第7話 西辺へ
「…………」
静寂が支配する。
「この剣筋……」
公爵は驚きに満ちた目で、自分の首元に添えられたレイピアを見た。
「剣の師は……セドリック・モルデン殿か?」
「ええ」
リリアナは剣を収める。
「彼の教えを、何度も繰り返す世界の中で積み重ねてきましたの」
公爵はわずかに息を吐き、剣を下ろす。
「……分かった」
その声音は、これまでとは違う――確信に満ちたものだった。
「貴様の剣の腕、確かに見せてもらった。これほどの者ならば、王子にも勝てるだろう」
公爵はしばらくの間、静かに視線を注いでいた。そして、長い沈黙の後、ようやく重い口を開いた。
「――この国を取るか」
その言葉は、呆れとも興味ともつかない響きを帯びていた。
エーベルハルト公爵は、リリアナの真剣な眼差しを受け止め、再び深い沈黙に沈んだ。
その瞳には、複雑な感情が浮かんでいるように見える。
リリアナは胸の内で焦りを感じつつも、父の判断を待った。彼の口から出る次の言葉が、すべてを決する。
やがて公爵は静かに立ち上がり、窓の外を見やった。
遠くに広がる青空と公爵領の広大な土地が彼の視界に映る。
「これも……天命か」
その一言は、まるで独り言のように静かだった。
しかし、その声には確かな覚悟が宿っていた。
リリアナは息を呑み、公爵の次の言葉を待つ。
「聖女の出現、国の乱れ、そしてリリアナに宿った貴様……」
公爵は振り返り、リリアナを真っ直ぐに見つめた。
「天が私に天下を取れと言っているのかもしれない」
その言葉に、リリアナの胸が高鳴った。
彼の言葉には、迷いも疑念も感じられなかった。
まるで天秤が大きく傾いた瞬間のように、公爵の心が定まったのを感じ取れた。
「エーベルハルト公爵……それでは……!」
リリアナの声には興奮と希望が滲み出ていた。
「国盗り、承った」
「貴様の計画を話せ。これから私たちは、この国を取るために動く」
公爵の瞳に宿る鋭い光は、彼がすでに次の一手を考えていることを物語っていた。
リリアナは深く頭を下げた。
「ありがとうございます……エーベルハルト公爵」
その言葉には、これまで積み重ねてきた幾多のループの果てにようやく得た"共闘者"への深い感謝が込められていた。
(これで……準備は整いましたわね)
王子を討つだけではない。王都を制圧し、国を取るための第一歩――それが、今、確かに踏み出されたのだった。
エーベルハルト公爵との話し合いは夜遅くまで続いた。
リリアナが持つループの力、そしてそれを活用した計画について、父と娘は綿密に戦略を練った。
「まず、我々が目指すべきは中央の王都を制圧することだ。しかし、それを実現するには、私たち北辺の力だけでは不足だ」
エーベルハルト公爵は地図の上に手を置きながら、威厳を込めて語った。
「この国には東西南北、四つの公爵家がある。私はその中でも北を任されているが、残る三家の存在を無視するわけにはいかない」
リリアナは地図を見つめ、冷静に頷いた。
「東西南の中で、最低でも一箇所を味方に引き込む必要がある、ということですわね」
公爵は地図に視線を落としながらゆっくりと頷いた。
「その通りだ。だが、南については今回のループ期間内での接触は現実的ではない。王都を挟んでいる以上、動くだけで貴重な時間を浪費することになる」
リリアナも父の言葉に同意するように地図を指した。
「では、東と西に絞るべきですわね」
公爵の目が東側に移り、その鋭い視線が地図を貫くようだった。
「東の公爵家は、王家に対して絶対的な忠誠を誓っている。王子アレクシスの母親は東の出身だ。ゆえに、どれほど有利な条件を提示しようとも、東を動かすことは不可能と見ていい」
リリアナは眉をひそめた。
(王家に直結する関係……それでは、東を味方に引き込むのは望み薄ですわね)
公爵は続けて、西側を指差した。
「だが、西は違う」
その声には明確な自信があった。
「ここ数年、西側の公爵家は王室からの支援を削られ、不満を募らせているという情報がある。彼らは、王室に対して明確な不満を持つ数少ない勢力だ。ここを押さえれば、我々の目的に大きく近づく」
リリアナはその情報に興味を示しながら頷いた。
「つまり、西側には交渉の余地があるということですわね」
「その通りだ」
公爵の声には威厳と確信が込められていた。
「まずは東西の状況を徹底的に洗い出し、特に西の公爵家との交渉に全力を注ぐ。そして君の力――ループを最大限に活用し、この計画を実現させるのだ」
リリアナ・フォン・エーベルハルトは、馬上で静かに目を閉じた。
夏の陽が降り注ぐ中、西方への道は果てしなく続いている。
彼女の目的地は ウィンザー家――エーベルハルト公爵に匹敵する勢力を誇る、西部の名門公爵家である。
「ウィンザー家を味方につける」
それが、この旅の目的だった。
手にはエーベルハルト公爵からの書状がある。
王家に反旗を翻す覚悟を決めた父が、正式にウィンザー家へ宛てた親書。
リリアナはこの書を携え、堂々とウィンザー公爵に謁見し、協力を求めるつもりだった。
エーベルハルト公爵と立てた計画通り、リリアナは西の公爵家――ウィンザー家との協力を取り付けるため、現地に向かうことを決めた。東側は王家との結びつきが強く、協力の余地がない以上、西側に望みをかけるしかなかった。
ウィンザー公爵家の領都に近づく頃、街道沿いにはすでに警備が強化されていた。
リリアナは馬を駆りながら、遠くに見える城塞都市を見据える。
(まぁ、当然ですわね。父様が事前に使者を送ってくださったのですもの)
リリアナが到着する数日前、エーベルハルト公爵からの使者が早馬でウィンザー家に書状を届けていた。
書状には、**「公爵の名代として娘のリリアナが直接交渉に向かう」**と明記されていた。
もちろん、ウィンザー家はエーベルハルト公爵の軍事力を熟知している。
(正統な交渉の場ならば、書状を持つ使者が来るのは当然)
ただし――。
「まさか、その使者がリリアナ・フォン・エーベルハルトだとは思わなかったがな」
リリアナの到着を待ち構えていたウィンザー家の騎士長が、皮肉交じりに呟いた。
彼の背後には、ウィンザー家の領主館へと続く石畳の道が続いている。
「王都でも悪名高いリリアナ様が、単身で来訪とは……これが噂に違わぬ大胆さというやつか」
「光栄ですわね」
リリアナは涼しい顔で微笑んだ。
「ですが、私は単に父の命を受けたまでのこと。貴族として当然の務めを果たしているだけですわ」
「そうか」
騎士長はリリアナの姿を上から下まで観察するように目を細めた。
「エーベルハルト公爵閣下の名代として書状を届けに来たというが、リリアナ様ともあろうお方が、こんなにも身軽な格好とはな」
彼の言葉には明らかに警戒の色が滲んでいた。
リリアナは確かに単身でここまで来た。
従者も護衛も伴わず、貴族としては異例の行動だ。
「当然の警戒ですわね」
リリアナは素直に認めた。
ならば、話は早い。
「ウィンザー公爵閣下にお目通り願います。エーベルハルト公爵閣下からの親書をお持ちいたしました」
騎士長はしばらくリリアナを見据えた後、手を振った。
「……公爵閣下に伺いを立てよう。こちらへ」
ウィンザー公爵の執務室へ向かう途中、不意に脇から声がかかった。
「やあ、本当に君が来るとはね」
リリアナは足を止め、声のした方へ顔を向ける。
そこに立っていたのは、セシル・ヴァン・ウィンザーだった。
貴族院時代の同窓生。
ウィンザー公爵家の次男。
そして、かつてリリアナが目の敵にしていたクリスティーナの支持者の一人。
(……やっぱり出てきましたわね)
リリアナがセシル・ヴァン・ウィンザーと出会った話を語ると、モブロックの目が驚きで見開かれた。
「え!セシルと会ったの!?嘘でしょ!彼、アニメには出てなかったけどゲームだと攻略キャラの一人なんだよね!知的でスマートでちょっと影があって……まさに優男系!いやー、セシルってマジで人気だったんだよ!ファンアートもめっちゃ描かれてたし、声優も有名な……」
リリアナはそんなモブロックの熱弁に、冷めた表情を浮かべて肩をすくめた。
「あ、そうなんだ。別に私はゲームのことまでは知らないから、気にしていませんわ」
「いやいやいや!気にしてないってどういうこと!?彼、ゲームではめっちゃ重要なポジションだったんだよ!」
モブロックはなおも興奮気味に食い下がる。
リリアナはモブロックの様子にわずかに呆れながらも、話を続けた。
「まあ、そういう人だったのですわね。それで?」
「それで!?それで、って……!」
モブロックは額に手を当てながら、リリアナの冷静さに肩を落とした。
リリアナはモブロックの熱弁を一蹴するように手を軽く振った。
「話を戻しますわね」
その一言で、モブロックはあからさまに不満げな顔をしたが、口を閉じて大人しく聞く体勢に入った。
「久しぶりですわね、セシル・ヴァン・ウィンザー」
リリアナは冷静に挨拶を返す。
セシルは相変わらず柔らかな笑みを浮かべていたが、その目はどこか冷ややかだった。
「まさか君本人が来るとはね」
彼は軽く肩をすくめながら、リリアナをじっと見つめる。
「使者が来るとは聞いていたけど……」
彼はリリアナの顔をじっと見つめ、ふと眉をひそめた。
「……なんか、君、雰囲気が変わった?」
(なるほど、彼は私の変化を感じ取っていますわね)
リリアナは表情を崩さずに微笑む。
「そうですの?」
「貴族院にいた頃の君なら、もっと横柄で、言葉も態度もトゲだらけだったはずだ」
セシルはそう言いながら、じっとリリアナを観察するように目を細めた。
「まさか、ここに来て改心でもしたのかい?」
「ご想像にお任せしますわ」
リリアナは静かに答えた。
(どう答えようが、彼の中での私はクリスティーナを苛めた悪役のままですもの)
セシルは肩をすくめる。
「まあ、どうでもいいさ。僕が君を信用しないことに変わりはない」
(やっぱり、そう来ますわね)
リリアナは小さく息を吐いた。
「信用されるかどうかは問題ではありませんわ」
「……へえ?」
「私は、貴方に理解していただく必要はないのです」
リリアナは優雅にスカートの裾を翻し、セシルを真正面から見据える。
「私がここに来たのは、ウィンザー公爵にお会いするため」
セシルの目がわずかに細まる。
「ウィンザー公爵は、君を歓迎するつもりはない」
「ええ、承知の上ですわ」
リリアナはそれだけを言い残し、再び足を進めた。
背後でセシルが小さく呟く。
「……さて、どうなるかな」
ウィンザー公爵の執務室に案内されたリリアナは、慎重に部屋の中を見渡した。
立派な書棚と豪奢な調度品。だが、それらの一部は手入れが行き届いておらず、かすかな劣化が見て取れた。
(やはり、資金繰りが厳しいようですわね)
ウィンザー家が王家からの支援を削られ、苦境にあることは既に情報として得ていた。
だが、こうして目の当たりにすると、彼らが追い詰められている現実がひしひしと伝わってくる。
「……リリアナ・フォン・エーベルハルト、よく来たな」
執務机の向こうに座るのは、ウィンザー公爵――ガウェイン・ヴァン・ウィンザー。
壮年の威厳を備えた男だが、どこか苛立ちを滲ませていた。
「公爵閣下、お目通り感謝いたします」
リリアナは恭しく一礼し、懐から書状を取り出した。
「父・エーベルハルト公爵閣下よりの親書をお持ちいたしました。どうかご覧くださいませ」
ウィンザー公爵は書状を受け取ると、封蝋を割り、静かに目を通す。
しかし――。
数行読んだところで、彼の表情が一変した。
「……貴様、これは何のつもりだ!?」
机を叩き、立ち上がるウィンザー公爵。
その怒気をはらんだ視線が、リリアナを真正面から射抜いた。
「王家に刃を向けるつもりか!? エーベルハルト公爵は正気なのか!?」
書状の内容は、端的に言えば王家への謀反の誘いだった。
王太子アレクシスを討ち、王家を排除し、新たな秩序を築く――それこそがリリアナの目的。
(まあ、当然こうなりますわよね)
リリアナは冷静に公爵を見上げる。
彼の反応は予想通りだった。
「エーベルハルト公爵家が謀反を企てるなど、狂気の沙汰だ!」
「貴様らの家がどうなろうと知ったことではないが、ウィンザー家を巻き込むな!」
その怒声に、部屋の外で控えていた騎士たちがざわめく。
「……失礼しましたわ」
リリアナは静かに、しかし躊躇なく懐に手を伸ばした。
ウィンザー公爵の目が警戒の色を宿す。
そして次の瞬間――リリアナは懐から小瓶を取り出し、一気に煽った。
「!?」
ウィンザー公爵の目が大きく見開かれる。
「貴様、何を――!?」
「毒ですわ」
その一言に、部屋の空気が凍りつく。
リリアナは喉を押さえ、苦しむ素振りを見せながら、ふらりと膝をついた。
「これで、私を捕らえても無意味ですわね……」
「……貴様」
ウィンザー公爵の表情が険しくなる。
リリアナの視界がゆっくりと閉じていく。
寒気が背筋を駆け抜け、指先から力が抜けていくのを感じた。
それでも、最後に浮かんだのは苦痛ではなく、むしろどこか満足した微笑みだった。
(やはり……正攻法ではダメでしたわね……)
そして、意識は完全に途絶えた。