卑た笑みに嫌な感覚が呼び覚まされるのを感じた。この類の視線には、覚えがある。
「――……っ」
怯んだのがいけなかった。
「おねえちゃん、あぶない!」
防御するには間に合わなかった。後頭部に衝撃と、遅れて鈍い痛みが広がった。
「――った……」
たたらを踏んだ彼女の水月に、更に拳が入れられる。それが決め手であり、限界だった。
彼女の意識はそれ以上踏みとどまる事ができなかった。




