講師ミスダツの提案
あいつみたいな人間とは、絶対に付き合いたくない。
Pを知る人の中には、そんなことをいう人間がいる。
理由を訊くと、こんな答が返ってくる。
話があちこちに飛ぶ。話についていけない。何を言いたいのか、何を考えているのか、まったく分からない。
確かに彼の話は、分かりづらい。話の展開が読めない。
しかし、僕に言わせると、その部分こそが、彼の最大の魅力なのだ。
彼の得意技のひとつが、一見、本筋とは関係なさそうにみえる複数の話を、一つの話にまとめること。
Pの話は、へたなテレビ番組より面白い。彼の話だったら、何時間でも聞ける。
しかし、そんな僕でも、たまにはこんな感想を持つこともある。
こいつほど、面倒くさい男はいない。
話が脱線したままで、終わることがあるからだ。
今のPが、それだろうと、そのときの僕は思っていたわけだ。
「なあ、おい」と僕は言った。「どうせ、最終的には守護神の話に戻ってくるんだろ。だったら、手短に話してくれないかな」
ところがPは僕の言葉に反応することなく、ギヒヒと笑って「脳サーチを覚えているか?」と言った。
懐かしい言葉だった。
どうやらPの頭の中では、脳サーチと守護神が、きっちりと繋がっているらしい。話が空中分解することもなさそうだ。
「もちろんだよ」と僕は言った。「あの日のことは、昨日のことのように覚えている」
最初にその言葉を聞いたのは、東京で映像を学んでいた時。心に残る映画、という題での自由発表の場。十数年前のことだ。
僕たちのクラスは十二人。
けっして多い生徒数ではない。でも、全員が発表するとなると時間が足りなくなるということで、講師のミスダツは、挙手した生徒の中から、何人かを指名するという方法をとっていた。
四人目に指名された女の子が挙げたのが「少年時代」だった。
彼女がその映画を口にしたとき、生徒達の間にため息のような声がもれた。
授業中に反応らしい反応をみせたことのないPまでもが「ああ、あれな、あれは良かった。今日の一番は、この映画できまりだな」とつぶやいた。
「この映画を見たことがある奴は手をあげろ。テレビでもいい、DVDでもいい」
いつものようにミスダツが友達口調で言うと、十一人の生徒が手を挙げた。
観ていなかったのは、僕だけだった。
そんな僕に、ミスダツが声をかけてくれた。
「もし、なんだったら、俺のを貸してやろうか」
誰にでも気さくに話しかけるミスダツを、僕は尊敬していた。
卒業してからも連絡を取り続けよう。
心の中では、いつもそんなことを思っていた。
でも当時の僕は、生意気盛り。ありがとうございますも、お願いしますも、出てこなかった。
「結構です。見たいときは自分で買いますから」
怒られるかと思ったが、ミスダツは笑いながら言った。
「だな、必要なものは買った方がいい。そうしてもらえると、映画界も潤う」
それからミスダツは、その女の子に顔を向けた。(ちなみにその女の子は、男子生徒の間では、マドンナと呼ばれていた)
「どこが、どう良かったのかな」
「全部です。見るたびに、違うところで泣いてしまうんです」
「ほほう」
ミスダツは、してやったりというような表情を浮かべた。
「優れた映画とか小説は、大抵そうなんだ。見返す毎に印象が違う。読み返す毎に、感動の度合いが違う。感動の種類も違う」
ミスダツの言葉が終わるのを待っていたマドンナが話しはじめた。
「いつ見ても泣いてしまう場面は、母親役の、あの……」
と言ったところで、彼女は、きょとんとしたような表情を浮かべると、切れ長の目をぱちぱちさせた。
「ほら、篠田監督の奥さんの……」
どうやら、母親役の役者名を忘れたらしい。
僕はマドンナに視線を向けたまま、隣のPに小声で話しかけた。
「教えてやれよ。マドンナに近づく絶好のチャンスだぞ」
しかし、何の反応もなかった。
まさか、マドンナに惹かれていることがバレたと思って、恥ずかしがっているんじゃないだろうな。
ちらりとPに目を向けてみると、しかめっ面をして天井を睨んでいた。真剣に何かを考えているときの顔だった。
何か言おうと思ったが、やめた。めったに見せない表情に気後れしてしまった。気の利いた言葉が見つからなかった。
教室に飛び交っていたのは、つぶやきに似た生徒たちの声。
「化粧品のコマーシャルに出ていたよな」
「鬼畜って映画にも出ていたぞ」
「そう、その女優よ、えっと、あのぉ」
「一切、家事をしないということでも有名よね」
大多数の生徒の頭の中には、その女優の顔がはっきりと映っているらしい。しかし、五分たっても、十分たっても、女優の名前は出てこなかった。
こんなことで時間をつぶすのは、時間の無駄ですよ。女優の顔が浮かんでいるのなら、マドンナに続きを喋らせてもいいんじゃなんですか。
そんなことを言ってやろうかと思いながら、ミスダツに目を向けると、彼も、考えるような目で天井付近を睨んでいた。
女優の名前を最初に思い出すのは、誰だろう。
やっぱりマドンナかな。それとも、ほとんどの映画を映画館で観たと豪語している講師のミスダツだろうか。
そんなことを考えながら、みんなの様子をながめているうちに、僕の気持ちが苛つき始めた。たぶん、それは、
「どうして、出てこないんだ」
「顔はこんなに、はっきり見えているのに」
「名前は、ここいらあたりまで、でてきているんだけど」
「ああ、くやしい」
といったような、ネガティブな声だけを聞かされたせいだろう。
「なあ、おい」僕は、思案中のPに語りかけた。「まだ、思い出せないのかよ」
しかし彼は、姿勢をくずさなかった。手の甲で、ハエでも追っ払うような仕種をしただけだった。
取りつくシマもないというのは、こんな状態をいうのだろうか。
心の中でつぶやいたとき、ひとりの女優の名前が、ひょこっと浮かんできた。
岩下志麻。
直感的に、これだと思った。
岩下志麻は、メナード化粧品のCMをやっていた。彼女の夫は、映画監督の篠田正浩。
そういえば「少年時代」のDVDのパッケージを見たことがある。レンタルビデオ店の棚。ランドセルを背負った少年の後ろ姿が載っていた。
胸のつかえが取れたような気がしたが、疑問が湧いた。
どうしてこんな国民的大女優'の名前を、みんなは思い出せないのだろう。
不思議に思いながら、Pの肩を指先で突っつくと、彼は胡散臭そうな目を向けた。
「邪魔するなよ」
僕はかまわずに小さな声で訊ねた。
「その女優って、極妻の、あの女優だろ」
と言ったところで、Pは僕の口を塞いだ。そして怒ったような声で言った。
「絶対に言うなよ。言ったら絶交だぞ。二度と口をきいてやらないからな」
訳が分からなかった。僕は素朴な質問をした。
「女優の名前が、知りたかったんじゃなかったのかよ」
「うるさい」
何を思ったのか、Pは、ぱっと立ち上がった。
椅子音に気づいたミスダツが、我に返ったような表情を浮かべて、こっちを見た。
「思い出したのか?」
「いや」Pは首を横に振った。「もし、その女優の名前を思い出しても、俺には言わないで下さい」
当時のPは、誰に対しても、自分のことを俺と呼んでいた。Pは視線を生徒たちに向けながらつづけた。
「自分で思い出したいんだ。俺に、余計な親切はしないでくれよな。頼んだからな」
教壇の前で、その様子をうかがっていたミスダツが、にたっと笑った。
「じゃあ、こうしよう。母親役の女優の名前を思い出したら、ひとりずつ報告に来い。ネットで調べるも良し、雑誌で調べるも良し。でも、自分一人で調べること。教え合うのは禁止」
そこでミスダツは、生徒一人一人に目をやりながら質問した。
「この中で、思い出した奴はいるか?」
答がわかっていても、手を上げないタイプの人間はどこにでいる。僕もPも、その中の一人だったが、その日、僕が手を挙げなかった理由は他にもあった。
もしここで、映画を見ていない僕が、その女優の名前を言うと、場の空気が変わってしまうかもしれないと思ったからだ。
「こんな機会は、滅多にない。」
ミスダツは満足そうな笑みを浮かべてそう言うと、教壇から降りて、机の間を歩きながら付けくわえた。
「これから、脳サーチの話をすることにする」