彼女について
「何が、起こってるんですか?」
急に周囲が騒然となって、かりんは不安げに俺を見た。
「今すぐ逃げたほうがいい」
「え?」
「今さっき、この国の法律は全部なかったことになった。だから……これはもう完全な無秩序だ」
目の前のコンビニから、袋にめいっぱい商品を詰め込んだ男達が出てきた。それを止めるようにしてバイト店員が彼らの前に立ちふさがるが、今度はおばちゃん達が無断で商品を車の中に詰め込もうとしているのを見て、そっちを止めようとする。けれど店員はどっちも止めることができず、店の中に戻ると業務用のカッターナイフで、男たちとおばちゃんたちを切り付けた。
車道を見ると、時速100キロ近いスピードで車が警察署の前を通り抜けていく。が、警官はそれに対してあくびをしながらぼーっと眺めているだけである。と、思っていたら警官が思いついたように拳銃を取り出して、ビルの窓をひとつひとつ銃で狙い打って壊し始めた。
……めちゃくちゃだ。
「どうして、あんなことしてるの? どうして……」
「罪に問われないからだ……窃盗罪も、傷害罪も、器物損壊罪も……何も、ないから」
どうすればいい? もう今さら、新しい法律を作る事はできないぞ。全部リセットするには……あ! そうだ。削除するんだ。シックスコードを。このアプリの存在さえ消せば、本当にすべてを白紙に戻せるんじゃないか?
「くそ。ダメだ。アプリの一覧に乗ってない。どうりゃいいんだよ、これ!」
設定画面からアプリの削除を試みるが、削除できない。他に手立てはないのか?
「あの、どうしたんですか?」
「くそ! くそ!! くそ!! どうしたら、どうしたらいいんだよ……このままじゃ、俺……俺は!!」
法令順守の世の中だった。それがなくなった途端いきなりこれだ。せっかく元に戻れると思っていたのに!
「しっかりしてください。とりあえず、どこか安全な所にいきませんか? なんだかここ、怖いです」
「あ、ああ」
俺の取り乱した姿を見て逆に落ち着いたのか、かりんは俺の腕を引っ張って、人気のない路地裏に連れて行ってくれた。
「全部、俺のせいだ……俺が、こんな物でへんな法律を作っちまったから……こんな! こんなことに!」
最初は単なるイタズラのつもりだった。ムカツク奴らに一泡ふかせてやるだけのつもりだった。けれど……これは、やりすぎだ。いきすぎだ!
「あの? どういうことですか? 私、さっぱりわけがわからないです」
かりんがまるで小さな子供をあやすように優しい声で、俺の顔をのぞきこんでくる。
こうなってしまった以上は……この子に本当のことを話して、何か知恵を出してもらうことに期待するしか、ないか。俺は意を決すると、かりんの瞳を見つめ返した。
「聞いて欲しい。俺が、君のお兄さんを殺したようなもんなんだ。このアプリの力で」
「え? あなたが、お兄ちゃんを殺したって……どういう?」
「こいつでさ。書き込んだ内容そのままに、思い通りの法律が施行されるんだ。ツインテール記念日も、スク水感謝の日も……全部、俺が作った」
「そんな。こんなスマホのアプリなんかで、そんなことできるわけないですよ!」
「信じられないだろうけど、できるんだよ。こいつは、シックスコードは、ホンモノなんだ」
信じられる話じゃないけれど、でもこれは真実だ。
「そういえば私。聞いたことがあります」
信じてもらえないだろうなと思っていたが、かりんは何かに思い当たったようで、ハっと顔をこわばらせた。
「欲望アプリの噂」
「欲望、アプリ?」
「時間を止めるとか、他人の体を乗っ取るだとか、未来を自分の思い通りにできるとか……都市伝説か何かだと思ってばかりいましたけど。でも、それがもし本当なら。そんな不可思議な力が存在するなら……」
そんな都市伝説があるとは知らなかった。じゃあ、こいつは……。
「ああ、そうだ。たぶんこいつも、その欲望アプリとかいうやつなんだろうと思う」
「じゃあ、あなたのせい、なの!?」
「ああ、そうだ。俺がやった」
それまで俺を心配してくれていたかりんの優しい顔が、一変した。
「許せない。あなたは、許せない!!」
いや、そりゃそうだろうな。俺こそ諸悪の根源ってやつだ。誰も俺を許してはくれないだろう。
「……好きにするといい。今なら俺を殺しても罪には問われないぞ? いっそ殺せよ。いや、殺してくれ……」
「そんなの! そんなことしても何にもなりません! あなたを殺せばお兄ちゃんが帰ってくるならそうします! でも、そんなことしても……帰ってくるわけないじゃない! 誰も喜ぶわけ、ないじゃないですか!」
「君が喜ぶなら、俺はいいよ。死ねば許されるなら、俺はそれでいい。だって、生きていても何もイイコトなんてないからな。きっとこれから先も……」
正直、ここまで大事になるとは思わなかった。それに、人の命についても軽く見すぎていた。俺がやったことは……重罪どころじゃない。死んで償えるのなら……それでいいかもしれない。
もうどうすればいいのかもわからないんだよ。それならいっそ……。
「そんなの私、許しません。あなたには、この状況を何とかする義務があるはずです!!」
「けど、もうどうしようもないんだ! アプリも削除できない。新しい法律も作れない。だったら、どうすりゃいいんだよ?」
「欲望アプリの噂は、うちの学校でもあったんです。バスケ部の先輩が1年前事故で亡くなった時……それまでぱっとしなかった女子生徒が急にバスケがうまくなったり、彼氏ができたりとか。きっとその人も、欲望アプリを持っていたんだと思います。……確か、倉前涼音って名前だったかな」
倉前涼音。そいつもシックスコードを?
「俺の他にも、いるのか? 欲望アプリをインストールした奴が。なら、そいつに話を聞けば」
「そう、ですね」
「かりんちゃん。君の学校に行こう。倉前涼音って人に会って、この状況をどうすればいいか、話をしてみよう」
「わかりました、それしか道がないのなら。学校はここから歩いて30分くらいの所にあるので、付いてきてください」
かりんの先導で、彼女の高校に向かう。倉前涼音、か。今頼れるのは、そいつの持つ欲望アプリだけだ。
「着きました、ここです」
「ここって、確か。男子バスケ部が強くて有名な学校だよな」
全国区クラスの超強豪だっけか。うちの高校のバスケ部、去年の夏ここと一回戦で当たって、ボロ負けしたんだ。3年のエース安藤の3Pシュートが有名なんだ。
「はい。倉前先輩は、男子バスケ部のキャプテンさんと付き合ってるらしいです。一年前、事故でバスケ部の女子部員が死んでから」
「それは、確かに。何かありそうだな」
俺とかりんは、バスケ部が練習しているという体育館へ向かった。体育館では、女子たちがなにやら練習をしている。その中心となって掛け声を出しているのが、倉前涼音らしい。
「ちょっと待っていて下さい。倉前先輩を呼んできます」
「ああ」
かりんは体育館に入って倉前に駆け寄ると、なにやら耳打ちする。倉前は一瞬驚いた顔をすると、俺のほうを向いた。
「……な、なんだよ」
倉前の敵意丸出しの視線が俺に向けられる。
「あなたが、広岡くん?」
「あ、ああ。そうです、けど」
練習を抜け出してきた倉前は俺との距離をじゅうぶんとりながら、そう言った。警戒されている?
「私が倉前よ」
「あの、初めまして」
倉前涼音はスポーツ少女って感じで、快活な雰囲気の人だ。けっこう美人なんだけれど、何だか影がある感じだった。
「とんでもないこと、したんだね。ニュースのあれ、君のせいなの?」
「そうです。俺がやりました。このシックスコードで。でも、反省してます。俺のせいで色々やばいことになってるって」
とがめるようにそういう倉前の視線がオレのスマホに移った瞬間、いっそう敵意に満ちたものに変わる。だがそれはすぐに諦めの眼差しに変わり、彼女は大きなため息を一つ吐いた。
「ううん。それは私も同じだから……私もダイアリーで、取り返しのつかないこと、しちゃったし」
「ダイアリー?」
倉前はうなずくと、ジャージのポケットから自分のスマホを取り出して俺に見せた。
「私の欲望アプリ。日記帳形式の画面に未来のスケジュールを書き込むと、予定が現実になるの」
「予定が、現実に……なんだか、すごいっすね」
欲望アプリには、色々種類があるのか。
「変な法律作っちゃう君のも、相当だと思うけどね……まあ、そんな世間話より……」
「はい。俺のシックスコードはもう、使えません。倉前さんならなんとかできなかなって思って……」
「うん、そうだね。ダイアリーで、今日の法律無効化をなかったことにすれば、できるかもしれない」
「本当、ですか?」
「うん。でも、交換条件があるの」
「何ですか?」
「二度と私の前に現れないで」
それは冷たい声だった。
「はい……わかりました」
「もう欲望アプリには関わりたくないし、使いたくもない。これに関わった人間は、不幸になっちゃうから……」
「はい。その通りだと、思います」
俺がうなずくのを確認すると、倉前はスマホを操作した。ダイアリーを使って何か書き込んでいるのだろう。
「これで大丈夫。すぐにでもニュースで、法律無効化の件はなくなったって流れるんじゃないかな。これでこの無秩序な状態は解消されるとは思うけれど……でもきっとまた、あなたのようなアプリを持った人が現れると思う」
「そう、なんですか?」
「私ね、最近考えるんだ。欲望アプリはいつこの世に出てきたんだろうって。そして、誰がこんなものをばらまいてるんだろうって。不思議だと思わない? 何でこんな不思議な力があると思う? まるでアニメかマンガじゃない」
「それはまあ」
「誰かが、仕組んでいるんじゃないかって、そう思う。その誰かがどうやって、何のためにこんなことしてるのかはわからないけれど……とにかく、気をつけて。欲望アプリを持ってる子を狙う奴がいるらしいから」
「はい。あの、ありがとうございました……」
倉前が体育館に戻っていくのを見届けると、入れ替わるようにかりんがやってくる。
「うまくいったみたいですね。さっきニュースでやってましたよ。法律無効化がなかったことになって、収容されていた受刑者ももう一度捕まったって。秩序は回復したって、中継されてました」
「ありがとう、かりん。おかげでなんとかなったよ。俺、なんていったらいいか……」
「これできっと、兄も浮かばれると思います」
「そう、だね。俺、罪滅ぼしできたのかな……」
「広岡さん。私、一度家に帰ります。お兄ちゃんが亡くなったばかりで、お父さんとお母さん、寂しいだろうから」
「ああ。ごめんな。それじゃあ」
「はい。ではまた」
また、か。けれどたぶん、もう二度と彼女と会うことはないだろうな。
「あ」
かりんが去っていったあと、地面にハンカチが落ちた。
「かりんの、かな?」
しかたがないのでそれを拾うと、一瞬どうしようか迷った後、彼女の家に届けようと思った。
今さら何を期待してんだかな。シックスコードで何人の人を不幸にしたと思ってんだ、俺は。そんな最低最悪のゲス野郎が、今さら恋だなんて片腹痛いだろ?
だから、これで最後だ。彼女に会うのは。
田村の家には一度行ったことがある。といっても、対等な友人としてではなく、田村が学校に忘れた荷物をパシらされただけなんだけど。確か、駅の近くのマンションの2階だったはず。行ってみよう。
あくまで死んだ田村に頭を下げるついでだ、ハンカチの件は。
田村の自宅に到着すると、俺はインターホンを押した。やがて中から田村のお母さんが出てきたので、頭を下げる。
「あの、こんにちは。俺、田村くんのクラスメイトで、広岡です」
「ああ。息子がお世話になって……」
「その、この度は……」
「あがってくれないかしら? 息子のこと、聞かせてほしいのよ。学校でどんなだったか。あの子、高校に入ってからほとんど家に帰ってこなくてね。こんなことになるなら、もっとお話しておけばよかった……本当に、最後まで親不孝なんだから……一人っ子だからって、甘やかし過ぎたせいかしら」
「え? 一人っ、子?」
「ええ、そうだけど?」
「あの、下にお嬢さんがいるんじゃ?」
「ええ? いないわよ。そりゃ、女の子も欲しかったけれど……」
何だ? どういうこと、だ?
俺が疑問に思っていると、スマホが震えた。画面を見ると、知らない番号からの着信だ。
「すみません、ちょっと失礼します」
田村の母に頭を下げ、マンションの階段の踊り場に行って電話に出る。
「もしもし?」
『私、倉前なんだけど』
「え、倉前さん? どうして俺の番号を」
『それは今、どうでもいいの。ずっと気になっていたんだけれど、私を呼んだあの女の子、誰?』
「え、田村かりん。倉前さんの学校の一年生、じゃないんですか?」
『そんな子、知らないわよ。それにあの子、そんな名前名乗らなかったわ。確か、間島華菜。だったかな』
「間島華菜って……いや、あの子は田村の妹で、田村かりんの、はず。じゃあ、一体彼女は……」
「広岡さん!」
階段の上のほうから声がして振り向くと、そこにいたのは当の本人だった。
「かりん?」
「嬉しいです。また、会えるなんて」
何でここに? いや、ここは彼女のマンションなんだから、当然か。いやいや、かりんはそもそも田村の家の子じゃない。じゃあ、じゃあ。田村かりんは……一体、誰なんだ。
「私、欲しい物がいっぱいあるんです。お金も、お家も、お洋服も、ゲームも」
「そう、なの」
かりんはゆっくりと階段を降りてくる。笑顔のまま、可愛らしく。
「スイーツも、かっこいい彼氏も」
視線が合う。俺はまるで彼女に魅入られたように動けなくなった。
「欲しい」
「え?」
頬をなでられる。とても年下の女の子とは思えないほど妖艶なしぐさで。
「あなたが欲しいの」
「あ」
甘い息が俺の唇にかかる。頭がクラクラする。
「私にちょうだい? あなたの大切なモノ」
脳髄が痺れたみたいだった。これから始まる大人への階段を期待せずにはいられない。でも、だめだ。この子は……。
「かりん、君は誰なんだ?」
「そんなこと、どうでもいいじゃない? それより、私にちょうだい? あなたの大切なモノ」
かりんの手が俺の頬から頭へと、なでるように移動する。
「あなたの欲望アプリを私にちょうだい」
「うあ!?」
同時だ。かりんの可愛らしい顔が邪悪に歪むのと、俺が階段の下へ投げつけられたのは。
「ぁああああああああ!」
世界が回る。ぐるぐるぐるぐる。全身に激痛が走って、痛くて熱くて……理解不能な感情がわきあがってくる。
やがて世界が回るのをやめると、激痛の中で俺は悟った。
死ぬ。殺される。あの女に。
「私の演技、完璧だったでしょ? お兄ちゃんを失った悲劇の妹……あはは」
かりん。いや、女は俺に近寄ると邪悪に笑った。
「誰なんだよ、お前……」
「名前を名乗ったところで意味ないわ。だってこの体。借り物だし」
「借り物、だって?」
「あなたがシックスコードを使い切るの、待っていたの。殺す前にへんな法律でも作られたら、さすがに厄介だったから」
「お前、最初から俺を……」
女は俺の腹の上に座ると、あははと笑った。
「ダイアリーの女は未来が確定していて手が出せないけれど、あなたのなら……」
女の細くて白い指が俺の首に絡みつく。
「大丈夫。あなたのシックスコードは、私が……進藤亜沙子が有効利用してあげるから」
それが俺の人生で、最後に聞いた声だった。
~『シックスコード』 終~




