第4話 柔の剣
庭の奥へと進むと、見覚えのある銀髪の男がいた。
セドリック・モルデン――かつての軍師であり、剣の達人であり、リリアナにとって唯一の「師」となった男。
彼はいつものように、一本の木の下に立ち、サンキライの花を見つめている。
その姿に、リリアナは胸の奥が妙にざわつくのを感じた。
「モルデン様」
静かに声をかけると、セドリックが顔を上げた。
その銀の瞳が、穏やかにリリアナを捉える。
「これは、サンキライという花ですわ。そして、その花言葉は――『不屈の心』」
リリアナの言葉に、セドリックは一瞬だけ目を細めた。
やがて、静かに微笑む。
「……そうですか。『不屈の心』……良い言葉ですね」
「覚えていらっしゃらなかったのですか?」
「いや、忘れていたわけではないのですが……不思議と、今のあなたにその言葉を言われると、改めて心に響くものがあります」
リリアナはその言葉の意味を深く考えず、軽く肩をすくめた。
「それなら良かったですわ」
セドリックはしばしサンキライの花を眺めたあと、リリアナに視線を戻した。
「さて、リリアナ様。今日はいかがなさいましたか?」
リリアナは迷わず、一歩前へ踏み出す。
「私に、剣を教えていただけませんか?」
セドリックはしばらくリリアナを見つめた。
その目は、彼女の覚悟を見極めるかのように静かに揺れていた。
やがて、短く息をつきながら口を開く。
「……お嬢様が本気で学びたいとおっしゃるのであれば、力をお貸しいたしましょう」
「ありがとうございます、モルデン様」
リリアナは深く頭を下げた。
その仕草には、彼女の決意と感謝が込められていた。
それからの日々、リリアナは再び剣の修行に打ち込んだ。
だが、何をどう試みても、アレクシスには勝てなかった。
身体強化の魔法を使えば、動きが雑になり隙が増える。
炎を纏った剣は、相手に容易く見切られた。
毒の仕掛けは、そもそも攻撃が当たらない限り意味がなかった。
策はことごとく破られ、彼女は次第に自信を失いかけていた。
そんなある日、セドリックが木剣を構えたまま静かに言った。
「お嬢様」
「……はい?」
「お捨てなさい」
リリアナは訝しげに眉をひそめる。
「捨てる、ですか?」
「ええ」
セドリックは真剣な眼差しでリリアナを見据えた。
「お嬢様の努力はよく分かります。しかし、それがすべて逆効果になっているのです」
「どういうことですの?」
「魔法、仕掛け、毒……確かに、それぞれに可能性はあるでしょう。しかし、どれも中途半端なのです」
リリアナは木剣を握り直す。
「……中途半端?」
「ええ。お嬢様には剣の筋が少しはあります。それでも凡人の域を出ません。それなのに、魔法や小細工といった才能の乏しい分野にも手を伸ばしている」
セドリックは静かに首を振った。
「結果、どれも身についておらず、全てが中途半端になっているのです」
その言葉に、リリアナは言葉を失う。
「お嬢様が、それでも強くなりたいとお考えならば――答えは一つです」
リリアナはその言葉を待つように顔を上げた。
セドリックの瞳には鋭い光が宿っていた。
「剣以外の全てをお捨てなさい」
「剣以外の全てを……?」
リリアナの声には戸惑いが混じる。
「無駄を削ぎ落とし、剣を極めるのです。小手先の策に頼るのをやめ、剣だけを見据えてください」
セドリックは一歩近づき、リリアナの木剣を指差した。
「無駄を削いで、削いで、削ぎ抜いた先に――お嬢様にとっての剣の頂が現れるはずです」
リリアナは深く息を吐き、木剣を見つめる。
(剣の頂……)
「……分かりましたわ」
静かに頷くその瞳には、もう迷いはなかった。
それから、リリアナの戦いと修行の日々が繰り返された。
セドリック・モルデンのもとでの一ヶ月の修行。
王子アレクシスとの決闘。
敗北。
そして、再び戻る最初の一ヶ月。
最初の周回では、多少剣に覚えがある未熟な令嬢だった。
だが、50周目を迎えた頃には、セドリックの目にも明らかな変化があった。
「……驚きましたね、リリアナ様」
リリアナが木剣を構えると、セドリックは微かに目を細めた。
「なにか?」
「……いえ。リリアナ様の剣はすでに熟練の域にあります。動きは洗練され、まるで何年も鍛錬を積んできた剣士のように見えます」
リリアナは微笑みながら、さらりと答える。
「前の師匠の教え方が良かったのですわ」
「ほう……?」
セドリックは少しだけ驚いたように首を傾げた。
「では、その師匠とやらに会ってみたいものです」
(まあ、あなたなんですけどね)
リリアナは心の中で微苦笑しながら、木剣を構え直した。
さらに周回を重ねるごとに、セドリックの評価は変わっていった。
この周回での初日、セドリックは庭でリリアナを見つけたとき、わずかに目を細めた。
「……リリアナ様」
彼は静かに木剣を差し出しながら、まるで試すような目でリリアナを見つめる。
「どうかしました?」
「いえ。リリアナ様は……初日から、随分と剣に馴染んでいらっしゃるようですね」
リリアナは涼しげに微笑んだ。
「そう見えますか?」
「ええ」
セドリックは静かに剣を構え、リリアナの動きを確かめるように軽く打ち合いを始めた。
そして、一太刀目――。
鋭い音と共に、セドリックの剣が弾かれた。
「――!」
セドリックの目が一瞬、大きく見開かれる。
(この手応え……!)
リリアナの剣捌きは、完全に剣士のそれだった。
迷いのない攻撃。洗練された動き。
無駄がなく、研ぎ澄まされた技。
――最近剣を握ったばかりの少女のそれではない
だが、さらに続く打ち合いの中で、セドリックの驚愕は更に深まっていった。
リリアナの剣は流れるように、しなやかに、それでいて鋭く的確に急所を狙ってくる。
その剣筋は……すでに熟練の域を超えていた。
(まるで自分と打ち合っているかのようだ……!?)
一合、二合、三合――。
もはや試し合いではない。
セドリックの表情はいつの間にか、真剣そのものになっていた。
そして十合目、セドリックはついに木剣を下ろし、息を吐いた。
「……信じられません」
リリアナは優雅に木剣を収め、彼の言葉を待った。
「リリアナ様……もはや、技量だけなら私を超えているのでは?」
セドリックの声には、心の底からの驚きが滲んでいた。
「そんなことはありませんわ」
リリアナはにっこりと微笑みながら、さらりと答える。
「前の師匠の教え方が良かったのです」
――この少女は、何かが違う。
この剣は、ただの訓練では身につかない。
何百回、何千回と実戦を積み重ねた者の動きだった。
(……まるで、死線を何度も潜り抜けた剣だ)
そう思いながらも、セドリックはただ静かに木剣を構え直す。
「……もう一戦、お付き合い願えますか?」
リリアナは口元に微かな笑みを浮かべた。
「ええ、喜んで」
幾度となく繰り返した修行と決闘の中で、リリアナは気づく。
剣を振るう経験は持ち越せても、筋力や身体の鍛錬はリセットされる。
何百回訓練を積もうとも、一ヶ月経てばまたゼロからの肉体。
それが意味するものは――武器の選定が最も重要である ということ。
最初は一般的なブロードソードを使っていたが、それは彼女の細い腕には重すぎた。
動きにキレがなくなり、剣を振るうたびにわずかに遅れが生じる。
次に試したのは短剣。
だが、それでは王子アレクシスの間合いに届かず、接近する前に斬られてしまう。
何度も、何度も、最適解を模索した。
そして、ある日ようやく気づいた。
――私に最も合う剣は、細剣。レイピア。
軽く、細やかな動きに適しており、手数で戦うのに向いている。
アレクシスの強大な剣圧を正面から受けるのではなく、受け流し、躱し、突きで仕留める。
「これですわ……!」
初めてレイピアを握ったとき、リリアナは確信した。
これこそが、私にとって最適な剣。
ある日、修行の最終日。
セドリックがいつもの木剣ではなく、一本の細身の剣を手にしていた。
「……モルデン様?」
リリアナが訝しげに問いかけると、セドリックは静かに微笑んだ。
「リリアナ様。どうやら、貴方の剣はすでに決まっているようですね」
そう言って、彼はレイピアをリリアナへと差し出す。
「これは……?」
「リリアナ様の腕に合うよう、馴染の鍛冶師に作らせました」
リリアナは息を呑んだ。
「……私に?」
「ええ」
セドリックはゆっくりと頷いた。
「免許皆伝です。私が教えられることはすべて教えました。もっとも……リリアナ様の剣はすでに完成の域にある様子でしたので、私がどれほどお役に立てたか……」
彼は言葉を切り、一拍置いてから、少しだけ柔らかい表情を見せる。
「この剣は、そんな出来の良すぎる弟子への、ささやかな贈り物です。受け取ってください」
リリアナの心が、一瞬震えた。
(私は、この人の弟子なのですね……)
ループを繰り返し、数えきれない死と戦いを経てきた彼女にとって、「弟子」という言葉は新鮮だった。
これまで何度もセドリックに剣を学んだが、正式にそう認められたことは一度もなかった。
「……ありがとうございます」
静かにレイピアを受け取り、リリアナは剣を構えた。
驚くほど馴染む。まるで、最初から彼女のために作られた剣のように。
「よく似合います」
セドリックが穏やかに言う。
リリアナはレイピアを軽く振り、その感触を確かめる。
(この剣で……必ず……!)
新たな決意を胸に、リリアナは一閃を放った。
その剣筋は鋭く、無駄がなく、美しかった。
そして100周目を超えたとき、ついにリリアナの剣はアレクシスの命に届いたのだ