吸血鬼はすぐそこに
この街はクソッタレだ。
窃盗は日常茶飯事。裏路地では時々、人が死んでいる。
それを治安官は騒ぎもせず、さっさと片付けて無かったことにする。
骨と皮だけみたいな子供は、いつもパンを探して彷徨っている。
魔導灯だけがやけに綺麗だった。淡い光が、この街に似合わない暖かさを落としている。
僕が住むベイル街は、そういう場所だ。
そんな危険極まりない街で、今日も僕は誰かの靴を磨いている。
「いらっしゃいませ」
客は何も言わず椅子に腰掛け、コインを投げ入れた。
磨き賃にしては多すぎる額だった。
愛想のいい客なんて滅多にいない。
大抵は黙って座り、コインを投げ、時には難癖をつけて高そうな靴で踏んでくる。
ただ底辺の人間をいたぶりたいだけなんだろう。
今日の客はどっちだろう、と考えながら、僕は靴に布を当てた。
磨く必要があるのか疑うほど、すでに光っている靴だった。
客の指先は妙に綺麗だった。
働いたことのない手だ。
「き、君、知ってるかい? 最近この辺で女の人が何人も殺されているらしいんだ」
珍しく客が話しかけてきた。
声は小さく、妙に落ち着かない様子だった。
僕相手にこの調子なら、踏まれる心配はなさそうだ。当たりだ。
「あぁ、知ってますよ。吸血鬼の仕業だって噂の事件ですよね?」
「よ、よく知ってるね。ほ、本当に吸血鬼の仕業だと思う?」
「どうなんでしょう……お客さんはどう思います?」
「ぼ、僕!? 僕は……そうだな……いるんじゃないかな、と、お、思うよ」
「おぉ、そうなんですね。吸血鬼だったらどうやって捕まえればいいんですかね。ははっ」
客は笑わなかった。
「そ、そうだね……」
風だけが通りを抜けた。
「……」
「……」
機嫌を損ねただろうか。
精一杯冗談を言ったつもりだったんだけど。
連続吸血殺人事件。
被害者はみな高級娼婦で、首には牙の跡のような傷が残っていたらしい。
すでに六人。かなりの数だ。
詳しいことはわからない。ただ、噂では全員が花嫁みたいな姿で棺に納められていたという。
ぶる、と背中が震えた。
そんなイカれた野郎がこの街を歩いているかもしれないと思うと、言いようのない不快感が這い上がってくる。
母さんの顔が浮かんだ。
どうか、自分や家族には関係ない話であってくれ。
そう願うしかなかった。
「ただいまぁ……」
「お兄ちゃん!おかえり!」
勢いよく飛びついてきたのは妹のリリィだ。
「リリィ〜、ただいま。ほい、お土産」
「え!? お土産!? ……あ! キャラメル! やったぁ!」
「ああ、まだ食べちゃだめだぞ。夕飯の後な」
「え〜」
「え〜じゃない。言うこと聞かないと、兄ちゃんのこの冷たぁい手をほっぺにくっつけるぞ」
「きゃー! やだー!」
ケラケラ笑う妹の姿を見ると、今日一日の疲れが吹き飛ぶ。
「テオ、おかえりなさい。こらリリィ? お兄ちゃんにありがとうは?」
部屋の奥から顔を出したのは母のミランだ。
女手ひとつで僕らを育ててくれている。
「お兄ちゃん!ありがとう!」
「どういたしまして。本当にリリィは可愛いなぁ〜」
花が咲いたみたいに笑うリリィは天使そのものだ。母さんに似て、とても可愛らしい。将来は美人確定だ。
「母さん、今日は早かったんだね」
「えぇ、予約がキリのいいところで終わったの。今日はお小遣いもらえたから、夕飯ちょっと贅沢よ」
「へぇ。それは楽しみだな」
母さんはこの街で一番高い店の娼婦だ。
それを馬鹿にしてくる奴もいる。でも十六で僕を産んで、文句ひとつ言わずここまで育ててくれた人だ。恨む理由なんてどこにもない。馬鹿にされたら、ボコボコにされても食い下がった。
「テオ、今日もありがとう。母さんがもっと稼げれば、学校にも行かせてあげられたのに……」
「またそんなこと言って。僕は学校より、リリィや母さんと一緒にいる方がいい。靴磨きだって僕がやりたくてやってることさ」
「でも……」
「あーもう終わり。僕お腹すいた。早くご飯にしよう」
「リリィもお腹すいたー!」
「……ふふ、そうね。ご飯にしましょう」
三人で食卓を囲む。
冬の靴磨きは正直きつい。でも悪いことばかりじゃない。気前のいい客に小遣いをもらったり、読み終えた新聞をもらったり。そういう瞬間は、けっこう好きだ。
そもそもこの貧しい生活は、僕が生まれてすぐ蒸発したクソ親父のせいだ。顔も知らない男は、母さんに多額の借金だけ押しつけて消えたらしい。
それでも母さんは、僕が父親に似ていると言って嬉しそうに笑う。
リリィは母と客の間にできた子供で、僕らは異父兄妹だ。
その客も、子供の話をした途端に消えたという。
なんでこの世の男はこうもクズなのか。腹の底が煮える。でもリリィが笑っているだけで、まあ許してやらなくもない気になる。
今さら新しい父親なんて言われても、困るしな。
「そういえば、ロザリーが今日無断欠勤したのよ」
「え? あのロザリーさんが?」
ロザリー・ベルフォール。
母の同僚で、とても仲がいい人だ。よく家にも遊びに来て、僕にもリリィにも優しいお姉さんだった。母は兄弟がいないから、姉みたいな存在だと慕っている。
「そう。あのロザリーに限って、無断で休むなんてないと思うから……何かあったんじゃないかって心配で。最近、物騒な事件も起きてるでしょう?」
確かにロザリーさんは誠実な人だ。仕事にも真面目で、母もよく褒めていた。
そんな人が連絡もなく休むなんて――嫌な想像が頭をよぎる。
「体調悪かったとか……連絡できないくらい?」
「それがね、お店の人が家を訪ねたらしいんだけど……いなかったって」
「それは……心配だね……」
重たい空気が食卓に落ちる。
その空気を壊すみたいに、リリィが声を上げた。
「はやくキャラメル食べたいなぁ〜!」
僕が「兄ちゃんにもくれる?」と冗談を言うと、リリィは本気で悩み始める。
その顔がおかしくて、母さんと一緒に笑った。
笑い声は出たけど、さっきの空気は消えなかった。
翌日。
今日は朝から何もうまくいかなかった。
寝坊するし、朝ごはんの目玉焼きは黄身が潰れるし、三回連続で難癖をつける客に当たった。
なんて日だ。
トボトボと帰路についていると、街の空気が妙にざわついているのに気づく。
「また出たらしいわよ……」
「嫌だわ……」
「怖いわね……」
なんだ?
「どうも、お姉様方。一体なんの話をしてるんですか?」
「あら、テオじゃないか」
「今日も靴磨きかい?えらいねぇ」
「お母さんは元気?」
噂好きな奥様方は、昔から僕を可愛がってくれる。母の仕事を知っても馬鹿にせず、むしろ気にかけてくれる優しい人たちだ。
「はい、元気ですよ。それで、何の話をしてたんです?今日は街が騒がしいし」
奥様方は顔を見合わせ、小さく声を落とした。
「……出たんだよ」
「出た?」
「吸血鬼が、また出たんだ」
心臓が嫌に騒ぎ出す。これで七人目だ。
「全く、治安官は何をやってるんだかね。こんなに危なくちゃ、一人で外も歩けやしないよ」
「なぁに言ってんだい。アタシらみたいなおばさんは狙われないさ」
「あはは!違いないねぇ」
笑い声が上がる。でもその奥に、消えない怯えが滲んでいる。
「いやいや、お姉様方も気をつけなきゃ。吸血鬼は美しい女に目がないみたいですから」
「やだよぉ、テオったら。口が上手だねぇ」
「……でもね、あんたの母親は特に気をつけなきゃいけないよ」
足が止まった。
「……え?」
「狙われてるのは高級店の娼婦ばかりさ。アンタの母親、この街一番の店で働いてるじゃないか」
喉が乾く。
「……そうですね。母に伝えておきます」
「ミランは綺麗で優しい子だからね。心配だよ」
「アンタも気をつけるんだよ」
「はい。ありがとうございます。お姉様方も気をつけてくださいね」
「あはは、私たちは大丈夫さ。じゃあね」
「はい、また」
別れたあとも、胸のざわつきは消えなかった。
心に不安の欠片を抱えたまま、僕は家へ向かった。
「ただいま〜」
「あ!お兄ちゃん!おかえりぃ〜!」
満面の笑顔で出迎えるリリィ。
はぁ、癒される。今日は朝から散々だった分、余計にだ。
「母さんはまだ?」
「うん、まだー。リリィお腹すいた」
「そうだな。昨日は母さんが作ってくれたし、今日は僕が夕飯を作ろうか。何が食べたい?」
「うーん、バターいっぱいのスクランブルエッグに、ミルクいっぱいのシチュー!」
「はは、本当にそれ好きだな。母さんの味に近づけられるかな?」
「ふふふ、違くてもリリィがたくさん食べてあげる!」
「お、じゃあ気合い入れて作らないとな」
⸻
遅い。
遅すぎる。
母さんはどれだけ遅くなっても、夕飯の時間には必ず帰る。
時計の針は十二時を回っていた。
リリィはもう眠っている。
静かすぎる部屋で、嫌な想像が頭をもたげる。
狙われているのは高級店の娼婦ばかりさ
帰り道の言葉が蘇る。
まさか――いや、そんなはずない。
冷や汗が背中を伝った。
気づけばコートを掴み、外へ飛び出していた。




