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其は泡沫の夢の如く

本編開始四年前のある日。

 古賀月弥には、忘れられない記憶がある。



「つぅ、走ったらだめ!」

 車から降りて駆け出そうとした自分の腕を、一番上の姉が掴んだ。

「駐車場では、お父さんかお母さんと一緒じゃなきゃだめって。いつも言われてるじゃない」

「今は誰もいねーじゃんよ! 道路にも走ってないし!」

 舗装されていない田舎道は時折軽トラックが行き交うくらいで、今は人一人見当たらない。

 山奥の田舎に隠居し、細々と野菜を作って生活している祖父母の家へ遊びに来るのはこれが初めてではない。もう何回も来ていて、周囲の状況もなんとなく見ればわかるような年齢だったから、余計に年長者ぶった長姉が煩わしかった。

「でもだめ。こういうときはいつも注意する癖をつけることが大事なの」

 後から下りてきた次姉が苦笑しながら、同意を示すように頷くのがますます気に食わなかった。

「いっつもびくびくして隠れてるなんて、そんなの男らしくない!」

「この馬鹿! 男らしさと自分の命と、どっちが大事なの!」

「男には命をかけなくちゃいけない時があるんだって、父さんが良く言ってるだろ!」

「あっそう。じゃあくっだらないことに命賭けて、さっさと死ねば?」

 腕組みをして、彼より高い目線を最大限に利用して見下ろしてくる長姉の憎らしさといったらない。いつもは庇ってくれる優しい次姉は、苦笑しながら『謝った方がいいよ』と長姉の背後で口パクする。

 勝ち誇った長姉に一発お見舞いしたいと拳を固めていた時、母が声をかけた。

「あんた達、また喧嘩して」

「つぅが下らないことで意地張るから。ねぇ、星羅」

「……うーん。お姉ちゃんも言い過ぎかもだけど、つぅちゃんも往生際が悪いね」

 要領を得ない言い方に首を傾げたのは彼自身――月弥だけで、母は納得したようだった。

「陽子はもっと言い方に気をつけなさい。いつも言ってるけど、あんたの言い方は正しいけどきつ過ぎる。月弥は、お姉ちゃん達に言われるのが悔しかったら、もっと後先考えて行動しなさい」

 返事は、と言われ、はぁい、と不承不承答える。

「お祖父ちゃん家について早々に喧嘩なんかしないの。何事かって、びっくりしてるよ」

 母が示した方向を見ると、実際にびっくり――というか、落ち着かなさそうに手を揉んでいるのは祖母だけで、祖父の方は満面の笑みだ。

「いや、美空さん。男の子はそのくらい威勢があるほうがいい。姉二人にやいのやいの言われて黙ってるようではいかんぞ」

「あなた、そんな無責任な……」

 呵呵大笑する祖父に、祖母が苦言を呈する。いつものことだった。

「じいちゃん!」

 月弥は姉弟の中で真っ先に駆け出した。体当たりするように祖父に飛びつく。年を取ったとはいえ、若い頃から鍛えているらしい祖父は、小学生の体当たりなど難なく受け止めた。

「おお、強くなったな。月弥は何年生になった?」

「三年生! 星ねえは四年で、陽ねえは六年!」

「道理で。大きくなったなあ!」

 祖父は大きな手でくしゃくしゃと月弥の髪を掻き回してきた。それを振り払って彼は言う。

「じいちゃん、約束! カブトムシとりに行こう!」

 夏休みに入り、この父方の祖父宅に行くことが決まった時に電話でそう約束したのだ。祖父はきちんと覚えていてくれたらしく、大きく頷いた。

「いいぞ。もう準備もしてある」

「やったあ!」

 すぐにでも家屋の裏手にある山の中へ駆け出しそうな月弥だったが、肝心のカブトムシは早朝にしか活動しないということを指摘された。それも先ほどまで遣り合っていた長姉にだ。

「まぁま、そんなに急がないで。お隣から頂いた西瓜を冷やしてありますから、荷物を下ろしたらおやつにしましょう」

 不機嫌な子供を釣るのは、存外に容易い。


 祖父宅まで来るのは車で半日、高速道路を走らなければならない。到着した時がちょうど三時というおやつの時間だったこともあり、滞在中に必要な荷物を車から下ろす作業と、夕食の準備の手伝いだけでその日は終わった。

 元々町に家を持っていた祖父母だが、祖父の定年退職を機にこの山奥へ移住した。祖父母の実子である父はボケた時にどうするのかと父の弟達も巻き込んで反対したそうだが、一度決めたら引かないのが祖父である。祖母の趣味が家庭菜園で、祖父自身も農家の出身だったことも手伝って、改めてこの地で余生を送ることにした――という話は、カブトムシやクワガタムシに夢中な月弥にはどうでもいいことである。

「罠は仕掛けてあるからな。明日の朝は四時に起きるぞ」

「うん。目覚ましセットしとく」

 これこそもはや絶滅危惧種ではないかと思われる囲炉裏を囲んで明朝の算段をつける彼らに、他の家族は呆れ顔だ。

 それでもこれは休暇である。誰も文句は言わなかった。目覚ましがうるさいからと月弥と祖父だけ少し離れたところに布団が敷かれたが、それも当然のことだっただろう。



 翌朝、月弥と祖父は目覚まし時計に起床時間を告げられ、まだ真っ暗な中布団から抜け出した。

 顔を洗い、昨夜のうちに祖母が作って冷蔵庫に入れてくれていたおにぎりを電子レンジで温め、冷たい麦茶で頭をすっきりさせた。

 できるだけ音を立てないようにしていたつもりだが、殺しきれなかった物音で誰かが起きたらしい。ん、という声が聞こえてきた。

「んん……つぅちゃん? 行くの?」

「星羅、起こしてしまったか。一緒に来るか?」

「星ねえも行く?」

「ううん、行かない。まだ寝る。行ってらっしゃい」

 一旦体を起こした次姉だが、見送りの挨拶をした次の瞬間には再び布団へ潜り込んでいた。山間部の早朝は寒いのだ。

 その様に顔を見合わせてぷっと吹き出した月弥と祖父は、意気揚々とまだ覚めやらぬ山へと繰り出した。その間にも、うっすらと朝日が山肌を縫って手を伸ばしてくる。

「六時になったら帰るぞ」

「わかった」

 時計を指して時間を確認しつつ、祖父が仕掛けたという罠の場所へ向かう。

 罠と言っても大したことはない。前日に木の肌に蜂蜜か砂糖水を塗っておくだけ、捕まえられるかどうかは虫捕り網を握り締める月弥の、虫捕りの才能にかかっている。

 しかし悲しいかな、月弥は未だ祖父を越える数を捕れたためしがない。

「じいちゃん、勝負しようよ。どっちが多く捕れるか」

「またか。いいぞ、去年からどれだけ成長したか見せてもらおう」

 ノリのいい祖父は快諾した。二手に分かれる。

「足元に気をつけてな。赤い紐を巻きつけてある木が罠を仕掛けたやつじゃ。川の方には行くなよ」

「わかってる」

 何度も訪れたことのある山だから、月弥も地形はわかっている。赤い紐が付いた木を求め、森の中を歩き始めた。

「よっしゃ、カブト見っけ!」

 息を殺し、足音をひそめて近寄り、虫捕り網を振るだけで面白いように取れる。大き目の虫籠を持ってきていて良かった。

 夢中になって捕っていた月弥だが、周囲に光が満ちてくると手を止めて腕時計を見た。

「もうそろそろか……」

 時刻は五時四十五分を指していた。来た道を振り返り、戻ろうとしたとき、喉が渇いていることに気付いた。

 月弥は足を止めた。ここから少しだけ外れればすぐそこに小川がある。浅瀬だから落ちて溺れる心配もない。

(少しだけだから)

 誰にともなく心の中で言い訳し、月弥は小道へ逸れた。ちょろちょろという音が彼を迎える。

 コップなど持って来ていなかったので、流れる透き通った水を手で掬って飲む。何度か繰り返し、もういいや、と立ち上がったときだった。


「そこな子供。訊きたいことがある」


 まず、誰もいないと思っていた早朝の山の中で声をかけられたことに、死ぬほど驚いた。そして声のした方へ顔を向けて、二度驚いた。

 人は、二人いた。否、問題は人数ではない。月弥が間抜けにもぽかんと口を開けることになった原因は、その二人の造作であった。

 人間とは思えないほど美しかった。

 双方共に金髪で、一目で外国人と知れた。一方は淡い紫の目をした優しそうな女性だ。月弥は高校生かと思ったが、もっと上と言われても納得してしまうだろう。

 もう一方は鮮やかに青い、サファイアのような目をした……こちらも体型から判断するに、女性である。しかし月弥を射抜くように見つめる鋭い眼光は、女性にあらざるもののように思われた。

 青い目の女性が口を開いた。

「突然申し訳ないが、どうか教えて欲しい。子供、皇女殿下を知らぬか。そなたと同じ黒い髪に黒い瞳の、聡明な御子だ」

 前半部分はともかく、後半は非常に主観的な情報であった。それ以前に。

「コウジョデ……? ソウメイって何?」

 まだ小学三年生の彼には、難しい単語が多過ぎた。紫の目の女性が困ったように笑う。

「こうじょでんか、よ。聡明は、賢いという意味。もしかしたら、シェランと名乗っておられるかもしれないわ。知らない?」

「……知らない」

 どれも聞いた事がない単語だった。首を振る月弥を見て、二人の女性はあからさまに落胆を示した。それにどうしてか月弥は、とても申し訳ない気持ちになった。彼が悪いわけでは決してないのに、昨日姉と喧嘩したときとは打って変わって、激しい焦燥が彼の胸を責め立てた――この人達に、こんな顔をさせてはいけない。

 その感覚に、彼は覚えがあった。

(星ねえが泣いたり、怒ったりするときに、似てる)

 血の繋がらない次姉が感情を高ぶらせた時、似たような感覚を覚えることがある。それは目の前の二人に感じるものとは比べ物にならないほど弱いけれど、確かに彼を苛む。

「ねぇ、本当に? 本当に、知らないかしら。黒い髪に黒い瞳の女の子。きっとあなたと同じくらいの年齢なのよ」

「……悪いけど、知らないです。それに日本人はみんな、黒い髪に黒い髪って言われます」

 外国ならともかく、ここは日本だ。そんな外見的特徴だけでたった一人を見つけ出そうなど不可能に近い。

 青い目の女性が腕を組んだ。

「おかしいな……確かにこの辺りだったのだが」

「ええ。神殿で確認した時は確かにこの周辺でした」

「階層が重なっていた可能性もある。戻って再確認した方が良いやもしれぬ」

「ですが、この世界であるならばもう一度繋ぐのは難しいのでは」

 何やら難しそうな話を始めた二人である。蚊帳の外に置かれた月弥は、そろそろ腹減ったなと考えていた――

「子供」

 ――ところへ再び呼び掛けられ、彼は「はいっ」と返事をして背筋を伸ばした。

「本当に知らないか。シェランティエーラ=リディオス皇女殿下、黒い髪に黒い瞳の少女だ。我々にとって、とても大切な方なのだ。あの方のためならばこの命など惜しくは無いほどに大事な方だ。謝礼ならばいくらでも取らせる。知っているのなら、どうか隠し立てせずに教えて欲しい」

 二つの美しい顔が泣きそうに歪んでいた。それがきりきりと月弥の心を締め上げる。

 だが、彼が返せる答えは一つだった。

「黒い目に黒い髪の女の子ならたくさん知ってるけど、そんな名前の女の子は知らない。僕は今朝は四時半からこの辺を回ってるけど、女の子はいませんでした」

 完全な事実である。音だけ聞いていれば外国語の歌のように美しいのだが、そんな長々とした名前の持ち主など縁がない。

「そう……」

 とうとう優しげな女性は俯いてしまった。

「親戚の子ですか? 迷子?」

「ええ。ずっと探しているの。本当なら自力でお戻りになれるはずだけれど、何かお戻りになれない事情があるのかもしれないの」

「怪我して動けなくなってるのかもしれませんね。僕もその子を見つけたら、親戚の人が探してたよって教えてあげます。どこに住んでるんですか? ここから遠いですか?」

 こんな山の中で迷って怪我をして動けないなら大変だ。家が遠いなら更に心配である。それにこの人達の口ぶりから察するに、相当なお嬢様ではないかと思われた。

「怪我……そうね、お怪我も心配だけれど、ご病気かも」

 月弥は慄いた。持病持ちのお嬢様なのか。それはますます心配だ。

「我々はとても遠いところに住んでいる。この機会を逃したら、次に来られるのはいつになるかわからぬ」

 今日帰るということか。それは早く見つけないといけない。

「じいちゃんに頼んで、山狩りしてもらいましょう! 山に詳しい人、俺知ってます!」

「この山にはおられぬ」

「え?」

 焦って浅瀬から元の道に戻ろうとした月弥だが、青い目の女性が言い切ったことに戸惑った。

「この山の中ではない。殿下の気配に我等が気付かぬはずがないのだ。この近辺におられると思ったのだが、気配がまるで無い。そなた、地元の者であろう? そなたが知らぬのなら皇女殿下はおられぬのやもしれん。いずれにせよ、我等がここに留まれるのも限界だ」

「え、でも、今日帰るんでしょう?」

 迷子を置いて帰る保護者など、少なくとも彼自身は聞いたことがない。しかし女性は頷いた。

「ああ。一旦戻ってもう一度確認してくる」

「ちょ、ちょっと待って下さい! 今じいちゃん呼んでくるから!」

「良い」

 背後からかけられた声は苦笑を帯びていたが、このときの彼にそれと感じ取る余裕はなかった。虫籠を抱え、祖父との待ち合わせ場所へまろぶように走る。途中、何度か木の根に躓きそうになった。

「じいちゃん、じいちゃん!」

「月弥! もう少し遅かったら探しに行くとこだったぞ!」

「それどころじゃないよ、迷子がいるらしくってさ!」

「なにぃ!?」

 祖父は血相を変えた。山の中という状況に加え、時間帯が時間帯である。

「今、そこで会った外国人が、今日帰るのに親戚の子が迷子だって、知らないかって俺に訊いてきて――」

「とにかく話を聞きに行くぞ」

 祖父を先導して元来た道を戻る。小川へ行く道を曲がった時、祖父から剣呑な空気を感じ取ったが、今はそれどころではない。

「あの、じいちゃんを連れて来ました!」

 小川の方へ呼び掛けるが、応えはない。祖父が一歩、進み出た。

「わしはこの山を下ったところに住んでいます、古賀と申します。ご親戚の子が迷子と孫から聞きましたので、何かお手伝いできることがあれば、と……誰もおらんじゃないか」

「え? そんなはずないよ……!」

 拍子抜けとばかりに白けた目を向けてくる祖父に言い返しながら、月弥は小川へ下りた。確かにここで、人とは思えぬほど美しい女性達と言葉を交わしたのだ。しかし。


「いない……」


 まるで、そこには最初から人などいなかったように。

「迷子は見つかったんじゃないのか」

 祖父が背後から声をかけてくる。だが月弥は首を振った。

「ここにはいないかもしれないって言ってたから、別の場所に行ったのかも」

「しかしなあ、本当にこの辺で外国の子が迷子なら、土地の者を待つと思うが。待っていないなら見つかったんだろう」

 言われてみればそんな気がする。そうなのかもしれない――小川の中で、祖父に向かって立ち尽くす彼の背後から、何やら甘い香りが漂ってきたのはその時だった。祖父の目が月弥を通り越して、驚愕に丸くなる。

「木蓮……? 蓮華も。なんでこんな季節に、こんなところで……」

 月弥が振り返ると、川から一本の木が生えていた。真っ白な花が風に揺れている。その根元には、月弥も良く知る蓮華草の花が咲いていた。

 しかしどちらも、川から直接生えるなんてありえない種類の植物だったはずだ。それにさっきまでここに木なんか生えてなかった。自信を持って断言できる。

 呆然とする二人の目の前で、更に不思議なことが起こった。

 木々の隙間から零れ落ちてくる光に溶けるように、その姿は薄くなっていく。徐々に向こう側が透けて見えるようになっていき、最後には蛍のような、蛍よりも小さな光の粒となって、朝の光の中を空へと上っていった。

「月弥……」

「……何、じいちゃん」

「お前が会ったのは、観音様かもしれん」

 南無阿弥陀仏と手を合わせて小さく唱える祖父に、月弥は訊いた。

「カンノン様って、何?」

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