聖女見習い
ひとしきり夜の景色を楽しんだ後、二人で交互に寝て夜を明かした。
昨日と今日でスキンシップが急激に増えたせいで、なんとなくドギマギしてしまう。
環境の変化のおかげか、いつものように心に影が差している感覚がなかった。常に漠然とした不安のようなものがあったのに、今は少しだけ気分が晴れている。
昨日と同じくリシテアさんに抱えられて空を飛び、山岳地帯を越えた。
ちょうど夜頃に街に戻るつもりらしく、昨日の野営地を過ぎて少し先まで飛ぶらしい。
抱かれていると、相変わらず彼女からは良い香りがする。野宿続きなのに不思議だ。
これも魔術的な何かだろうか、と不躾な考察をしているうちに、高度が下がり始めた。ここから先は歩くらしい。
そうして着地した瞬間であった。
「っ! 魔獣!」
リシテアさんが叫び、再度空中へと勢いよく飛び上がる。
「我は制する者──」
素早く結界を張る彼女。
何事かと思い下方を見る。目を凝らした先、木々の隙間から出てきたのはフォレストウルフの上位種だった。
「フォギーウルフ……? どうしてこんなところに……」
じっとこちらを見上げる上位種は酷く既視感のある姿だ。あの日このあたりで出会った狼にそっくりである。リシテアさんの方へ視線をやれば、不思議そうな顔をしているのが見える。
「探知に引っ掛からなかった。害意がない……?」
そんな彼女の呟きに、まさかと思う。
こちらをじっと見つめている狼に手を振ってみる。するとゆったりと頭を垂れる狼。その様子から敵意は感じられない。リシテアさんの肩をちょんちょんと突く。
「あの子、知ってる子かも」
そう言えば、リシテアさんは狼から目を逸らさず、訝しげに首を傾げる。
「どういうこと?」
「あの子、多分この前私を助けてくれた狼だと思う」
「助けて……?」
困惑している彼女に事情をぼかして説明する。降ろしてと頼むも、彼女は疑いの表情のまま動かない。
仕方ないので大きな声で叫ぶ。
「一歩後ろに下がって寝転がって!」
すると、自分に言われていることがわかったのか、こちらを見上げた狼が訝しげに首を傾げる。
渋々といった様子で後ずさって地に伏せる狼。
ほら! と彼を指さしてリシテアさんにアピールする。
しばらく考えるように唸った後、リシテアさんは警戒を保ちつつ高度を下げていく。結界を張っているのもあって、急に襲われても大事には至らないはずだ。
接地するやいなや、彼女の腕から抜け出して狼のそばへと走る。
「あ、ちょっと!」
後ろから咎める声が聞こえるが、僕は完全に無警戒に駆け寄ってしまった。正直に言えば、あの事件以来狼たちへかなり気を許してしまっていた。
そんな僕を狼はじっと見守っている。
地に伏せてもなお大きく感じる彼の毛並みを撫でた。手のひらには、あの時と同じゴワゴワした感触が返ってくる。
そうして撫でていれば、後ろからリシテアさんが歩いてきた。
振り返れば、暗い表情で僕たちを見ている。
恐怖、悲しみ、憐憫……その顔がどういう感情なのかわからない。どこか遠くを見るような目で彼女は口を開く。
「……このことは、私以外には誰にも言わないようにね」
その表情と声のトーンに少し気圧されながらも頷き返す。もしかしたら魔獣が懐くというのはかなりレアなケースなのかもしれない。
リシテアさんは狼と数秒見つめ合った後、考え込むように手を口元に添えて目を伏せた。そのまま近くの倒木に腰を下ろす。
「終わったら教えてね」
そう言ってリシテアさんは傍観の姿勢を取る。警戒は解いていないようだが、一旦見守ることにしたようだ。
大人しく撫でられているこの子はとても危険な魔獣には見えない。尤も、黒い毛並みとその巨体はなかなかに強そうな外見だ。襲われたら威圧感が凄いだろう。
「えっと、ごめんね。この後またあっちの街に戻るの」
そう語りかけると、グルルと喉を鳴らす狼。言葉が通じているのかはやはりわからない。
おそらく僕が森の奥の方へ行っていたのを知って会いに来てくれたのだろう。
「せっかくだし、呼べる名前がないのも寂しいから、名前付けてもいい?」
彼は一瞬首を傾げ、ワンっと小さく返事する。狼もワンと鳴くんだと少し驚く。
彼の姿を見て名前を考える。
ポチ、タマ、シロ……センスが無さすぎて全然名前が浮かんでこない。
いや、安直で良いのかもしれない。こっちの世界ではむしろレアではないだろうか。
彼の容姿を一言で言い表すなら大きな黒狼だ。霧に紛れるなら白のほうがいいような気もするが、実は夜行性だったりするのだろうか。
「うーん……じゃあ、クロで!」
我ながら非常に安直だが、呼びやすいし可愛いから良いだろう。
この短時間で名前を覚えてくれるかはわからないが、賢いこの子なら大丈夫そうな気もする。
「そろそろ街に帰らないとだから、ばいばい。またね」
そう告げれば、悲しそうに鳴いたクロが立ち上がる。その顔をそっと撫でてからリシテアさんの元に戻った。
「もういいの?」
「うん」
僕の返事を聞いた彼女がゆったりと立ち上がる。そしてクロを一瞥して手を振った。
「じゃあね、狼さん。アモールちゃんを守ってくれてありがとう」
そうしてクロに別れを告げ、街の方へ再び歩き出した。
クロは木々に遮られて見えなくなるまで、じっとこちらを見守っていた。
────────────────ー
魔獣が人に懐くことはない……それは一般的に知られることだ。
魔獣使いという例外的な存在はいるが、その性質ゆえに迫害されがちである。
アモールちゃんを慕っている様子のフォギーウルフを見て、正直に言えば心中穏やかではなかった。
もし魔眼を克服したとしても、このあたりの教育もしないといけない。完全に失念していた。
冒険者をしていれば、魔獣との戦いは避けられない。そんな中で魔獣に懐かれてしまったら、周囲に隠し通すなんて無理だ。
彼女の冒険者としての人生が厳しいものであることが目に見えてしまって、表情に暗い感情が出てしまったかもしれない。アモールちゃんには申し訳ないことをしてしまった。
思考に耽りつつアモールちゃんとゆっくり移動しているうちに空が暗くなってくる。
できるだけ人に会わないように深夜に街へ着くようにしたかった。予定通りに時間を調整できているようだ。
明かりの魔術で周囲を照らしながら進むことしばらく。ようやく森を抜けて草原に出る。そこで異変に気づいた。
もう二日月も沈み切って、街は寝静まっている頃合いだ。だというのに、この距離からでもまだ街明かりが見える。
なんだか、嫌な予感がした。
気がつけば立ち止まってしまっていたようだ。そのまま前に進んでいたアモールちゃんが街明かりを背にこちらを振り返る。
その姿が、どうしてか不吉なものに見えてしまった。
どうしたの? と、目を瞬かせる彼女にハッとする。
頭を振って妙な思考を振り払った。せっかくこの3日で自然体でいてくれるようになったのに、これ以上不安にさせるようなことをしてはいけない。
「なんでもないよ」
そう言って、アモールちゃんの横に並ぶ。長旅の終わりが見えてきて気が抜けたのか、隣で体を伸ばす彼女が見えた。
城壁までの道がなんだかいつもと違って見える。何度も通っているはずなのに、妙な違和感があった。
門が近づいてくると、ガヤガヤと夜に似つかわしくない物音が聞こえてきた。
「そうだ、一応あのローブを着ておいて」
忘れないようアモールちゃんに認識阻害のローブを着せて門を通過する。すると、やはり見えてきたのは異質な光景だった。
あちこちで灯りが付き、衛兵や鎧を纏った冒険者が歩き回っている。そんな予感はしていたが、完全に計画から外れてしまっていた。せっかく深夜に調整したのにこれでは意味がない。
この人数はまずい……確実に見られる。
よくわかっていないらしいアモールちゃんは「どうしたんだろうね」なんて言って呑気に首を傾げている。私は、それに返事をすることもできなかった。冷や汗が背中を伝っているのを感じる。
道行く人がチラリとこちらに目を向けたのが見えて、心臓がドクリと跳ねた。
急いで身体強化を施してアモールちゃんを抱き上げる。
「ごめんね、急ぐよ」
返事も待たず、驚いて小さく叫ぶ彼女を強く抱いて走る。できるだけ足音を立てないように、目立たないように人の間を縫っていく。
それでも、やはり多くの人がこちらを見て驚いているのがわかる。この人の多さでは誤魔化しきれない。魔眼の効果範囲は大丈夫だろうか。私には効かないため、強さを知ることができないのが歯がゆい。
街に戻らずもう一晩外で待機するべきだったと後悔する。
宿までが遠いことがもどかしい。変な輩に絡まれないように比較的上流の地区に居を構えていたが、それが仇となっている。
宿に近づくにつれて、なぜか人が増えていく。ここら辺は一般の人はなかなか立ち入らない場所なのに。
だんだん、あたりから怒号が響くようになってきた。走りながらだと様々な声が入り混じって内容は判別できない。
人が多くてここら辺で走るのもそろそろ限界だ。
──背に腹は変えられない。飛ぶしかないか。問題になったら後でなんとかすれば良い。
近くの家の壁を蹴って、勢いよく屋根の上へ登る。
一旦アモールちゃんを降ろして、素早くセブンリーグブーツを履いた。
「Ὦ πνεῦμα ἀνέμου, ὁδήγησον τὴν ἐμὴν ὁδόν」
彼女を抱え直し、空へと飛び上がる。魔術師たちには目立ってしまうかもしれないが、仕方ない。
人の目に入らないよう高度を上げて飛行する。腕の中を見れば、アモールちゃんが不安そうな顔で私を見上げていた。彼女からすれば何が起きているのかほとんどわからないだろう。
「大丈夫だよ」
そう笑いかけて一気に速度を上げる。上空から見下ろしてみると、領主邸の近くに人が集まっているのが見えた。通りでこの辺りの人が多いわけだ。
一体なんの騒ぎだと言うのか。
一旦疑問は置いて安全地帯に入ることを優先する。可及的速やかにアモールちゃんを隠さないといけない。
かなりのスピードを出したおかげで、宿の上まではすぐに着いた。幸い宿の入り口付近に人はいない。
地上に降り、急いで宿の中に駆け込む。
──そうして部屋に入った瞬間、くらりと眩暈がして床に崩れ落ちる。突然体から力が抜けたせいでうまく反応できない。
「大丈夫!?」
アモールちゃんが慌てて私を抱き止めてくれる。その背中をポンポンと叩いて返事をした。
昨日と今日で魔素を消耗しすぎてしまったようだ。やはり身体強化も飛行も魔力効率が悪い。
これは典型的な魔素欠乏の症状だ。強い吐き気と眩暈がある。先ほどまでは気を張っていたため気づけていなかった。最後に飛行をしたのがトドメとなったようだ。
いつもと違って二人分の重さなため魔素消費が多いことも考慮に入れられていなかった。
アモールちゃんがオロオロとしているのを見て気合いを入れ直す。
「もう大丈夫。ちょっと酔っちゃっただけ」
「ほんとに?」
いまだに心配そうな顔をしている彼女の頭を撫でる。流石にそれじゃ誤魔化しきれないのか、私を支えようと寄り添って離れてくれない。
「じゃあ、もう夜も遅いし。アモールちゃんは先に寝る準備をしておいて」
そう言いながら、彼女を隣の部屋に連れて行く。
「リシテアさんは?」
「私は……少しだけ、外の様子を見てくるわ。大丈夫、すぐ戻ってくるから」
私の体調を心配しているのだろう。やや不満げな顔のアモールちゃんが抗議するように私を見ている。
でも、こんな事態に何もせず寝ていたら、もしものときに対処できなくなってしまう。知らなかったでは済まされないのだ。
絶対に宿から出ないよう念を押して部屋を出る。
宿の外はいつもからは考えられないほど喧騒に包まれていた。
情報収集のために、人混みに紛れて耳を澄ませる。そうして聞こえてきたのは──
「……ッ!?」
──ラーミナさんが、処刑前に脱走したというものだった。
***
しばらく歩き回って聞き耳を立てたり、通行人に話を伺ったりして状況把握に努めた。
どうやら、ラーミナさんは想像以上にこの街にとって大きな存在だったらしい。
処刑は昨晩行われるはずだった。しかし、碌に調査もされずに処刑が決まったことに民衆は納得がいかなかったのだろう。
あまりに不審な点の多い事件だった。
私はあのパーティとの接点は少ししかなかったが、この街の住民からよく慕われていたのは知っている。
昨晩、処刑が執り行われる直前、彼女らを慕う冒険者たちが留置場を襲撃したらしい。
そのままラーミナさんは連れ去られ、現在も行方がわかっていないという。
そんな事件が発端になって、現在街の冒険者たちを中心に、領主への抗議デモが起きている。この騒ぎは領政に反発する民衆が爆発した結果であった。
この街は、立地も相まって人々の血の気が多い。こういった事態になると規模が大きくなりがちだ。
領主邸の付近では、各々が好き勝手声をあげて主張している。その内容は冒険者の地位向上だったり、領主の贅沢を咎める声だったり、行政の怠慢を指摘するものだったりと様々だ。今回の事件にかこつけて、日頃の不満をぶつけているのだろう。
今回の事件について調査し直すよう声が上がっているのを聞いて、胸がギュッと締め付けられる。これは、私がアモールちゃんを匿っているが故に起きていることだ。
でも……アモールちゃんも被害者なのだ。それに、あの魔眼の性質上真相が明らかになることもなく、被害が増え続ける一方だ。
それでも、私がしていることが正しいことなのか、民衆の声を聞けば少しだけ揺らいでしまう。
こんな風にすぐに揺らいでしまうから……私は聖女にはなれないのだ。
取り敢えず事態は飲み込めた。ラーミナさんの行方がわからないのはきな臭いが、まだ彼女は動けるほど回復していないだろう。
アモールちゃんが心配しているだろうから、そろそろ宿に戻らないと……
これだけ大事になってしまった以上、この街に彼女を置いておくのは得策ではない。今後は住居を移す必要がある。
……これからするべきことが多いな。
疲労、魔素欠乏などで頭が回らない中、今後の計画を立てながら宿へと向かう。
少し遠くまで来すぎてしまった。宿の方向へ歩いているうちに、気がつけば人があまりいない裏路地に迷い込んでいた。
まぁ夜だし、どこも同じようなものだろうとそのまま進もうとしたときだった。
「……え?」
思わず、間抜けな声が漏れた。
疲れていると言っても、多少の警戒はしているつもりだった。
不運だったのは……相手が悪すぎたことだろうか。
──気がつけば、胸の中央を短剣が貫いていた。
思考が追いつかなかった。胸から生える刀身をただ見つめることしかできなかった。
数瞬の後、背後から衝撃。
蹴り飛ばされたのだと気がついたのは、地面を這い、己の血で頬を濡らしたときだった。
血がとめどなく胸から溢れ出す。
……血を、止めなきゃ。
最初に浮かんだのは、そんな他人事な感想だった。
無機魔法で心臓の傷口を無理やり塞ぎ、魔力で擬似心臓を作り出す。半ば本能的にそれを行ったところで、地面を踏み締める複数の足音が聞こえる。
「あぁ、なんて見苦しい」
「我らが女神を独占する汚れた売女め」
「女神を救わねば」
目を向ければ、薄明かりに照らされていたのは3人の男たちだった。その姿は大変見覚えがある。
ノクス・マイルズ……私の顧客で、ラーミナたちと並ぶ最上位の冒険者パーティだ。
そこで、ようやく思考が追いついた。逃げないといけない。とにかく、それだけが思考を支配する。
気合いだけで立ち上がり、ポーチから道具を取り出す──刺激物が詰まった、魔獣を追い払うための煙玉だ。
それを彼らへ投げつけ、距離を取るべく走る。
だが、それで逃げ切れるほど甘い相手ではなかった。
ドスリという音と共に、バランスを崩して地面を転がる。激しい痛みに左足を見れば、先ほどの短剣が太ももに突き刺さっていた。投擲されたのである。痛みでうまく足に力が入らない。
視界が不良な中でこれほど正確に投げるなんて。改めて彼我の戦力差を感じて恐怖で身が震える。私は対人戦をほとんど知らない。
どうすれば……どうすれば……
戦闘に使えそうな道具は何も持ってきていない。もっと用心するべきだった。
人を呼ぼうにも、叫び声を上げているうちに殺されるのがオチだ。
……戦うしかないのか。口は魔術師にとっての生命線だ、余計なことに使う余裕はない。
痛みと恐怖で震える唇をなんとか動かす。声が掠れて震えている。
「| Ὦ πῦρ δαίμων,《炎精よ》| τὰ ἐκείνου《彼のものを》| κατακάυσον《焼き払え》」
素早く詠唱し、攻撃魔術を発動する。手のひらに浮かぶのは、巨大な炎球。
小刻みに震える手で、それを奴らの方へと向ける。古代の魔術故に、一瞬戸惑うはずだ。通常の炎とは対処が違う。
この魔術を使って隙を作り、一気に畳み掛ける。今まで何度もイメージしてきたものだ。
だというのに、視界が揺れてうまく狙いを定めることができない。煙の向こうに人がいるのを想像するだけで、息がどんどん荒くなっていく。
視界がチカチカと瞬き、ついに魔力が途切れる。
指向性を失った魔術が勝手に制御を離れていく。
結局炎はあらぬ方向へと散り散りになり空気の中に霧散していった。そして、最悪なことに煙幕はあちらの魔術師によって払われてしまった。
煙の中から、いまだ健在の3人組が姿を見せる。
──あぁ、こんなときになっても、私は誰かに武器を向けられないのか……
昔から私を蝕む呪いじみたそれに、心の中で恨み節を述べた。昔からこうだった。私は、魔獣だろうが人だろうが、こうして攻撃を向けることができない。だから、あそこを抜け出して魔道具師なったんだ。
まさか、死の間際でも変わらないなんてね。筋金入りすぎて、いっそ笑いすら込み上げてくる。
魔素の使いすぎで意識が飛びそうだ。余計なことをしたせいで、もう有効な魔術を使うだけの魔素が残っていない。
なんて滑稽で、無様な死に方なのか。やっぱり、大声で叫んで助けを求める方がまだよかった。
「女神を汚しておきながら、なお生にしがみつこうとするか!! ゴミめ!!」
パーティリーダーの男、ノルドがわけのわからないことを言いながら近づいてくる。
こいつらは、アモールちゃんの魔眼に呑まれてしまったのだろう。あの時のラーミナさんに似た狂気を感じる。やはり認識阻害は意味がなかったらしい。
……考え得る限り最悪の相手に見られてしまったものだ。この人は、寡黙で落ち着いた人だったはずだった。素はこれくらい凶暴だったのか、それともそんな性格すらもねじ曲げられてしまったのか。
せめてもの抵抗をと、太ももに刺さった短剣を抜いて構えるも、そのまま蹴りで腕をへし折られる。勢いのままに、短剣は遠くへと飛ばされてしまった。
狂気に呑まれているくせに、動きは鋭利で判断も早い。全く嫌になる。
痛みに悶える私の顎を容赦なく蹴り上げるノルド。脳震盪を起こして、勢いよく地面へと倒れ込んだ。
視界が明滅し、意識が朦朧とする。だが今気を失ったら心臓が止まってしまうのだ。太ももの傷に指を入れてなんとか意識を繋ぎ止める。
そんな私が気に入らなかったのだろうか。ノルドは勢いよく振り上げたナイフを──私のお腹に振り下ろした。
そのあまりの痛みに絶叫する。
私の様子を愉しむかの如く、彼は何度も何度もナイフを振り下ろす。私は重度の魔素欠乏で体に力が入らず、抵抗することもままならない。
3人の人影が私を見下ろして嗤っている。
「これは罰だ。お前は我らから女神を秘匿した。ああ、なんて悍ましく傲慢なのか。これだけでは足りない、足りない、足りない!!!」
狂った嗤い声を上げながら、ノルドが執拗に私の体を切り刻み、踏み躙り、痛めつける。
……生きていることを後悔するほどの苦しみだった。
どうしてこんなことに……人とはこんなにも唐突に、容易く地獄へと堕ちるものなのか。
痛い、苦しい、痛い、辛い、苦しい……
でも、何よりも苦しかったのは……一瞬だけでも、アモールちゃんを恨んでしまったことだった。その醜悪さが、何よりも苦しかった。
やはり私は聖女にはなれない。こんな役目なんて放棄して、また遠くへと逃げてしまえばよかったのだろうか。でも、せめて心だけでも聖女らしくありたかったのだ……
ああ、もう死んでしまいたい……
痛い、痛い、痛い…………
腹部から、全身から、熱がこぼれ落ちていく。命がどんどん地面に吸い込まれていく。
「もう声を出す元気もないか? 当然の報いだな」
「ノルド、さっさとトドメを刺して我らの神をお迎えしに参ろう」
熱さが抜けていった先に待っていたのは、凍えるような寒さだった。ああ死ぬのだろうな、と自分を客観視した。
この苦しみから解放されるならそれでいい。
もう心臓も止めてしまおうと、そう思ったとき…………脳裏に浮かんだのは、またもアモールちゃんの姿だった。
あの子が、一人でうずくまって泣いている。どこにも助けを求めずに、たった一人で。
──私が死ねば、一体誰があの子を守ってあげられるの……?
あの哀れで可愛い子を、一体誰が救えるのか。
でも、もうここから生き延びる術を私は持っていない。
私ができることは、もう何もないというのか。あの子を独りで残してしまうことが、ここまで心残りだなんて。
せめて……私があの子の呪いにならないように────
最後の力を振り絞って、感覚のない右手を動かす。髪の隙間から、あの子が着けてくれた髪飾りを手に取る。
隕星花は魔素を保存する力を持っている。貯蔵をしてないから、あまり中身は残っていない。でも、それだけで十分だった。
こんなことしか、私にはもうできないけれど……これが、私の人生最後の魔術だ。
最後が、人を傷つける魔術でなくてよかった。
魔素を失った花が萎れていく。それと同時に、無事に魔術が発動する。
「おい! 何をしている」
私の動きを見たノルドが、ナイフを私の喉へと突き立てる。コポリと、湿った音を立てて口から液が溢れる。
擬似心臓が崩壊していくのを感じた。もう、終わりの時間らしい。
どうか、あの子が化け物になってしまいませんように。ただ、一人の少女として幸せになれますように。
女神様……どうか聞いているなら、この願いだけでも叶えてください。役目を放棄してしまった私だけれど……あの子にはなんの罪もないんです。
ばいばい、アモールちゃん。
最後に目に映ったのは、血を吸って真っ赤に染まった一輪の華だった。




