第6話 親と子と
「まずは姿勢からです。背筋を伸ばし、視線を下げすぎず、余裕を持つことが大切です」
「歩き方にも気をつけてください。足音を立てず、滑らかに……」
「笑い方ひとつも品位を表します。大声で笑うのではなく、上品に……」
食事の作法、会話のマナー、扇子の使い方まで、すべてを学び直す日々。
リリアナは貴族令嬢として当然身につけているはずの所作を、一からやり直した。
(これもすべて、国を取るため……)
何よりも大切なのは、周囲の評価を変えること。
エーベルハルト公爵に認められるため、そして貴族社会での自分の立ち位置を変えるため。
彼女は、かつての「傲慢なお嬢様」から、真の「公爵令嬢」へと生まれ変わる覚悟を決めたのだった。
翌日から、リリアナの徹底的な教育が始まった。アンナは一切容赦しない。
「リリアナ様、歩き方が乱れています。もっと背筋を伸ばし、優雅さを意識してください」
「ダンスのステップが甘いです。もう一度最初からやり直しましょう」
「ピアノの鍵盤を叩くのではありません。指先に力を込めすぎず、もっと繊細に――」
リリアナは汗を流しながらも、一つひとつの課題に真摯に向き合った。
何周ものループを繰り返しながら、リリアナは確実に変わり始めた。ピアノの音色は美しくなり、ヴァイオリンの弓使いも滑らかに、ダンスホールでのステップも優雅さを増していく。
「素晴らしいです、リリアナ様」
アンナは満足げに微笑んだ。
「ありがとうございます、アンナ。この成果をお父様に見せるのが楽しみですわ」
リリアナは胸を張りながら、かつての自分とは違う自信に満ちた笑みを浮かべた。
何度目かのループを経て、リリアナはついに自信を持って父親に会う準備を整えた。
長い間積み重ねてきた鍛錬の成果が、自分の中に確かな手応えとなって感じられている。
鏡の中に映る自分の姿は、かつての彼女とはまるで別人だった。
「これなら……大丈夫ですわ」
リリアナは息を整え、父エーベルハルト公爵の執務室へと向かった。
「お父様、少しお時間をいただけますでしょうか?」
リリアナはドアをノックし、丁寧に挨拶をする。その姿は、以前の無作法な態度とはまるで違っていた。
「リリアナか。入れ」
公爵の声は淡々としていたが、リリアナは動じなかった。
静かに部屋に入り、優雅にスカートをつまみ、一礼をする。
「お父様、今日はご相談がありまして参りました」
その挨拶だけで、公爵の目がわずかに細められる。
「ふむ。相談とはなんだ?」
公爵は興味を隠しきれない様子で椅子に座り直した。
「もしよろしければ、少しだけ演奏をお聞きいただけませんか?」
「ほう……構わん」
公爵は興味を持ったように頷いた。
リリアナは椅子に座り、ピアノの鍵盤にそっと手を置いた。
深く息を吸い込み、静かに奏で始める。
それは亡き母が生前、好んで演奏していた曲だった――
リリアナが事前にリサーチして選んだ、父の好きな曲。
美しい旋律が執務室に広がる。
音のひとつひとつが感情を帯びて、優しくも力強く響く。
リリアナの指先は迷うことなく鍵盤を駆け抜け、曲が終盤に差し掛かると、その演奏は一層の深みを帯びていった。
公爵は驚いたような、あるいは何かを思い出すような、真剣な表情を浮かべていた。
だが、そこには喜びの色はなく、むしろ何か重たいものを抱えているようだった。
(これでお父様は喜んでくださるはず……そう思っていたのに。どうしてですの……?)
リリアナは内心で動揺を隠せなかった。
自信を持って選んだ曲が、思いもしない反応を引き出していたのだ。
演奏が終わると、リリアナは顔を上げ、父の顔を見た。
しかし、公爵の表情は変わらず難しいままだった。
(演奏は完璧だったはずですわ。それなのに……いったいどうして?)
リリアナの心に焦りが広がる。
次の瞬間、父がゆっくりと口を開いた。
「お前は誰だ」
その一言が執務室に静かに響いた。
リリアナは息を呑み、ぎょっとした表情で父を見つめる。
「……何をおっしゃっているのですか? 私はリリアナですわ。あなたの娘です」
だが、公爵は首を横に振った。
その目は冷静で、どこか探るような光を湛えていた。
「違う。お前はリリアナではない」
その言葉に、リリアナは思わず立ち上がった。
「どういうことですの!? 私は間違いなくリリアナですわ!」
執務室に重い沈黙が流れる中、公爵は深く息をつき、静かに口を開いた。
「分かるさ」
その言葉に、リリアナは目を見開いた。
「たったひとりの血を分けた娘なのだから」
その声には怒りや疑念ではなく、静かな確信が宿っていた。リリアナは言葉を失い、父の目を見つめることしかできなかった。
公爵は椅子から立ち上がると、ゆっくりとリリアナの方へ歩み寄る。
「本当のことを話してくれないか、リリアナ」
その言葉は、決して責めるものではなかった。だが、その真剣な響きに、リリアナの胸の奥が大きく揺れ動いた。
(本当のこと……。言えるわけがありませんわ。こんな話をすれば、お父様にどう思われるか……)
リリアナはしばらく押し黙ったままだった。だが、公爵の目は真っ直ぐに彼女を見つめ続けている。その視線に、リリアナは逃げ場を失った。
「……分かりましたわ」
リリアナは小さく息をつき、視線を落とした。
「何からお話しすればいいのか分かりませんが……私が、この国のリリアナ・フォン・エーベルハルトではないということは確かです」
その言葉に、公爵は眉をひそめたが、口を挟むことなく耳を傾けた。
「私は……元々、この世界の人間ではありませんでした。気がついたらリリアナになっていて、そして……何度も何度も死んでは、目覚める、という時間を繰り返しています」
リリアナは、自分が異世界から転生してきたこと、転生先でこの世界が乙女ゲームの世界だと気づいたこと、そして運命を変えようと何度も試行錯誤し続けてきたことを話し始めた。
「このループは、私が死ぬことで始まります。断罪されても、殺されても、必ず一ヶ月前に戻るのですわ。最初は意味が分かりませんでした。けれど……繰り返すうちに、これは運命に抗えということだと理解しました」
リリアナの声は震えながらも真剣で、嘘偽りのない言葉がそこにあった。
「……そして今、私は運命を変えるためにこの国を取るしかないと決めたのです。それが、私が生き延びる唯一の方法だと……」
すべてを語り終えたリリアナは、父の反応を待つ間、心臓の鼓動が聞こえるほどの緊張感に包まれていた。
公爵は一言も発せず、じっと彼女を見つめている。その瞳の中には、複雑な感情が渦巻いていた。
(これでお父様に何と言われるのか……私は一体、どうすればいいのですの……?)
リリアナの瞳に不安の色が浮かぶ中、公爵が静かに椅子に座り直し、口を開いた。
リリアナがすべてを語り終えた執務室は、張り詰めた沈黙に包まれていた。父エーベルハルト公爵は椅子に深く座り直し、しばらくの間リリアナを見つめていた。
「……本当に驚いたよ」
静かにそう呟いた公爵の声には、怒りや疑念はなかった。ただ、深い考えに沈んでいるようだった。
リリアナは緊張に耐えきれず、拳をぎゅっと握りしめたまま視線を落とした。そんな彼女に気づいた公爵は、ゆっくりと口を開いた。
「母親がいなかったせいか……甘やかしてしまったんだ。わがままに育ててしまった」
その言葉にリリアナは顔を上げる。公爵の視線は遠く、まるで過去を思い返しているかのようだった。
「小さい頃のリリアナは、よく泣いていた。母親がいない寂しさをどう埋めればいいのか、私には分からなかった。だから、彼女が望むことを何でも与えてしまったんだ」
公爵の声には寂しさが滲んでいた。
「そして、気がついたら……自分勝手で手のかかる娘になっていた。だが、それでも私は構わないと思っていたよ。たったひとりの娘だったからな」
リリアナは黙ってその言葉を聞いていた。中身が転生者である彼女には、この話はまるで自分とは関係のない物語のように思えた。それでも、父が語る「リリアナ」の姿を知ることで、胸の奥に奇妙な感情が広がっていくのを感じた。
公爵は一度言葉を切り、深い息をついた。
「……だからかな」
その一言は、驚くほど静かだった。
「リリアナの心が消えてしまい、君がリリアナに宿ったというのは、天罰なのかもしれない。本当にバカな娘だ」
公爵はそう言いながら、どこか寂しげな笑みを浮かべた。その表情を見たリリアナは、何か胸を締め付けられるような思いに駆られた。
「まったく、親不孝ものめ」
エーベルハルト公爵の呟きが執務室に静かに響いた。その声には、愛情と後悔が入り混じっていた。
リリアナはその言葉をどう受け止めればいいのか分からず、ただ黙って父の言葉に耳を傾けていた。
執務室に再び静寂が訪れる。
公爵の「親不孝ものめ」という言葉が、リリアナの胸に重くのしかかっていた。
しかし、今は立ち止まる時ではない。
リリアナは深呼吸をし、決意を込めて口を開いた。
「エーベルハルト公爵……私の目的について、もう一度お話させていただきますわ」
公爵は彼女の言葉に耳を傾け、静かに頷いた。
「私の目的は、元の世界に帰ることです」
その言葉に、公爵の目がわずかに見開かれる。だが、彼は口を挟むことなく、リリアナの言葉を待っていた。
「この世界に来て、気がつけばリリアナ・フォン・エーベルハルトとして生きていました。そして、この世界が何度も繰り返される奇妙な現象……ループ。それには何かしらの理由があるはずだと考えています」
リリアナは机の上に広げられた地図に視線を落としながら続けた。
「その理由が魔法など人為的なものなのか、それとも神の思し召しかは分かりません。ただ、一つだけ確かなのは――私はその答えを探る必要があります。そして、元の世界に戻るためには、まず生き延びなければならないのです」
公爵は黙ってリリアナを見つめていた。その瞳に浮かぶ感情は読み取れないが、リリアナは怯むことなく言葉を続けた。
「エーベルハルト公爵。この国を取ることは、私が生き延びるために必要不可欠な手段です。そして、それを実現するためには……公爵の力がどうしても必要なのです」
リリアナの声には、これまでにないほどの決意が宿っていた。
「どうか私に協力していただけませんか」
「つまり、お前は自分が生き残るという個人的な目的のために、国を盗ろうというのか?」
彼の声音は静かだったが、その内側に冷徹な批判が込められているのは明白だった。
しかし、リリアナは知っている。
「お父様」彼女は小さく笑みを浮かべた。「アニメ版では、公爵家は私の追放後に謀反を企んでいたことがバレて、爵位剥奪の上、北へ追放されていましたわ」
公爵の瞳が微かに揺れる。
「つまり、もともと謀反は考えていたということでしょう?」
「……そこまで分かっていたのか」
公爵は目を閉じ、しばし沈黙する。だが、やがて低く笑い、ゆっくりと瞳を開いた。
「なるほど……得心がいった」
そう呟いた後、公爵は立ち上がり、リリアナを真っ直ぐに見据えた。
「しかし、最後に確認させてもらいたい」
彼の目が鋭く光る。
「貴様は、本当にアレクシスに勝てるのか? それほどの腕を持っているのか?」
リリアナは微動だにせず、まっすぐに公爵を見つめた。
「ええ」
「ならば、その腕を見せてもらおう」
公爵の手が剣の柄を握る。
「――私の軍を動かすのならば、それに値する力があると証明しろ」
リリアナは静かに立ち上がった。
公爵家の屋敷、そのホール。
ここは本来、晩餐会や舞踏会に使われる広い空間。しかし今、その場にいるのはただ二人だけ。
エーベルハルト公爵が剣を抜き、正眼に構える。
「私は北方異民族との戦で幾度も命を賭けてきた。剣に関しては王国内でも一流と呼ばれる腕だ」
リリアナは鞘からレイピアを抜き、柔らかく構えた。
「ええ。でも、それでも足りませんわ」
公爵は眉をひそめる。
「なに?」
「お父様がどれほどの戦士でも、王子アレクシスには及ばない。あの人は、この国の剣術の頂点に立つ者。私は、そんな彼を相手に勝たなければならないのですわ」
言葉と同時に、公爵の気配が変わった。
「……ならば、見せてもらおう!」
床を蹴る音と共に、公爵が鋭い突きを繰り出す。無駄のない動き、洗練された剣筋。
だが、リリアナはそれを知っていた。
(王子の剣と比べれば、速さが違いますわ)
公爵の一撃が来る瞬間、リリアナは足を半歩引き、わずかに身を傾ける。
刹那、空を切る剣閃――リリアナは公爵の斬撃を受け流し、同時に懐へと入り込む。
「――!」
公爵の視界が、一瞬でリリアナの剣に覆われた。
首筋に、冷たい鋼の感触。
決着は、一瞬だった。