第9話 重操剣カルヴァロス
王子の部屋。豪奢な調度品が揃えられたそこは、かつて次期国王の私室だった。しかし、今やその主は存在しない。代わりに、暗い灯火の下で向かい合う二人がいる。
リリアナとモブロック。
モブロックはリリアナの話を聞き終え、深く息を吐いた。
「なるほどね……そういうことだったんだ」
リリアナは何も言わず、静かに彼を見つめていた。
「つまり、エーベルハルト家とウィンザー家の軍は、君の計画通りに王都に攻めてきた。王子を倒したタイミングで、王都を制圧するために……」
モブロックは腕を組みながらゆっくりと頷く。
「いやあ、まさかウィンザー家まで動かすとは思わなかったよ。クリスティーナの推理で失脚したあの叔父さんを助け出して、さらに反乱の首魁に仕立て上げるなんてさ。ゲームのイベントでもそんな展開はなかったよ」
リリアナは淡々と微笑むだけだった。
「それで……今につながるってわけなんだね」
モブロックは肩をすくめながら、王子の部屋の豪奢な天蓋付きベッドを見上げた。
王都の外からは、戦の喧騒が遠く響いてくる。
火が放たれ、剣が交わり、人々の悲鳴が交じる音。
それは、リリアナが作り出した「新たな運命」の音だった。
「……で、王子を倒して、王都を制圧して」
モブロックはリリアナの顔をじっと見つめた。
「その後、どうなるの?」
リリアナは微かに目を細め、ふっと視線を外した。
答えない。
モブロックは眉をひそめた。
「すぐにわかりますわ」
そう言うと、リリアナはゆっくりと立ち上がり、バルコニーへと向かう。
モブロックも急いで立ち上がり、その後を追った。
バルコニーから見下ろす王都は、一見すると静かで平和に見えた。
しかし――
ゴゴゴゴゴ……!
不気味な震動が地面を揺るがした。
「まさか……!」
モブロックは息を呑む。
そして、大地が裂けた。
バキバキバキッ……!!
城壁の向こう、地面に無数の亀裂が走り、黒い瘴気が溢れ出していく。
その裂け目から、何かが蠢く気配がした。
ズズズズズ……!!
「な、なんでこいつらがここに……!?」
モブロックの目の前で、黒い影が這い出してくる。
闇そのもののような漆黒の存在。
人間のような姿のものもいれば、四足の獣のようなもの、さらには異形の怪物まで――。
無数の影のバケモノたちが、大地の裂け目から溢れ出してきた。
モブロックは震える声で続けた。
「おかしい……! こんな奴らが出てくるなんて、普通の展開じゃないはずだろ!? なんで……!? そんなはずない……!!」
リリアナはそんなモブロックの反応を見て、静かに目を細める。
「……やはり、知っているのですね?」
モブロックはリリアナの言葉に一瞬戸惑ったように彼女を見つめるが、すぐに視線を影のバケモノたちに戻した。
「こんなの……本来、こういう場面で出てくるはずじゃない……!!」
そして、その群れが一斉に動き出す。
それはまるで、黒い波。
不気味な影たちは、街を襲うことなく、ただ王城を目指していた。
「こっちに来る……!」
モブロックは反射的に後ずさる。
影のバケモノたちは、王城へと一直線に迫ってきた。
ドドドドドッ……!!!
城門へと辿り着く寸前――
バチィィィン!!!
突然、雷のような衝撃が走った。
見えない壁に弾かれるように、バケモノたちは一斉に吹き飛ばされる。
「やっぱり結界が……!」
モブロックは目を見開き、驚きの声を上げる。
リリアナは静かに振り返り、彼を見つめた。
「やはりあなたは、結界のこともご存知なのですね」
モブロックは動揺を隠せずにリリアナに言った。
「でも、どうして……? この結界も、影のバケモノも、本来なら『あのルート』でしか登場しないはずなのに……!」
モブロックは必死に頭を巡らせる。
「いったい何が何やら、何が起こってるのこれ!?もうめちゃくちゃだよ!!」
しかし、リリアナは静かに言った。
「これが私が断罪イベントを生き延びたあとも命を落とした理由です」
モブロックは息を呑む。
影のバケモノたちは、結界の壁を打ち破ろうと、何度も何度も押し寄せていた――。
影のバケモノたちは、なおも王城の結界に向かって突進を続けていた。
バチンッ!バチンッ!
見えない壁に弾かれるたび、黒い霧のようなものが宙に舞い、バケモノの体は瞬間的に形を崩す。しかし、時間が経つごとにその数は増え続け、結界の光も徐々に不安定になっていく。
モブロックは、震える足を押さえつけながら、リリアナの横顔を見た。
「王子を倒し、王城を制圧して……今度こそ生き延びたと思ったのですが…」
リリアナは、静かに語り始めた。
モブロックは息を呑んだ。
「でも結局……こいつらに殺された、ってこと?」
リリアナはバルコニーの欄干に手を置いたまま、わずかに瞳を伏せる。
「ええ。どれだけ戦い、どれだけ足掻いても……最後には殺されましたわ」
彼女の声には、悔しさも、怒りも、もはや滲んでいなかった。まるで、その事実を受け入れたかのような静かな声音だった。
「王子を倒し、王都を制圧し、北と西の軍を手に入れた。それでも戦力が足りなかった……」
モブロックは顔をしかめた。
「影のバケモノ相手に、どれだけ戦っても勝てなかったってこと?」
「ええ。兵士たちは次々と影のバケモノに飲み込まれ、私は剣を振るい続けました。何度も、何度も」
リリアナは目を閉じる。まぶたの裏に、過去の戦場が浮かぶ。
夜の王都に響く断末魔、崩れ落ちる城壁、黒い波に飲み込まれていく兵士たち――。
そして、最後に自分が倒れた瞬間。
(結局、足りなかった)
剣の腕は十分鍛えた。
北と西の軍を手に入れた。
それでも、勝てなかった。
「……でも、それでどうしたの?」
モブロックの声が、リリアナの思考を引き戻す。
「それで、何をしたんだよ?」
リリアナは、ゆっくりと振り返った。
「これですわ」
そう言うと、リリアナはおもむろに剣を差し出した。
モブロックの目に映るのは、これまでリリアナが語ってきた過去の話では一度も使われていなかった剣だった。
そういえば――モブロックは思い出した。
「……これまでの話だと、リリアナはずっと細剣を使っていたよね?」
彼が聞いてきた過去のループでは、リリアナはずっと華麗な細剣を使っていた。
しかし、今、彼女が手にしているのは――巨大な剛剣だった。
「でも……僕が見たのは、これなんだ」
モブロックは思い返す。
あの決闘の場、リリアナが王子と対峙していたとき、彼女はこの剛剣を振るっていた。
モブロックは、リリアナがカルヴァロスを片手で持ち上げる姿を見ながら、思わず言った。
「それにしても……重そうな剣だね。よく持てるね」
リリアナは、その問いにすぐには答えなかった。
ただ、剣の刃を指でなぞりながら、静かに言う。
「この剣…カルヴァロスを手に入れた経緯を、お話ししますわ」
その声音には、どこか遠い記憶を懐かしむような響きがあった。
影のバケモノ――
王子を倒し、王城を制圧し、北と西の軍を手に入れても、結局彼らの猛威には抗えなかった。
剣の腕前はすでに限界。
どれだけ鍛え、どれだけ技を磨いても、己の成長には上限がある。
軍勢の強化も北と西を取り込んだことで、タイムスケジュール上、これが限界。
王都を制圧する計画において、これ以上戦力を増やすことは現実的に難しい。
ならば、次に考えるべきは――
強力なアイテムの確保。
アニメ版『彼方の聖女』では、さまざまな魔法アイテムが登場していた。
隠者の外套(一定時間透明になれる)
守護の指輪(致命傷を一度だけ防ぐ)
聖女の涙(強力な回復アイテム)
封印の腕輪(闇の魔力に対抗する力を持つとされる)
どれも強力な効果を持ち、うまく活用できれば戦力不足を補うことができるかもしれない。
この世界がアニメ版とほぼ同じであるならば、アイテムの位置もまた、原作通りのはず。
(これさえ手に入れれば……!)
希望が生まれた。
これまでのループでは、エーデルハルト公爵の説得方法を確立する前だったため、自由に動くことすらままならなかった。
だが、今は違う。攻略チャートが確定した今、領地内での行動は完全に自由だ。
つまり、アイテム回収のチャンスがある。
リリアナは地図を広げ、アニメ版で登場したアイテムのありかを思い出しながら、探索計画を立て始めた。
(まずは、封印の腕輪……。影のバケモノに対抗するためには、これが最優先ですわね)
手がかりは、アニメ版でクリスティーナが探索していた遺跡の中――。
リリアナは決意を固め、すぐに行動を開始した。
探索の難航
数日後。
リリアナは探索の結果に肩を落としていた。
(甘かった……!)
片っ端からアイテムのありかを巡った。
だが、そこにあるはずのアイテムはすべて消えていた。
――すでに誰かが入手していたのだ。
「……クリスティーナ、ですわね」
リリアナは静かに呟いた。
考えてみれば当然のことだった。現在の時間軸はアニメ版の夏季休暇後半。クリスティーナが主人公として動いているならば、物語の中で彼女が獲得していたアイテムはすべて回収済みである可能性が高い。
(つまり、私が使えるアイテムはもう残っていない……?)
絶望が胸をよぎる。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
何か、まだ残っているものはないのか――
地図を見つめながら考えていたとき、ふと、ある場所が目に留まった。
北と西の間にある、とある泉。
アニメ版にも登場したその泉は、特に重要なスポットではなかった。物語の中では、ただの風景のひとつとして描かれていただけだった。
だが、リリアナは思い出す。
――あの泉には、ひとつだけ妙な描写があった。
剣のようなものが突き立っていたのだ。
劇中では「誰にも抜けない剣」として扱われ、オブジェとしてしか描写されなかった。主人公であるクリスティーナですら手にすることはなかった剣。
(もし、あれが単なる飾りではなかったとしたら……?)
リリアナは剣の持ち主となる可能性を考え、すぐに馬を駆った。
――運命を変えるために。
泉へと辿り着くと、そこはまるで時間が止まったかのように静まり返っていた。
澄んだ水面には、空の青が映り込み、まるで鏡のように世界を反射している。
そして――泉の中央、膝まで浸かるほどの浅瀬に、一本の剣が突き立っていた。
剣の柄は黒く、刃は鈍く輝いている。まるで、この世界に溶け込んでいない異質な存在のようだった。
(本当に……ここにあったのですね)
リリアナはゆっくりと泉へと足を踏み入れた。
ひんやりとした水が足首を包む。しかし、彼女は一切動揺せず、剣のもとへと歩みを進めた。
「抜けるかどうか、試すだけですわ」
小さく呟きながら、リリアナはその剣の柄に手をかけた。
リリアナは冷たい泉の水に指先を触れた。
鏡のように静かな水面に、僅かな波紋が広がる。
アニメでは、ここはただのオブジェに過ぎなかった。
北と西の境界付近にある小さな泉――「忘れられた剣の泉」。
登場人物たちが訪れ、試しに剣を抜こうとするが、誰一人として動かすことができず、結局ストーリーには何の影響も与えなかった場所。
ただの背景の一部だったはずの泉。
だが今、そこには確かに一本の剣が突き刺さっている。
「まさか……」
泉の中央にそびえ立つ岩、その頂に深く突き立てられた巨大な剣。
剣身は黒鉄の輝きを放ち、その柄には見たことのない古代の紋様が刻まれていた。
アニメでは誰も抜くことができなかった――だから、ただのオブジェだった。
だが、それは果たして本当に「誰も抜けない」剣だったのか。
リリアナは、一歩、また一歩と泉の中へと進んでいく。
冷たい水が足を包む。膝下まで沈みながらも、目はまっすぐ剣を捉えていた。
「……」
息を整え、剣に手を伸ばす。
掌が柄に触れると、ほんのりとした熱を感じた。
重厚な鉄の塊。
しかし、指先から伝わるのは不思議と馴染む感触だった。
「――ふっ」
リリアナは力を込める。
過去、アニメのキャラたちはこの剣をびくともしなかった。
だが――
ギギ……ッ!
「……動きましたわ」
剣は、僅かに、だが確かに動いた。
リリアナの心臓が跳ねる。
再び力を込める。
ズズズ……ッ!
泉の水面が波打つ。
剣を押しとどめていた岩が、鈍く軋む音を立てた。
そして――
ザバァァンッ!!
水しぶきが高く舞い上がる。
次の瞬間、剣が岩から解き放たれ、リリアナの手に収まった。
黒鉄の剣――重操剣カルヴァロス。
それは、リリアナの手にしっくりと馴染んだ。
持ち上げてみると、驚くほど軽い。だが、剣自体の存在感はずしりと重かった。
(これが……私の剣)
剣を握る手に、熱が宿る。
泉の水面に映る自分の姿――華麗な細剣を振るっていたこれまでとは違う、剛剣を携えた新たな自分。
その刹那、リリアナは悟った。
「……これなら、勝てますわ」
剣の腕、軍勢、そして今、新たな力。
これで、影のバケモノに抗う術を手に入れた。
リリアナは剣を掲げる。
黒鉄の剛剣は、冷たく光る月明かりを受け、静かに輝いた。
モブロックは唖然とした顔でカルヴァロスを見つめていた。
「……それで、この剣は一体どんな力を持ってるの?」
リリアナは軽やかに剣を持ち上げ、月光の下でわずかに角度を変える。黒鉄の剛剣はまるで闇そのものを映すように鈍く光っていた。
「カルヴァロスは、ただの剣ではありませんわ。適合者が持てば、羽のように軽くなる魔法の剣ですの」
モブロックは首を傾げる。「え、それってつまり?」
「普通の人間が持とうとすると、地面に根を張ったかのように動かなくなりますわ」
リリアナは無造作にカルヴァロスをモブロックの前に差し出した。