自問自答の進化形
僕の脳の中で、何かしらの異変が起きているのかもしれない。
そんなことを思ったのは、その日の夜。湯舟に浸かっていた時だった。
僕のアパートはバストイレ付き。でも、普段はシャワーしか使わない。そんな僕が寝る前にわざわざ風呂を沸かすことにしたのは、浴室の戸棚の上の入浴剤の箱が目に入ったからだ。
中身を確かめると、一個だけ入っていた。ゆずの香りのする炭酸入り入浴剤。三年ほど前、近くにオープンしたドラッグストアーで買ったもの。
肩まで湯に浸かり、ふーっ、と深い息を吐いたところで、ふと思った。
シャワーから風呂に切りかえたのは、自分の意思じゃなかったのかもしれない。
すると、とつぜん、僕の頭の中から会話のようなものが聞こえてきた。
相変わらずだな、お前。
何だよ、相変わらずって。
お前は、昔から女に弱かったということだよ。
おんな? どうしてここで女が出てくるんだ。
しらばっくれても無駄。俺は知っているんだ。風呂を沸かすことにしたのは、入浴剤が、女の声で呼びかけてきたからなんだろう。
どうして、勝手に決めつけるんだ。
勘違いするなよ。責めているんじゃない。良くやったと褒めているんだ。俺の方が先に気づいていたとしても、お前と同じ行動をとっていたよ。
自問自答の意味は知っている。
だが、その時の状況は自問自答ではなかった。頭の中の会話に耳を澄ましている僕も含めて、三人の僕がいたのだ。
まさか、夢の中で風呂に浸かっているんじゃないよな。と声に出しそうになるのを飲み込んで、両手で湯を掻き回してみた。
細かい炭酸の泡が湯面ではじけ、爽やかなゆずの香りが鼻をくすぐった。蛇口をひねると、グキュッという耳慣れた水道管の歪な音が聞こえた。
どうやら、夢ではなさそうだ。
でも、どうして入浴剤が話しかけてきたんだろうな。
賞味期限が切れそうだったからだよ。早く使ってくれってことだったのさ。
賞味期限? 何言ってるんだお前。入浴剤は食べものじゃないぞ。使用期限と言うべきだろ。
うるさいな。そんなことどっちでもいいだろ。お前が知りたいのは、入浴剤が話しかけてきた理由じゃなかったのか。
と、そこでとつぜん会話が途絶えた。
あれっ、どうしたのだろう?
耳を澄ましてみたが、何も聞こえない。
無意識のうちに、してはならないことをしてしまったのかもしれない。
そんな反省を胸に入浴剤が入っていた包装袋に視線を移したところで、また会話が始まった。
入浴剤の役目は、俺たちを風呂に入れたところで終わったんだよ。
じゃあ、このあと、俺たちに何かが起きるわけ?
そう考えるのが自然だな。
たとえば、どんなことが?
溺れる。
ここで?
たぶん。
つまり、俺たちの人生はここで終わるってことになるんだな。
その可能性は非常に高い。
となると、俺たちにとって、入浴剤は天国への案内人ってことになるな。
地獄行きってこともありうるぞ。
僕の望まない方に会話が向かいそうだった。
「何言っているんだ、お前たち。そんなことしか言えないんだったら、さっさと消えろ。二度と出てくるな」
大きな声で言うと、頭の中の会話はぴたりと止んだ。
頭の中に誰も居なくなったのを確認した僕は、湯舟の縁に頭を付けて、天井を見上げながら目を閉じた。
そして、先ほどの声の主について考えてみた。
「私を忘れないでね」
若い女の声だった。
入浴剤が喋るはずがない。声の主は面識のある人物。僕が忘れているだけ。たぶんそれに間違いない。
僕が知っている女性の数は知れている。簡単に思い出せる。と思ったのだが、いくら考えても該当者を見つけ出すことはできなかった。
やっぱり、あれは空耳だった。
ネガティブな思いに包まれそうになったとき、あるアイデアが浮かんできた。
あの脳サーチを試してみよう。
もちろん期待したわけではない。ダメ元。ある意味ジョーク。溺れる者は藁をもつかむ、の百分の一程度の気持ち。
しかし、驚くべき結果が出た。
アイウエオの、アを口にした瞬間、いきなり目の前に文字が現れたのだ。しかし、それは女性の名前ではなかった。
「明日の朝一番」
これまでも何度か言ったと思うが、僕の脳裏に、映像が浮かんでくることは、別に珍しくもない。しかし、それはイメージであって、実体なんてものはない。
しかし今回は違った。完璧な映像として、目の前三十センチほどの空間に金色の光を放って浮かんでいた。
見えていたのは、十数秒。そんなに長い時間ではなかったが、分かったことがいくつかあった。
目を開けると、文字は消え、閉じると現れる。
空中に浮かぶ金色の電照看板。そんな表現がぴったりだが、手で触れることはできない。
眩しいほどに輝いているのに、熱くも痛くもない。
その他に、少し引っかかることがあった。
それは「明日の朝一番」という言葉。
意味は通じる。明日の朝一番に、何かが起きるのだろう。だが、黄金に輝く文字にしては、文学的要素がない。心に響かない。インパクトがない。
「なあ、お前たち」
僕は目を閉じたまま、天井に向かって問いかけた。
「明日の朝一番って、平凡すぎると思わないか。明朝一番の方が、まだ良い。第一、この文字に、金文字は似合わないよな。お前たちだって、そう思うだろう」
だが、何の反応もなかった。しばらくして、眠気がやってきただけだった。




