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サトル氏の憂鬱と希望の鐘の音

(世界中で一番おいしい食べものは、トラヤのヨウカンです。ぼくの夢は、欲しいときに、欲しいだけのトラヤのヨウカンを食べることができるような大金持ちになることです)

 これは、地べた里庵のおばちゃんのいとこに当たる個人タクシーの運転手、サトル氏が小学校の卒業アルバムの寄せ書きに書いたものらしい。

「この前のお客さんが、遊びに来ているよ。サトル兄ちゃんが、泣いて喜ぶお土産を、いっぱい持って」

 おばちゃんが受話器を置いてから、七、八分で駆けつけたサトル氏だったが、羊羹に吊られてやって来たわけではなさそうだった。

 カウンターの上に、これ見よがしに並べられた化粧箱入りの虎屋の羊羹には見向きもせずに、僕の横の椅子に腰を下ろした。

「あなた様に電話をかけようと、何度も、思ったのですが、踏ん切りが、つかなかったものですから」

 僕に会いたかったと言う割には、歯切れが悪かったし、顔色もすぐれなかった。

 となると、理由は一つしか考えられない。この際、回りくどい訊き方は失礼になる。

「筋肉が、また固くなったんですか?」

 おばちゃんに聞こえないような声で言うと、サトル氏は寂しそうな笑いを浮かべて、天井に向けて、両手をまっすぐに伸ばして見せた。

「おかげさまで、このとおりです」

 それからゆっくりと顔を左右に振って、両耳を僕に見せた。

「補聴器がなくても、ちゃんと聞こえます」

 となると、さきほどの電話だ。

 小形羊羹が、48本。サトル兄ちゃんが最初の給料で買ったのと同じものが、4本。全部で二万五千円ちかくするんだからね、はやく取りに来ないと、他の人に持っていかれちゃうよ。

 そのようなことを、鹿児島弁で言っていた。まるで、幼稚園児にでも言うような言い方が、彼から笑顔を奪ったのかもしれない。

 しかし、それは関係なかった。

「誰一人として、気づいていなかったのです」

「何をですか?」

「私のひどい肩こりです。両手が肩から上には上がらなくなっていることも、知らなかったんです。私のヨメも、子供も、私の兄弟もです」

 ため息交じりに答えたが、彼ぐらいの年齢になると、記憶があやふやになることがあるらしい、僕は頭に浮かんだ質問を、そのまま口にした。

「それは、そのことを、秘密にしていたからではないんですか?」

「いえ」サトル氏は首を振った。「結婚する前に、妻には詳しく話しました。こんな俺だけど、それでもいいかと。それに、子供たちも交えて、自分が体験したことを話したことが何回かあります。人生には何が起きてもおかしくない。嘆くな、諦めるな。道は一つじゃない。必ず、別の道がある。探す気さえあれば、必ず見つけることができる。自分の体験から悟ったことを、家訓として残そうとしたわけですが、残念ながら、誰一人として覚えていませんでした」

 おばちゃんが淹れてくれた濃い深蒸し茶を飲みながら、僕はしばらく考えてみた。

 彼はいま、こんなことを考えているのかも知れない。

 小学生の頃、急に筋肉が動かなくなっあの件は、夢だったのかもしれない。

 それが現実に起きたことだと勘違いしたまま、自己暗示にかかっていたとしたら、この数十年間悩み続けた俺の人生は、一体何だったのだろう。

 しかし、僕はその考えを捨てた。他人事とは言え、簡単にそのような結論を出すべきではない。

「幼なじみに訊いてみたらどうでしよう。当時のことを記憶している人が、何人もいらっしゃるかもしれませんよ」

「調べました」サトル氏は力なく首を振った。「十三人全員が覚えていませんでした。校庭で私が倒れたことも、先生に抱きかかえられて保健室に運ばれたこともです」

 そこで、カウンターの向こうで僕たちの会話を聞いていたおばちゃんが、苦笑いを浮かべた。

「実を言うと、私もその人たちと同じなの。この前は、サトル兄ちゃんが何の話をしているのか理解できなかったの。あんなふうにまとめたのは、話が長くなりそうだったから。ごめんね、サトル兄ちゃん」

 それに対してサトル氏は、怒ることはなかった。

「私は、今、自己嫌悪に陥っているんです」

 カウンターに視線を落としたままで、そう言った。

「どんな?」

 僕の湯飲みに、お茶を注ぎ足していたおばちゃんが訊ねた。なのに彼は、僕に対するような口調で答えた。

「あの時の感激が、ほとんどなくなってしまったのです。あなた様に対して、申し訳ないことをしているような気がして、仕方がないんです」

 話によると、サトル氏は妻を連れて、あの公園に行ったらしい。そして鉄棒でくるくる回った後、ラジオ体操第一と第二を完璧にこなし、頭のてっぺんを指先で掻いて見せてから、こう言ったという。

 ほら、腕はここまで伸びる。痛くもかゆくもない。俺がいつも言っているだろう。絶対に諦めるな。諦めなければ、願いは叶う。願いは、いつか天に通じる。神様はいる。いつか、姿を現してくださる」

 しかし、妻の反応に、彼は愕然とした。

 大丈夫?

 妻は彼の目を覗きこんで、こうつづけた。

 仕事がきついのなら、気がすむまで休んでもいいのよ。

もし僕が彼の妻だったら、別の言い方をしたかもしれない。

 何でこんなことが、神様と関係あるの。鉄棒や、ラジオ体操なんて、小さな子供でも出来るでしょ。こんなことで、大げさに喜ぶなんて、おかしいわ。頭の調子がわるいんだったら、さっさと診てもらったらどう。

 ちょっと強すぎる気もするが、たぶん、そんなことを言うはず。

 しかし、仮定の話は時間の無駄。いずれにしても、僕は、サトル氏から、あなた様と呼ばれるようなことをした覚えはないのだから。

 僕は、飲もうとしていた湯飲みを置いた。

「この際だから、はっきり言っておきます。筋肉がやわらかくなったことと、耳が聞こえるようになったことは、僕とはまったく関係ありません。奇跡的なことが起きたとき、たまたま、あなたのタクシーに乗っていただけです。第一、僕にはそのような能力はありません」

 しかし、彼はそれをきっぱりと否定した。

「お言葉を返すようですが、私には自信があります。裏付けがあると言っても良いかもしれません」

「本当に、僕と関係があるというんですか?」

「もちろんです」サトル氏は胸元で両手を組むと、肘をカウンターにつけて、顔を少しだけ上に向けた。「あの時の感激が薄れてきたのは確かです。でも、あの言葉の威力は、今も健在です。唱えるたびに、どこからか希望の鐘の音が聞こえてくるんです」


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