窓に映るは
それにしても……共愛病院か。
子供のころ何度かお世話になって憶えがあるけどーーちょっとまって、共愛病院んん?
私の聞き間違いだろうか。
思わず隣に座る女性を凝視してしまう。
いかんいかん。
確かあそこは十数年ほど前になにか大きな医療ミスかなにかで問題になり廃院になったはず。
子どもの頃の話で詳しくは知らないけど。
ええぇ?
なんでこんな時間に、潰れた病院に?
どういうこと?
患者でもなく看護師でもないってことよね。
なによそれ。
ゾクリと、冷たいものが背筋を走った。全身に一瞬で鳥肌がたった。無意識に肩を抱きしめてしまう。
「あれぇどうしました。エアコン効いてませんか?今夜は蒸し暑いですからね」
ち、違う。
「だ、大丈夫よ」
まさかこの女ーー幽霊?
あり得ない!
私は頭に浮かんだ単語を振りはらうべく頭を振る。
「あれ虫でもいますかぁ?」
バックミラー越しに運転手が聞いてくる。
「いないわよ!大丈夫だから前向いて運転してよ」
「はいはぁい」
間抜けた返事のドライバーのおかげで、少しは冷静になれた。
幽霊の二文字は頭にしっかりと焼き付いてるけど。
いやいやまさかまさか。
確かにタクシーに乗り込む女幽霊の話は聞いたことがある。確か昭和の時代によく聞かれた古典怪談だ。
だけどね今や時代は令和なのよ。
平成生まれのあたしが令和の世に昭和の怪談話に巻き込まれるなんてあり得ないでしょ?
でも怖いもの見たさ。ついつい視線を右にやってしまう。
一瞬、俯く女の髪が揺れた。
ヤバい。バレてる?
見てるのバレたの?
わざとらしくならないように、ゆっくりと左の窓に視線を向ける。
「い、嫌な雨ね。強くなってきた」
誤魔化すように声に出す。
でもこれはホント。
雨が本降りになってきた。大きな雨粒が音を立てて窓に当たり、川のような筋を作り流れていく。
「ひっ」
あたしは慌てて口元を押さえた。
驚いた。なによ、なんなの。
窓に映っていないの。誰も。
白いワンピースも映っていないどころか、あたしの姿も映ってない。
雨の粒に重なるようにタクシーのシートが映っているだけなのだ。
なにこれ。
そんなバカなことある?
ゆっくり。
ゆっくりと視線を戻し、恐る恐る左を見る。
確かに黒い髪に白いワンピース姿はそこにいる。
次に自分の手もじっとみる。ピンク系で綺麗に整えられたネイルが安堵感を与えてくれる。ネイルサロンに行ったばかりなのだ。
なら、もしかしてこのタクシーが何か変なの?
実は彼女が幽霊なんじゃなくて、このタクシーが幽霊タクシーなんじゃないの?
あたしも彼女も、得体の知れない車に誘われて乗り込んじゃったのかも。
頭の中が混乱してぐるぐるする。
意を決してもう一度窓を見ようとしたその時、バックミラー越しに運転手と眼があった。
ひぃ!
なによあの無機質な眼。感情がなく生気が感じられない。まるで蛇のような瞳。
矢張っぱりこのタクシー変よ。運転手は人間じゃないのかも知れない。
「あのぉ」
「おわぁ」
突然の運転手の言葉に、変な声が出た。
心臓が止まるかと思った。
「な、なに。なによ」
「ラジオつけてもいいですかね。静かだと眠くなっちゃうんですよねぇ」
相変わらず呑気な調子。でもこの運転手は人間じゃないのかも。気を許しちゃダメ。
「か、勝手にすればいいじゃない」
怒らせない方が良いのは分かる。
でも去勢を張らないとどうにもならない。
心臓がバクバクいっている。
息苦しさにそっと深呼吸。
大丈夫。あり得ないでしょ。
疲れているのよ。
このところ大きな商談に関わってたから疲れてるの。今日だってこんな時間まで残業だもの。
さつきしっかり!
呼吸を整えて、もう一度左の窓を見た。
「なんだぁ」
良かった。
しっかり映ってる。白いワンピースのもあたしも。
ほらね、幽霊なんてあるわけないのよ。良かった。
『ギャァぁぁぁ!』
でもそんなあたしの安堵感を吹き飛ばすように車内に悲鳴が上がった。