ケイムリー事件、あるいは騎士の仕事 1
第一章十五話の行間のトアル事件。
町外れのその古い館は、もう長いこと使われていなかったらしい。街道から外れたところにぽつんと立っていることもあって、人の通りも滅多にない。今にも崩れ落ちそうに傾いた納屋の扉が風に揺られて、きぃ……きぃ……と軋んだ音を立てている。その傍を、神術によって作り出された光球がさっと通り過ぎた。
住む人を失って朽ちていくままにされていた館の回りは、今、ヴィーフィルド皇太子率いる近衛騎士団及びジェラルド騎士団の精鋭から成る混合部隊に取り囲まれていた。その数、およそ百五十。
付近の住民が見れば何事かと言いたくなるような数だが、本人達は至って真面目に殺気立っていた。
「殿下、突撃致しますか」
近衛騎士隊の隊長であるヘルネラル卿ジークフリートは、厳しい表情のままの主に問うたが、主は黙って首を横に振った。
「どのような危害が加えられるか分からぬ。相手は魔具を持っているのだ、迂闊に手を出しては人質の命が危ない」
「は……しかし、このまま膠着状態を続けても姫様の体力が懸念されるかと。夜が明ければ丸一日以上、捕らわれておいでになることに」
皇太子がそれでも再び首を横に振ったとき、ぴんと張られた薄絹が今にも裂けていきそうなほど緊迫した空気を雷のような怒号が震わせた。
「何だと!? それで貴様ら、おめおめと皇女殿下を見送ったというのか!」
「ハルトウィン卿、お静まりを!」
「退け、これが静かになどしていられるか! それでも騎士か、貴様ら! これは軍法会議ものだぞ。事と次第によっては騎士位剥奪のみならず、一族郎党を大逆罪に問うてくれるわ!」
「今ここで彼等相手にそんな話をしても仕方ないだろう、ギル! 落ち着け」
同胞の一人に腕を押さえられた皇族は苦々しく吐き捨てた。
「ええい、そもそもはあの侯爵の怠慢がこのような事態を招いたのだ。ファヴァイナ侯、あの売国奴めが! 俺が間に合っていれば八つ裂きにしてやったものを!」
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事の発端は、先日異世界から帰還なさったばかりの皇女殿下の一言だった。
「……暇だねぇ」
まだ肌寒い季節、毛布にくるまって長椅子の上でころころしていた少女の呟きを聞いたのは、彼女の母方の従兄であるライゼルト一人だった。
「本でも読みましょうか」
「飽きた」
「では手遊びでも」
「それも飽きた」
「……菓子でも運ばせましょう」
「これ以上食べたら夕ご飯入らなくなりそうだから、いらない」
どうしろと、とライゼルトの額に青筋が浮いた。
「ではお昼寝でもなさってはいかがです」
「夜眠れなくなるじゃん」
何言ってるの、と言わんばかりの顔で返され、ライゼルトは溜め息をついた。
「大人しくお休みになっていて下さい。異界からお帰りになられてまだ日も浅いうちに、あんな強大な神術を行使なさったのです。自覚がなくともお体は休息を欲しておられます」
「眠くないもん」
「もん、じゃありません。私はここに控えておりますので、どうぞ、寝室にお戻りを」
「……やだ」
ライゼルトの額に二本目の青筋が浮かんだ。
そもそも皇女の近辺にこうして控えるのは近衛騎士たる彼ではなく、侍女や女官の仕事である。だがなぜ今、彼がその役目を代行しているかというと、侍女も女官もいないからだ。
トスタル島にて『光臨の奇跡』を披露なさった皇女殿下だが、この行啓には世話役となる女性が一人も同行していなかった。簡単な身支度ならこの皇女は一人でもできるし、むしろ条件さえ揃えば料理だってできると豪語しているくらいだ。速度と隠密が要求される往路だったために余計な人員を省くと、結果として随行したのは騎士だけだった。
付近の公爵家に皇女の身柄を預けることも検討されたが、皇女自身が長距離の移動に耐えられるかという問題があった。こうして部屋の中をころころしている様子だけを見ると平気そうだが、実際のところ、彼女は生死の境を彷徨った直後に再び神力及び気力体力を使い切っている。転移陣でも馬車でも体に負担がかかりすぎるだろうという判断が下され、こうして未だファヴァイナ侯爵領トスタル砦に留まっているのだった。
皇女本人もその辺りの事情は承知しているのだが。
「ひまー! 退屈っ! 何かない? 何か!」
退屈さには勝てないらしい。しかしこうして相手をしていると、五歳のときとあまり変わっていない。
「何かって、何です」
「何か面白いこと。ものでも可」
そんなことを言われても、ライゼルトは近衛騎士団所属の聖騎士位を持つ武人だ。決して芸人ではないし、面白い一発芸を持っているわけでもない。無茶言うな、と叱ろうとした時だった。
「失礼する。こちらが皇女殿下の居室と伺ったのだが、殿下はいらせられようか」
聞き覚えのある声に、ライゼルトは振り向いて直立不動の体勢を取った。――扉の向こうに、複数の神気の波動が感じ取れた。
「……だぁれ?」
聞こえてきた声が、その低さから男性のものだと気付いたのだろう。先ほどまでとは打って変わって不安そうに彼の袖を引いてくる皇女に、ライゼルトは膝を突いて目線を合わせた。
「ヴィランド公爵がお見舞いにいらして下さったようです。他にも、皇族の方が何人か……お通ししてもよろしいですか」
皇女は眉を寄せた。朧な記憶を探って、ああ、と思い当たったように呟いた。
「……大伯父様?」
確かに彼女が覚えている「ヴィランド公爵」は、彼女の大伯父にあたる。しかし。
「いえ、現在はハルトウィン卿であらせられますギルトラント=ジェラール閣下です」
「ギル……? もしかして、ギィにいさま?」
幼かった彼女は舌足らずの発音で、かの人をそう呼んでいた。そうです、と頷けば、いいよ、と許可を得られたので、ライゼルトは袖にかかっていた手を外して扉を開けた。
「ディスフォルク卿ではないか。侍女の一人もおらぬのか。せっかく皇女付きの美人が見られるかと思っていればこれだ」
開口一番の文句に、ライゼルトは半眼になった。
「……ご期待に沿えず申し訳ありません。皇女殿下には今侍女はお付きしておりませんので、ご用件がそれだけならこれで――」
「待て待て。少しふざけただけではないか。それで皇女殿下は」
「起きておられます。ローヴァイン卿閣下とラフィネール卿閣下と、イシャーウッド卿閣下もご挨拶を?」
ヴィランド公爵の後ろに立つ三人にも声をかければ、もちろんと肯定が返ってきた。否定されるとは思っていなかったので、ライゼルトの方も特にどうということもなく体を脇へ寄せて招き入れた。
「ああ、シェラン様……!」
真っ先に皇女の元へ駆け寄ったのはラフィネール卿である。皇女は一瞬身を硬くしたようだが、入ってきた四人が眩い純金の髪を持っていることから拒絶はしなかった。
「シェラン様、覚えておられましょうか。わたくしです、マルヴィリアですわ。以前はマリアねえさまと呼んで頂いておりました」
跪いて手を握り、切々と訴える様子は、まるで何かの劇の一場面のようである。
皇女はまじまじとラフィネール卿を見つめ、記憶の中から知っている部分を探そうとしているようだった。
「…………マリア……ねえ、さま? 薔薇の刺繍の手巾をくれた、ねえさま?」
ラフィネール卿の涙腺が決壊した。嗚咽を殺すこともせず、彼女は自身よりずっと幼い皇女を、縋りつくようにして抱きしめた。
「ええ、ええ、お渡ししました……! 拙いものでしたのに、貴女様はとても喜んで使って下さった……!」
五歳未満の幼児が手巾を使ったも何もないだろうが、思い出の中の皇女はだいぶ美化されているらしい。
「マリア、姫が窒息するからその辺で」
号泣するラフィネール卿を皇女から引き剥がしたのは、彼女に良く似た面差しの青年だった。姫、とこちらも皇女に呼びかけて、他と並んで膝をつく。
「――……我が君」
喜びと、歓迎と、懐かしさと――様々な感慨が入り混じった声に、控えていたライゼルトの方が震えた。
きょとん、としていた皇女だが、その呼びかけに込められたものに何となく気付いたのだろう。椅子の上で慌てて姿勢を正していた。
「……よくぞ、ご無事で」
熱いものが込められた声。絞るように出されたために掠れていたそれは、常人なら意味を取り違えてすわ恋情かと胸をときめかせるものだったかもしれない。だが、皇女は違った。
離れていたとはいえ、彼女が違えるはずがなかった。
女性らしく細いというより、子供らしく小さな手がそっと伸ばされる。それは貴婦人が騎士に求めるものではなく、本当にただ伸ばされたものだった。真正面に陣取った青年の金髪に、ふわりと触れる。
「マリアの兄の、ユリスディートです。……覚えておられましょうか」
皇女はじっと黒瞳で青年を見つめ――うん、と頷いた。
「ユースにいさまね。……と、ジルにいさま」
はい、とユリスディートの左隣で頷いた青年にも手を伸ばした後、皇女は更に左に目を移した。
「ギィにいさま、公爵になったのね。おめでとう」
「ありがとう存じます。殿下こそ……よくぞご無事にお戻り下さいました」
肝の据わった笑みを浮かべてはいたが、常の声にはない、堪えるようなものがある言葉だった。皇女は不思議そうに目を瞬かせた。
「大伯父様は?」
「先の戦の傷が元で、六年前に亡くなりましてございます」
皇女の黒い瞳が見開かれた。六年、と唇が紡ぐ。
「最期まで貴女を案じておりましたが……現世を彷徨うことは選ばなかったようです。私が見れていないだけやもしれませぬが」
現世を彷徨うとは、幽霊になってその辺をうろつくということなのだが、このときの皇女はまだその言い回しの意味をよくわかっていなかった。故に首を傾げていたが、そう、と視線を落としただけでそれ以上を訊く事はなかった。軽く頭を下げる。
「心配かけてごめんなさい。待っててくれてありがとう。……ただいま」
「……っ、お帰りなさいませ、シェラン様……!」
再び泣き出したラフィネール卿に大人しく抱きしめられたまま、皇女は同胞達を見上げた。
「ねえ、今すっごく暇だったんだけど、何か面白いこと、ない?」
「……は?」
ぎょっとしたライゼルトが間に入るより先に、皇女はうん、と頷く。
「ライ従兄様は読書に飽きたなら寝てて下さいばっかりだし。寝るのも飽きたし。神力はどうか知らないけど、体力は復活してるから、ちょこっと街を歩くとか、だめかしら。絶対に護衛の傍を離れないようにするから」
だめ? と小首を傾げる仕草があざとい――と思ったのは、ライゼルトだけのようだった。金髪の皇族四人は、どうも九年ぶりに会う皇女殿下の上目遣いと甘えた声にやられたらしい。
(ちょろい、ちょろすぎます!)
冷や汗をだらだらと流しながら、それでも九年前の失敗があるのだからまさか頷きはするまいという予測は、少々甘かったらしい。
「わかりました。従兄上に図ってみましょう。そこのセライネの倅も来い」
「……具申致しますが、自分はやめておいた方がよろしいかと存じます。皇女殿下は術の行使に慣れておられません」
一応、意見具申という形で諌めたという名目を立たせるために、半ば諦め気味で言ってみたが、そんな覇気のない言葉にこの人達が動かされようはずもなかった。
渋い顔をする皇太子に対して、苦笑して賛意を示したのはライシュタット卿ジェレストールである。
「よろしいではありませんか。幸い、護衛騎士が足りぬということもありませんし。姫様も寝てばかりでは、それは退屈でしょう。こういう機会は滅多にないのですし、数日お忍びを楽しまれても問題はないのでは」
現在トスタル島には、到着したばかりの四人の他、皇太子を筆頭にアルモリック卿、ライシュタット卿、カルスルーエ卿、リヒトクライス卿と合計九人皇族が揃っている。全員が指揮官資格を持つ騎士位(聖・正騎士)を持ち、かつこのうち三人が近衛騎士。これらに加えて皇太子及び皇女警護のための近衛騎士団の中隊が一つと、ヴィランド公爵ハルトウィン卿ギルトラントが率いてきたジェラルド騎士団の大隊が一つ――ということで、そこそこの数の戦力が集結していた。皇女がちょっと近くの町を散策するための護衛に数人を割いたとて何の問題もない。
「後学のためにもなりましょう。何でしたら、私がお供しましょうか」
目を輝かせる皇女の頭を撫でるライシュタット卿。それを眺めていた皇太子は、おもむろに低い声で側近を呼んだ。
「……ジェス」
「はい」
「これを」
訝しげな顔をしながら皇太子が差し出した紙を受け取ったライシュタット卿は、それに目を走らせてから笑顔を主に向けた。
目が笑っていない。
「お前はデルフィニアとの交渉の使者だ。皇女の護衛に付き合っている暇などないぞ」
「普通はそこのヴィランド公爵が拝命すべきものではありませんか」
「日付を見ろ、昨日付けだ。それにギルがこちらに来ると連絡が入るのも遅かったしな。巡り会わせというよりも、日頃の行いだろう」
「なんと心無いお言葉。今日この日まで誠心誠意、殿下の御為に尽くして参りましたというのに、そのようなお言葉を賜る日が来ようとは……」
「くだらん小芝居をしていないで、さっさと取り掛かれ。――シェラン」
何となく口を出してはいけなさそうな大人の会話の行方をはらはらしながら見守っていた皇女は、突然名を呼ばれて飛び上がった。
「はいっ」
「……。……こちらへ」
皇女は言われるままに父の傍へ歩み寄る。皇太子は紫の双眸を柔らかく和ませると、そっと娘の頭を撫でた。同じ年頃の少女よりも更に低い位置にあるそれは、座ったままの皇太子とちょうど同じほどの高さにあった。
「私としてはあまりお前を目の届かぬところへやりたくはないのだが、どうしても行きたいか」
皇女は肩を落とした。
「……だめ、ですか」
「そういうわけではないのだが……決して護衛の傍を離れないこと、彼らの言うことをきちんと聞き容れて危険は避けることを約束できるか」
皇女は弾かれたように顔を上げた。
「えっ、いいの?」
「約束できるか」
「できる! ちゃんと守る! ほんとにいいの!?」
約束を守れるなら、と頷く父に、皇女は思わずというように抱きついた。
良家の子女は感情を抑えて淑やかに振舞えと教育されるものである。その筆頭たる皇女としては十四歳にもなってこのような行動は褒められたものではないし、皇太子も意外だったようだが、それは一瞬瞳が見開かれただけで言葉にはされなかった。それでなくとも九年ぶりの再会を果たして間もない。皇太子の中では未だに「娘は五歳」の感覚が残っていたこともあり、彼は笑って娘を抱き止めた。
「では準備しておいで。マルヴィリア、頼めるか」
「……はい! シェラン様、いらせられませ。街へお降りになるならまずお着替えが必要ですわ。他にも色々としなければなりません。お手伝い致しますわ、参りましょう」
公爵令嬢でもあるラフィネール卿マルヴィリアが嬉々として侍女の真似事をしようとしている様はある意味で非常に異様な光景だったが、苦言を呈するほど勇気がある者がいるわけでもなかった。
ラフィネール卿に急き立てられて皇女が出て行った後、部屋には妙な沈黙が落ちた。
「……さて」
妙な沈黙を断ち切った皇太子は、娘に見せていたものとは違いすぎる笑みを口元に佩いた。
「言うまでもないだろうが――アルモリック卿、カルスルーエ卿、リヒトクライス卿、ローヴァイン卿、イシャーウッド卿。それにルジェット卿、ディスフォルク卿、ウィズベルト卿。何事もないよう、頼むぞ」
もちろんです、と頷く以外の返答は許されないナニかがあった。




