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モノトーンの絶望

 ……明らかに、リシテアさんに無理をさせてしまっていた。


 あれだけ空を飛び続けていたら疲れて当然だ。


 まだ辛そうな顔をしていたのに、そのまま外に出ていってしまった。さっきみたいに外で倒れていないか心配である。


 外に出るなと言われてしまったため、仕方なく体を清める。野宿続きなので体が汚れてしまっていた。


 リシテアさんにいっぱい抱きついていたが、実は臭っていたんじゃないのかと今になって思い至る。恥ずかしくなって自分の体を嗅いでみるも、自分ではよくわからない。


 念入りに体を拭いて、髪もしっかり洗う。


 そうして寝る準備を整えた頃だった。そのメッセージが届いたのは。


 突然、肌を魔力が撫でる感覚があった。そして突然耳元で聞こえて来たのは、リシテアさんの声だった。


『──にげて』


 か細く、聞き取りづらい掠れた声が鼓膜を振るわせる。思考が止まり、手にしていた鞄が手から滑り落ちる。


『わたしのことは……どうか、気に病まないで……』


 一体彼女は何を言っているのか。なぜこんな形で声を届けているのか。突然のことに思考が追いつかない。それでもメッセージは止まることなく続いていく。


『机の上に、黒い羽ペンがあるの……それを持って、森の方へ行きなさい』


 黒い羽ペン……? わからない、こんな、こんなの……


『ばいばい……幸せに生きて』


 ──まるで今生の別れのような……


 ここで、メッセージは終わった。言葉の意味を理解することができなかった。立ち尽くすこと十数秒、外の騒がしい声によってようやく思考が現実に戻された。


 最初は、実感が全くなかった。次第に胸の中を強い不安感が満たしていった。


 こんなメッセージを送ってくるほどのことが起きたというのか。彼女は外に出て行ったきりまだ戻らない。


 逃げないと行けない……? たしか、そんなことをリシテアさんは言っていた気がする。


 説明がなさすぎて、何が起きているのかわからない。急すぎて、思考がうまくまとまらない。


 たしか、黒い羽ペンを持って森へ行けと言っていた。


 きっと……きっと、彼女は今手が離せないのだろう。緊急事態が起きたから、一旦僕を避難させようとしているのだ。おそらく、緊急で連絡したからあんな言い方になっただけだ。


 しばらくしたら、森で合流するつもりに違いない。きっとそうだ。


 そう無理やり自分を納得させる。様々な不安は、一旦胸の奥にしまい込んだ。


 事態が飲み込めないながらも、隣の部屋に行って机の上を確認する。確かに、机の端に羽ペンが立てかけられていた。


 こんなもの、一体に何に使うのか。


 指示の意味がわからないが、取り敢えず黒い羽ペンを鞄に入れる。そのまま部屋を出ようとしたところで、ふと本当にこれで良いのかという思考が頭をよぎった。


 リシテアさんに何かあったのなら、助けに行った方がいいんじゃないか? 


 疲れ切って体調も悪そうだった。そんな中、僕一人だけ避難するのか? それは……とても恩知らずなことのように思える。


 でも、リシテアさんの居場所も知らないし、どういう状況なのかも不明だ。僕が駆けつけて助けられるものなのかもわからない。


 一体どうすればいいのだろう。


 そうして立ち止まっていると、チクリとこめかみに痛みが走る。


 こんなときなのに、ルピウスとラーミナさんの顔が脳裏を過ぎった。


 嫌な汗が背筋を伝う。本当に助けに行くのが正解なのか。指示を無視して勝手なことをして、何かよくないことが起きてしまったら……


 そんな嫌な想像が僕の動きを止める。


 そうして悠長に逡巡していたのが良くなかったのだろうか。


 突然、外から悲鳴が聞こえてきた。男の人の悲鳴だ。悲鳴以外にも、複数名の騒ぎ声が聞こえる。そとで何が起きているというのか。


 急いで部屋を飛び出る。廊下は窓が少ないせいで暗く、何も見えない。


「灯火よ、彼の姿を明らめよ」


 そうして光源魔法で廊下を照らしたときである。


 廊下の奥、曲がり角の外からずりずりと、何かを引きずる音が聞こえてきた。


 ゆっくりと、角から大きな人影が姿を現す。

 その手には何か大きなものが握られている。


 歩いて近づいてくる彼の姿が、光源によりはっきりと照らされた。


 大柄で、白い短髪の男。異常なのは、その表情だった。


 目が溢れそうなほど瞼を大きく開け、歓喜の表情で彼は僕を見つめている。その顔はあまりにも狂気的だ。


 ……その姿が、あのときのルシウスと重なる。


 恐怖で体が硬直する。後ずさることもできず、彼の接近を許してしまう。気がつけば、僕から二歩ほど離れた位置まで近づかれてしまった。


 僕をじっと見つめた彼は、右手で目元を覆う。そして感極まったように唇を振るわせた。


「あぁ……あぁ……我らが神よ……やはりここにおられたのですね」


 男はうっとりとした声でそう呟くと、僕の前で跪く。僕はわけもわからずその様子を見つめることしかできない。


 そんな僕を置き去りに、男は一人で言葉を紡ぐ。


「女神よ、お迎えが遅れてしまい誠に申し訳ない。ここは窮屈だったでしょう? 今お迎えに参りました」


 僕はこの男の言うことが何ひとつ理解できなかった。ただ恐怖で胸がいっぱいだった。


 この距離だと、詠唱したところで間に合わないだろう。それに、相変わらず足が動いてくれない。逃げることすらできない。


 体を撫でる生暖かい感触が、今も肌の上を這い回っている。それがまるで鎖のように、僕の足を縛り付ける。


 そうして男と対峙していると、何かに思い至ったように彼が顔をあげる。血走った目が僕を


「本日は、あなた様を悩ませていた賊を手土産に参上しました。どうかご高覧ください」


 そう言って、彼が左手で引き摺っていた紅と白の何かを目の前に持ってくる。



「は?」



 思わず、そんな間の抜けた声が漏れた。体の震えはいつの間にか消えていた。ただ、その()()から目を逸らすことができなかった。


 ────それは、ニンゲンだった。


 刃物でズタボロに引き裂かれ、体の内側が露出した……原型を止めていない遺体。それを、奴は僕に近づけてくる。


 脳が、認識することを拒んでいた。頭部についた見覚えのある白髪も、元は白かったはずの、血に染まったローブも。その名前に辿り着くことを脳が拒絶していた。


「あ、あ…………」


 言葉にならない声が喉から漏れる。小刻みに震える手を目の前の遺体へと伸ばす。 


 男の手の中からそっと抱き寄せれば、あまりにも軽いその体躯が僕の腕にすっぽりと収まった。


 心臓がドクドクと強く拍動している。音はそれしか聞こえない。視界は霞がかり、()()の姿しか目に映らない。


 そっと、下を向いたその顔を持ち上げる。


 ──見えたのは、目を閉じて眠るリシテアさんの顔だった。


「う、そだ……うそだ……あっ……いや、なんで、あぁ……」


 世界が、色を失っていく。壊れたテレビのように、視界が明滅している。まるで汚れたスクリーンを通して世界を見ているようだった。


 抱き止めた体からは熱を感じない。ただ冷たいその体が僕の手から体温を奪っている。


 なんで……なんでこうなってしまうんだ。やっと、打ち解けられたばかりなのに。これからきっと仲良くしていけると……そう思っていたのに。


 僕の中で、決定的な何かが崩れ落ちていく。


 顔を上げれば、男が満面の笑みで僕を見つめていた。


「……お前がやったのか?」


 自分でも驚くほどに、無機質な声が出た。震えもない、冷たい金属のように鋭利な声だった。


 男は歓喜するように震えながら、大袈裟に手を広げて見せる。それは、僕の神経を逆撫でするのに十分だった。


「えぇ! これであなた様の敵はいなくなりました。これからはあなた様の道行きを阻むものはおりませぬ」


「そう」


 僕の体からぬるりと魔力が滲出していく。ヘドロのように重く粘着質な魔素の塊が身体中から漏れる。それが、男の体を包んでいく。


 そして……その首がぐちゃりとねじ切れた。


 詠唱は不要だった。ただ、そうできると思ったからやった。


 胸の中の激情は消え去っていた。ただただ虚無感のみが心を満たしていた。


 立ち上がって、リシテアさんを部屋の中へと連れていく。


 彼女をベッドに寝かせて、その脇に座り込む。


 音もなく、色もなく。何もする気力がなかった。


 一体何を間違ってしまったのだろう。外に向かうリシテアさんを引き留めていれば何か変わったのだろうか。


 明らかに外は異常だった。こんな真夜中に外が騒がしい時点で、その危険性に気づくべきだったのだ。


 ……いや、そうじゃないんだ。そうじゃないことは、本当はわかっていて……


 悪いのは、全部……


「おえ……」


 途端に、嘔気が込み上げてくる。口元を押さえてそれを飲み込む。酸っぱいものが喉の奥に居座っている。体が考えることを拒絶していた。


 頭を振って思考を振り払う。


 リシテアさんが死んだという事実をいまだ受け入れることができない。酷く現実感を欠いている。


 部屋の中をぼーっと見渡した。至るところにに魔道具が置かれているのが視界に入る。


 もう見慣れてしまった、僕の居場所。そう、居場所であるはずの光景だ。こんなにも胸の奥を締め付ける景色じゃないはずなんだ。


 リシテアさんとの思い出が脳裏に蘇る。


 様々な魔道具の使い方、作り方を優しく教えてくれた。外に出られず娯楽のない僕を気遣ってか、実用性のない試験的な魔道具まで見せてくれた。


 あれは、水を出す魔道具……あれは、熱源を生み出す魔道具……。目に入るたびに、それを手に持ち得意げに解説するリシテアさんの顔が浮かんでくる。


 つい最近の出来事のはずなのに、遠い思い出のように感じる。


 ふと、まだ希望はあるんじゃないかという思考が頭の中にチラリと浮かんだ。


 まだまだ教えてもらっていない魔道具ばかりだ。もっとすごい魔道具が沢山あるのだと彼女は自慢するように語っていた。


 ひょっとしたら、この中に治療の魔道具などもあるのではないだろうか。そんな淡い期待を抱く。


 空間拡張だとか、なんでもありな魔術だ。もしかしたら……


 心の中で"そんなものはない"という結論が出ていながらも、散らばった魔道具を手に取っていく。


 たとえそのような魔道具があったとしても、こうして見たところでわからないかもしれない。


 それでも、胸の中に湧き上がった苦い懐旧の念を誤魔化すように、近くの魔道具を手に取る。しかし、中身を見てみてもよくわからない回路があるのみだ。


 見たくないものから目を背けるように、一心不乱に、手当たり次第魔道具を漁る。


 ふと、リシテアさんの眠るベッドへ目を向ければ、ベッドの側に大量に物が転がっているのが見えた。その横には開口部の壊れたポーチが落ちている。あれは……旅へ持って行ったものだろうか。


 部屋へと連れてくるときに中身が溢れてしまっていたらしい。


 セブンリーグブーツや結界の魔道具など、見覚えのある物が床に放りだされている。


 ──ふと、その中に埋まった一冊の黒い本に目を引かれた。


 あれはなんだろう? 


 ふらふらと幽鬼のように近づいて、手を伸ばす。指先が触れるか否かといったところで、パチリという音と共に手が勢いよく弾かれた。


 青白い光が瞬き、僕の手を灼く。


 その衝撃で本が遠くへと吹き飛んた。ヒリヒリと痛む指先を見れば、赤く腫れている。


 何が起きたのか全くわからなかった。ただ、その本に何かがあるように思えた。


 飛んでいった本を見れば、ページが開いてあちこちが折れてしまっている。


 近寄ってそっと拾い上げる。今度は弾かれなかった。先ほどのはなんだったのだろうか。


 ぐちゃぐちゃになってしまったページを手で(なら)す。中を覗いてみるも、小さな字で書かれている上に文字が薄くて読めない。仕方ないので読みやすいように光源の下に本を持ってくる。


 そうして見えた文章の中で最初に目に入ったのは、


 ────『魅了の魔眼』という言葉だった。

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