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お客様窓口の担当者

 なるほど、その手があったか。

 そのことについて、考えてみると、思いつきとは思えないほどのアイデアだった。

 これさえ手に入れば、Pだって納得する。だとしたら、早めに電話した方がいい。

 そんな結論に達した僕は「じゃあ、またな」と言って、Pとの電話を終えた。

 

 パソコンが立ち上がる時間を利用して、冷蔵庫からコーラを取りだし、椅子にもたれかかると、僕の口から満足のため息がもれた。

 購入時は、値段の高さに何度も躊躇したが、無理して買って良かった。

 人間工学に基づいた設計が謳い文句のアーロンチェアは、いつでも僕を優しく包み込むように受け止めてくれる。世界が認めた椅子。アーロンチェア。心の中まで豊にしてくれるような、ゆったりとした座り心地。

 迷ったら、高い方を買え。これは祖母の口癖だったが、あの考えは間違っていなかった。改めて、そんなことを思った。

 窓の向こうでは、チチチと元気にさえずるスズメの声。しかし、十数年間使用したデスクトップから、ハードディスクの異常を知らせる雑音は聞こえてこない。

 もうしばらく、頑張ってくれそうなパソコンに、嬉しさを覚えながら、よく冷えたコーラを二口ほど飲んだところで、頭の中がすっきりしてきた。

 ふと、予感めいたものを覚えた。

 このあと、なにか良いことが待っているのかもしれない。

 そこで僕は、先ほどまで、頭に浮かんでいた言葉を口にしてみた。

「取扱説明書」

 普段は何も感じない言葉。でも、なぜか、耳に心地よかった。

 予感を確実なものにしたかった僕は、両手を伸ばして、大きな深呼吸をした後、検索サイトに航空会社の名前を打ち込んで、エンターキーを押した。

 ヒット数は、200万件以上だったが、目的のサイトは、ただ一つ。

 上から順に、ホームページを開いていくと、いくつかの電話番号が並んだサイトが現れた。その中の一つに、電話をかけると、ワンコールで相手が出た。

「お電話ありがとうございます」

 短い中にも、聡明さを感じる美しい声。

 大抵の場合、美しい声の持ち主は、顔も美しい。僕はむかしから、美しい顔とか、美しい姿というような、美しいという文字がつく女性に弱い。苦手だ。何も喋れなくなる。

 でも今は、そんなことは言っていられない。

 僕は電話の声に圧倒されそうになりながらも、自分の名前、時候の挨拶、高度の接客サービスに満足したこと、そして用件、という順に一気に話した。

 しかし、喋りながら思った。

 僕の話は、伝わっていないのかもしれない。

 話し終えると、思った通りの反応が返ってきた。

「申し訳ありません。よく聞き取れなかった箇所がありました。わたくしの方から、確認させていだいてもよろしいでしょうか?」

 さすがは一流企業のお客様窓口。担当者のセリフに、喋りが早すぎました。つっかかりすぎです。あまりにも滑舌が悪かったものですから、などというニュアンスは、微塵も感じられなかった。

 だが、感心すると同時に、疑問が生じた。

 どうして、こんな簡単な要望を、くみ取れなかったのだろう。途中でヘッドホンが外れたのだろうか。

 そんなことを頭の隅に思い浮かべながらも、明るい声で「どの部分でしょうか?」と、訊ねたのは、好印象を持ってもらいたかったからだ。

「あのぉ」担当者は少し口ごもったような声で言った。「取扱説明書というのは、サービスで提供している、アイマスクに関する、ものでしょうか?」

 言葉を選んでいる様子に、違和感を覚えたが、話が通じた喜びの方が大きかった。

「はい、その通りです」ほっとした僕は、用件だけを繰り返した。「欲しいのは、取扱説明書だけです。アイマスク型映像機器は必要ありません」

 これで通じなければ、お客様窓口の担当者として失格。

 よく分かりました。それでしたら、一週間ほど、お時間を頂けますか?

 そんな返事を予想していたのだが、まったく違うものが返ってきた。

 十数秒ほどの沈黙の後、彼女は重い口を開くような声で言った。

「このまま、お待ち頂けますか。別の担当者と、変わりますので……」

 語尾の濁し方に、嫌な予感がした。

 保留の音楽を一分ほど聞いたところで、自分の予想が的中したことを知った。

「大変お待たせ致しました」

 男だった。それも、とても低い声。声だけで、電話の向こうの姿が目に浮かぶようだ。

 大柄、するどい目付き、空手か、柔道の有段者。

 僕は持っていた携帯を、握り直して、耳に押し当てた。

「取扱説明書は、アイマスク型の映像機器のものとおっしゃられたようですが、それに間違いございませんか」

「はい」

 即座に答えたのにも関わらす、数秒ほどの沈黙があった。

「結論から申し上げますと」相手は事務的な声で言った。「当社のアイマスクには、取り扱い説明書はついておりません」 

 僕は机の上のアイマスクに目を落とした。

 一見すると、確かにアイマスク。だがこの製品は、過酷な環境下での性能をチェックするための試作品に間違いない。

 それを前提にすると、いま担当が、どのようなことを考えているのか、予想するのは簡単だった。

 僕の住所氏名は、搭乗者名簿に残っている。この電話も非通知ではない。つまり、いつでも僕へのアクセスは可能。

 たぶん彼は、のらりくらりと明言を避ける。そして電話を切った後に、この件に関する会議を開く。しかし、それは時間の無駄。

 マスクは、僕の手の中にあるということは、彼らに、選択肢はない。

 結局は、低姿勢で臨むしかないことに気づくだけ。

 先ほどは大変失礼しました。そのお詫びも兼ねて、そちらにお伺いしたいのですが、ご都合は、いかがでしょうか。

 しかし、またもや予想は外れた。

「失礼ですが」男は丁寧な口調で言った。「お客様が搭乗されたのは、別の航空会社だったのではございませんでしょうか?」

 まさかのセリフ。

 ムカッとしたが、ここで怒ると、クレーマーと間違えられる恐れがある。どうしても取扱説明書を手に入れたかった僕は冷静を装った。

「いえ、間違いありません」それから落ち着いた声で、便名と座席番号を口にした。

「確かに記録には、あなた様のお名前がございます」そこで男はしばらく黙り込んだ。「しかし、おっしゃられるような映像機器は、我が社では使用しておりません」

 ふと頭に、あの若い客室乗務員の顔が浮かんできた。

 やっぱり、彼女にとってあの便は初フライトだったのだ。

 乗客重視の機内サービス。

 そのことしか念頭になかった彼女は間違えて、企業秘密の塊のような試作品を僕に渡してしまった。

 たぶんこの件には、複雑な責任問題が絡んでいる。製造メーカーが外国企業だとすると、国際問題に発展しかねない。

 もし僕から電話をしていなければ、彼の方から出向いてきたはず。だとすると、この担当者は、この件が世の中に漏れるのを防ぐための精一杯の努力をしている真っ最中。

 そんなふうに受け取った僕は、冷静に物事を考えるための時間を、担当者に与えることにした。

「おっしゃる通り、僕の勘違いだったのかもしれません」そう言った後、僕は「でも、もし、何かあったら連絡をください。時間は何時でもいいです。どんな些細な質問でもかまいません」

 と付けくわえてから、電話を切った。


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